映画の平行線 第10回:アラン・ロブ=グリエ監督作一群

毎月公開される新作映画を交互に語り合っていく本連載。今回は五所純子さんが、現在レトロスペクティブが開催されているアラン・ロブ=グリエ監督作『不滅の女』『ヨーロッパ横断特急』『嘘をつく男』『エデン、その後』『快楽の漸進的横滑り』『囚われの美女』を取り上げます。

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dec 13 2018, 9:04am

女の出てこない映画はない。けれど女はまだ語り尽くしていない。 “映画の女” を見ながら感じたアレコレを、お喋りのように、戯れ言のように、手紙のように、交わしてみたい。「映画の平行線」は最新映画とともに、映画ライター・月永理絵と文筆家・五所純子が意見交換していく往復コラムです。


わたしが持っているSuicide「Frankie Teardrop」はアラン・ベガでなくリディア・ランチがボーカルをつとめている12インチ盤で少しピッチを上げて聴くのがちょうどいい。頭蓋骨に刃物が刺さっているレントゲン写真のジャケットを触るたびにこういう遺影がいいといつも思う。墓石はいらない。リディア・ランチの声はもちろんアラン・ベガほど涼しくなく厚かましいほど肉感的で、喘ぎ声に似た叫びはわざとらしく演技がかり、重たく気だるく伸ばされる声は痺れよりも疲れをもよおさせる。もともと単調なリズムが10分以上続く曲だが、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー『13回の新月のある年に』(1978)のある場面で「Frankie Teardrop」が唐突に始まり延々と続くのを見ていると、リディア・ランチのかわりに登場人物たちがかわるがわる喋ってるみたいだった。

ファスビンダーの映画は唐突と延々ばかりともいえて、なんでまたこんなところでと疑問に思わずにいられないタイミングで楽曲や写真や絵画やテレビ映像が差し挟まれては断ち切れる。含羞の強い人だ、というとかっこよすぎるかもしれないが、自分がなにかを語りそうになると止めたり伸ばしたりしないと気が済まない性分というのがあって、なぜなら語るというのはとてもかっこわるい行為で、なにがかっこわるいといえば語りは真実らしい顔をするということだ。自分が真実らしい顔をしてるなんて、照れくさい、恥ずかしすぎる、耐えられない。だいたい人類史上……なんて大袈裟なことは言わずとも、生まれてこの方、偉そうに真実らしさをぶっこく奴に騙されてばかりだろ。わたしはあのクソみたいな連中の尻に並ぶのか。絶対にイヤだ。だったら「あいつは嘘つき」って思われたほうが百万倍マシだ。同じ面の皮が厚いなら、厚顔無恥より馬鹿のほうが百億光年倍マシ。映画なんて嘘八百の芸術だ。だからいいのだ。わたしがやりたいのは人を煽動することじゃない、頭脳にナイフを刺すことだ。それを芸術の謙虚さと呼ぶか尊大さと呼ぶかは勝手にすればいいが、そんな自問自答をしてばかりいる種族がいて、ファスビンダーはその筆頭である。たぶん。

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『13回の新月がある年に』©2015 STUDIOCANAL GmbH. All Rights reserved.

前回、月永理絵さんが「語り」をテーマに、『13回の新月のある年に』の登場人物たちは一人語りをし続ける、と書いていた。ファスビンダーの映画において人はすれ違うために喋らされていて、一見すると合意や和解をめざしていく対話であっても、そこで起きる融和的な反発的な輝きをとらえつつ、それがいかに脆くなにものも保証せず人が断絶しているということに向かっていく。楽曲、写真、絵画、テレビ映像とさきほど並べたが、語りに絞っても、モノローグとダイアローグの台詞、ナレーション、ラジオのアナウンス、テレビ画面に映しだされる映画の台詞、スピーチ、説話、賛美歌など、さまざまなレベルの音声言語が導入されている。(文字言語をふくめてよければ、便所の落書きが本作のエッセンス。)前述のとおり、計算づくで配置されているとは言いがたく、統合されることもない。そのくせというか、いやだからと言いたいが、個々の熱気がやたらと強い。重箱の隅など見当たらないほど音も画も言葉も意味も溢れかえり、高密度にひしめきながら人びとが断絶するという奇妙な状態があらわれる。この説得力に触れたくてファスビンダーを見るのだが、この「過剰」がなぜ説得力をもつかといえば、絶望の楽天地だからだとひとまず言ってみる。回収は別の機会に。

