バズ・ラーマンとグレン・オブライエンが語るボウイとサウス・ブロンクス

映画監督バズ・ラーマンが、作家グレン・オブライエンのテレビ番組『Tea at the Beatrice』に登場。ふたりはバズの成功の秘密から、サウスブロンクスにくすぶるクリエイティビティ、デヴィッド・ボウイが放った変革のパワーまで、興味深いトピックについて語った。

by Emily Manning
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04 October 2016, 2:40am

'The Get Down,' still courtesy Netflix

クリエイティビティ=ルールを破る
バズ・ラーマンのデビュー作となった『ダンシング・ヒーロー』(1992)は、1994年、監督がまだシドニーのオーストラリア国立演劇学院の生徒だったときに書いた戯曲からの映画化だったそうだ。この戯曲は高評価を得て、その波に乗ってラーマンは劇団を旗揚げ、これが音楽業界の重鎮テッド・アルバートの目に留まった。テッド・アルバートはラーマンに戯曲の映画化をオファー。映画化に際し、資金集めからプロダクションまで、すべての手法は伝統的なそれと一線を画していた——映画のストーリーが掲げる「反逆心」と「オリジナリティ」というテーマそのままに(また、映画制作の最終段階でアルバートが急死し、悲しみに暮れていたところへカンヌからの出展打診があった。カンヌ出展の決断には1日しか与えられなかったそうだ)。『ダンシング・ヒーロー』がどの程度自伝的内容だったのかと訊くオブライエンに対し、ラーマンは、まず母親がボールルームに熱中していたという事実とエピソードを明かした上で、映画に自伝的要素があるならば、それは映画で描かれている「クリエイティブな人間が直面する苦悩」だと語った。「あの映画に流れる哲学は『アートに関して説く本をもとに、"チャチャチャはこう踊らなきゃならない"とルールを決める組織がある』という概念への反逆の姿勢でしょうね。そういうルールに則っていれば、トロフィーはもらえるかもしれないけど……というね」とラーマンは説明している。「そういう概念というのは根強いと思うんです。"誰かが評価してくれてこそのクリエイティビティ"という概念がね。でも、それこそがクリエイティビティに反するものだと思うんです。ルールは破るために知っておくべきもの。でも、実際にルールを破れていないのであれば、たぶんそれは"何かを生み出しているとはいえない状態にある"ということを意味していると思うし、自分自身に忠実になれていない証拠なんです」

クリエイティビティ=他のアーティストたちと真の意味でつながる
オブライエンの言葉を借りれば、ラーマンのキャリアは「考えられない規模の作品制作をやり遂げてきた」ということに終始する。ラーマンはこれまで、3時間にも及ぶミュージカル映画を複数本制作し、うち1本はエリザベス王朝のイギリスを舞台にしたもの、もう1本はボヘミアンキャバレーを舞台にしたもので、ラーマン監督は後者で米アカデミー賞まで受賞した。彼の映画制作において音楽は常に大きな役割を担ってきた。しかし、オブライエンはトークのなかで「映画に使われた音楽に関し、ミュージシャンたちの権利を守るための複雑な法的構造がさぞ邪魔をしたのでは?」と指摘している。「『ムーラン・ルージュ』の『Elephant Loveメドレー』の部分だけを取っても、あの数分にビートルズとデヴィッド・ボウイ、エルトン・ジョンの曲が含まれているわけで、現代の著作権構造のもとでそれは数百万ドル(数億円)の著作権料金に相当します。それにフィル・コリンズ、U2、ドリー・パートンが加わって……」とラーマンは話した。そんな著作権問題を、ラーマンはどう解決したのだろうか。「アーティストたちにコンタクトをとって、直接使用許可をお願いしました」。フィル・コリンズには手紙を送り、エルトン・ジョンとは初めて直接会える約束を取り付けた。そしてドリー・パートンとも実際に会って話をしたのだそうだ。「ドリーは『「I Will Always Love You」を使うの?あの曲はすでに2回もヒットしてるのに、もう1回ヒットさせてくれるの?』って言ってくれましたよ。アーティストたちはすぐに理解してくれたんです」。ラーマンによれば、テレビ番組『Glee』などのヒットにより「音楽出版社は、ミュージカル作品と相乗効果的に潤えるようなプロジェクトに積極的になりましたね。世界は変わったんだなと思います。でも、僕が『ムーラン・ルージュ』を制作していたときは、誰もが『あのレーベルがあの曲を映画で使わせてくれるなんてこと、絶対に起こりえない』って口を揃えたものでしたよ。アーティストたちに感謝ですよね。僕の最大の喜びは、クリエイティブな人たちと仕事ができるということ。僕の役割は、アーティストたちを輝かせること、もしくは誰も見たことがない彼らの知られざる面を見せることです」