ファスビンダー映画でよく起こるのが、敵が最大の理解者になるということで、仲間や支援者や代弁者よりも、敵対しあう者どうしが愛し合うように通じる。これは考えてみれば当然のことだ。人は不条理な目に遭うと、なぜこんなことが起こったのかと思い悩む。あいつはなぜこんなことをしたのか、あいつはなにをかんがえてるのか。怒りながら、憎みながら、罵りながら、殴りながら、傷みながら、誰よりも何よりも敵のことを考えつづけ、いつか誰よりも何よりも敵を憎んでいる自分が敵をもっとも理解する人間になりかわっている。『ベルリン・アレクサンダー広場』(1980)も『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』(1972)も『マルタ』(1975)もどの作品をどういう順番もいいが、ファスビンダー映画はとにかくそれが一足飛びの速さでよく起こる。敵よりも敵自身を理解する人間として自分が育まれてしまう。敵を憎むほど敵がきつく消えていく。つまり、すべての憎しみは自分によって許されていくほかないということだが、なんか説教臭いのでここは中断。ちょっと付け加えるなら、『第三世代』(1978-79)は、敵について考えることより軍事演習キャンプのほうが楽しくなっちゃった人たちの話。『13回の新月のある年に』は憎むべき敵を探しに出かけたけど誰も憎めなかった人の話。

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『13回の新月がある年に』©2015 STUDIOCANAL GmbH. All Rights reserved.

「語り」のテーマに戻って、これも月永さんが取り上げた『13回の新月のある月に』のラストシーンについて。死んだエルヴィラ/エルヴィンが発見されるところに、彼/女が生前に録音していた音声が流れてきて、それははじめて彼/女によって語られる彼/自身の人生なんだけれども、誰もその音声を聴かなかったという結末。たしかにこれは自分の人生を語ることの難しさをあらわした場面だけど、真の言葉を手に入れたかわりに彼/女は追放されたのだとわたしには見える。彼/女を14歳まで世話した尼僧によれば、彼/女は不幸にあると嘘をつき、幸福を感じると黙りこんだという。これに沿えば、亡くなる直前、録音機に向かって語る彼/女は不幸な状態にあるのだが、ただし嘘をつかずに真実の気持ちを述べている点が以前とは異なる。さて、この新たな語りが誰かに届いたら、人間は真なる言葉でわかりあえるという映画になってしまう。それは本作にそぐわない。言葉が不幸につながれているのがエルヴィラ/エルヴィンであり、不幸につながれることで人間が考えるのがファスビンダー映画だから。

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『不滅の女』L’IMMORTELLE ©1963 IMEC

「語れないからこそ、人々は語り続けなければいけない」と月永さんが書いていた。この言葉を借りるなら、わたしの場合は「語れないのに、人々は語り続けてしまう」という感じ。困難なことだからやる意義があるというより、無体なことをやり続けてしまう性懲りのなさというか、あらかじめの敗北というか。語ることの意義や価値はあまり考えたことがなくて、というかそれはあってもなくてもどっちでもよくて、言葉なんて覚えるんじゃなかったなんて逆説的な詩をここで復唱する気はないけれど、やっぱり言葉の虚構性ってものがある。実物のリンゴと「リンゴ」という言葉はまったく異なる次元に成立してるのだけど、とりあえずリンゴ=「リンゴ」としましょうという約束事が言葉だったりする。「リンゴ」なんて偽物だ、本物のリンゴはどこにあるんだ、と問われたら、そりゃもう言葉は偽物であって、本物としてはせいぜい目の前のリンゴをつかんで差し出すくらいしかない。じゃあ目の前のリンゴという実存がリンゴという概念を表現できるんですか、リンゴの実体はどこにあるんですか、とか言われたら話が長くなるのでやめます。で、いわば言葉はかならず嘘をついてるわけだが、この嘘に対して真実を探すというのは鶏が先か卵が先かみたいな不毛さがあって、嘘vs真といった対立軸で考えていくよりも、ひたすら「リンゴ」と「語る」「写す」「演じる」という徒労に身をやつしてしまうというのが人間の懲りない性分であり、つまりこれって映画そのものだ。文明とかテクノとか言っていいとも思うけど。

「リンゴ」の虚構性についてクソ真面目に考えるほど、そこにある欺瞞に気づく。「リンゴ」を語り写し演じることはやめられないけど、その欺瞞に照れ恥じ耐えるから、この「リンゴ」がリンゴではない可能性を知らせながら語り写し演じるようなふるまいに出る。ファスビンダーが重箱を溢れさせるように知らせるなら、アラン・ロブ=グリエは空箱を滑らせるようにして知らせる。ロブ=グリエを見ていると虚しすぎて感動してくる。

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『エデン、その後』L'EDEN ET APRES ©1970 IMEC

「あなた、少し遊びすぎよ。類似、繰り返し、置き換え、模倣、もう沢山」と『快楽の漸進的横滑り』(1974)で弁護士役が言っているとおり、というか『快楽の漸進的横滑り』というタイトルがわけのわからないまま的を射ている気がするけど、「リンゴ」と言ったそばから「梨」「リンゴ」「赤」「リンゴの絵」といった具合に移ろっていくのがロブ=グリエで、それは自動筆記ほど無邪気でなく、類推の山ほど野心的でなく、目的を達しようとか、謎を解明しようとか、真実を得ようとか、そういった営みから厳格に外れている。虚があるから実があり、実があるから虚があり、たがいがそれを支えなくなったら虚も実も成立しない。残るのは「リンゴ」「梨」「リンゴ」「赤」「リンゴの絵」の堂々巡りで、その意味はいよいよ空疎になり、色彩は鮮やかになるほど干からびていく。このたび公開された作品群を時代順に『不滅の女』(1963)、『ヨーロッパ横断特急』(1966)、『嘘をつく男』(1968)、『エデン、その後』(1970)、『快楽の漸進的横滑り』、『囚われの美女』(1983)と見ていくと、もぬけの殻の充実度が高まっていくようにも感じる。はい、また語義矛盾。でもまあ、虚実の皮膜とか、生死の境とか、主客の認知とか、そんなの貧乏臭いよなとまで感じられる映画はそうそうない。

その昔、そんなに遠くない昔、ロブ=グリエ映画がおフランス式お耽美としてもてはやされた時代もあると聞くが、いま見るとモヌケに君臨するマヌケ美にも見えるがいかに。『不滅の女』のフランソワーズ・ブリオンや『快楽の漸進的横滑り』のアニセー・アルヴィナなどの姿にうっとりもして、美しい女優たちは脱がされてポルノグラフィックな意匠となり、その冒険譚や受難劇のようなものは映画の欺瞞性を促進するために打破するためにある。「あなた、少し遊びすぎよ。類似、繰り返し、置き換え、模倣、もう沢山」と言う女弁護士に、女囚は「大丈夫、どうせ女の子は死刑にならないもの」と言ってのけるのがロブ=グリエ映画なのだけれど、パンフレットにある町山広美さんの魅力的すぎる文章にうながされて弁護士役オルガ・ジョルジュ=ピコのウィキペディアを覗きにいったら、「ジョルジュ・ピコットは深刻なうつ病に苦しんでおり、1997年6月19日、フランスのパリで、不況の中でセーヌ川のアパートの5階から飛び降り、殺害された」と本当にあった。(※固有名が不統一なのはグーグル自動翻訳によるため。町山さんの文章では「うつ病」「殺害」は省かれ、「1997年6月19日」のかわりに「木曜日」と書かれている。ロブ=グリエの映画はさておき、現実で女優をスキャンダルの意匠にしないという、優しい道理が隠れていた)。ウィキペディアの仕掛箱、自動翻訳の歪曲箱に翻弄されながら、「脱ぐ仕事が多かった女優のその後としてあまりに想像通りな記述があった」という町山さんの言にしかと頷き、やっぱり不幸につながれて横滑りしきれずじまい。

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『囚われの美女』LA BELLE CAPTIVE ©1983 ARGOS FILMS

アラン・ロブ=グリエ レトロスペクティブ
シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開中
配給:ザジフィルムズ