バズ・ラーマンがヒップホップ黎明期を掘り下げようとした理由
「『The Get Down』に惹かれたのは、ひとつの疑問の答えを導き出したかったからでした。その疑問とは、"メディアの報道によって、世界で『これは先進国なのか?』と思われ続けていたブロンクスという劣悪な環境で、いかにしてピュアで新しいクリエイティブなアートが生まれ得たのか?"ということです」とラーマンは『The Get Down』を制作しようと思い至った経緯について説明した。『The Get Down』は70年代のサウスブロンクスを舞台に、ヒップホップが生まれた背景を描いたNetflixのオリジナルドラマだ。「とにかく、グランドマスター・フラッシュやクール・ハーク、カーティス・ブロウら、当時を知るアーティストたちから聞いた事実を順序立てて見つめ直してみたんです。話を聞かせてくれた全員が言っていたのは『あの頃、世界はブロンクスを劣悪な環境として描いていたし、実際にブロンクスは劣悪な環境だった。当時実際にブロンクスに暮らしてたキッズも、誰もがそれを困難な環境だと認識してたんだ。でも俺たちはそこに可能性しか見出してなかった。クリエイティビティしか見出してなかったんだ』ってことでした」

ヒップホップとパンクが果たした重要なクロスオーバーを目撃していたオブライエン
『The Get Down』を観ていればお分かりかと思うが、このドラマが焦点を当てているのは、ブロンクスに今にも生まれようとしていたラップという音楽ジャンルだけではない。1997年といえば、ディスコが世界を席巻していた年だ。ラーマンとオブライエンは、Paradise GarageやMudd Club、Studio 54などで生まれた素晴らしいディスコ音楽について番組内で話している。ディスコは、ラーマンの言葉を借りれば、その後「文化的タイタニック」となり、一方では、それまで「一時的な流行」としかみなされなかったヒップホップが数兆ドルの価値を持つ産業となり、カルチャーにまで発展することとなった。ディスコ以外に、オブライエンはパンクとニューウェーブを直に経験していたそうだ。「先日、グランドマスター・フラッシュがある逸話を教えてくれたんです。彼が世にも新しい音楽をブロンクスでやっているとき、若いパンク/ニューウェーブのパフォーマーが彼のもとにやってきたというんです。『何が起こってるのかを見に来た』というその女性は、自分をデビー・ハリーと名乗ったと——そして、あなたもその場に居あわせたそうですね?」とラーマンが訊くと、オブライエンは、確かに彼のトヨタカローラでデビー・ハリー(デボラ・ハリー)をそこまで連れて行ったと明かした。

バズ・ラーマンが子どもの頃に聞いていた音楽
「1977年、僕は11軒しか家がない小さな町に暮らしていて、外の世界に憧れていました。エルトン・ジョンやデヴィッド・ボウイを聴いていましたね。古いレコードプレーヤーしか持っていなくて、音楽だけが外にある広い世界との唯一のつながりでした」とラーマンは明かしている。「あの時代、僕みたいに田舎でくすぶっている若者にはラジオってものがありました。ラジオは、時間と空間超えるコネクターみたいなものだったんです」。そして、もうひとつ時空を超えて彼に訴えかけてきたのが、デヴィッド・ボウイだった。海沿いの小さな町で、友達が持つレコードプレーヤーにかじりついて初めて「Changes」を聴き、ボウイの音楽に心酔したのだという。それ以来、ラーマンは自身の映画に度々ボウイの存在を取り込んでいる。そのなかでも最もそれが顕著なのは『ムーラン・ルージュ』だ。「無意識のレベルで彼から影響を受けているもうひとつの要素は、ボウイが時代やジャンル、ペルソナを自在に超えて、キャラクターを作り出し続けたということ」とラーマンは言っている。「ボウイはいつでも、どれか特定の自分を表現するだけで満足することなく、進化・変化を続けました。それがいかに革命的だったかを、僕たちは忘れがちだと思うんですよね」

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Credits


Text Emily Manning
Translation Shinsuke Kuriyama at WORDSBERG Inc.

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