Photography Mitchell Sams

変わりゆくファッションの生態系:ヴァージル・アブローのLouis Vuittonデビューコレクション

それは、ファッションにとってはじめての瞬間だった──。それは服としてのファッション以上に、私たちが住む世界に希望と多様性、そして美しさを見出す瞬間だった。

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jul 3 2018, 2:47pm

Photography Mitchell Sams

Louis Vuittonメンズ部門における、ヴァージル・アブローの初コレクションのショーノートに書かれていた参加者へのあいさつ文は、百科事典のようなA to Z方式、つまり〈The Vocabulary According To Virgil Abloh(ヴァージル・アブロー的語彙集)〉だった。そしてそれこそが、なぜこれほどまでにこのデザイナーが耳目を集め、Louis Vuittonという高みに到達することができたのかを如実に物語るものだった。ヴァージルはそのノートのなかで、襟に秘められた皮肉な可能性からドロシーがオズに自身を見出すという象徴主義、そしてデザイナーと消費者の新たな関係性に至るまで、あらゆることを語っている。その語り口にはトレードマークである皮肉な無関心さも垣間見えるが、落ち着いた言葉の下には、ヴァージル・アブローがこのメゾンのこのポジションに、このタイミングで登りつめたという事実からわき出る抑えきれない喜びがあった。悪口を言われていたミレニアル世代が、畏敬の念を注がれる存在にまで登りつめたのである。

これはめでたいことだ。ファッションでそれまでに見たどんなものとも違う、という感覚があった。なぜなら、それは服としてのファッション以上に、私たちが住む世界についてのものだったから。カルチャーがどのように変化するかということ、希望、美しさ、多様性、そして可能性や夢見ることについてのものだったのだ。ファッションのジャンルを変え、ラグジュアリーの意味を再定義し、アイロニーの力や、尊敬する人物へのオマージュとインスピレーションにまつわるもの。または新テクノロジーのパワー、若者に直接語りかけること、ユースとコミュニケーションをとるためのバンドの組み方を知っていること、壁を壊し、何か新しいものをつくり出すことについてのものだった。

その2日前、ヴァージルはOff-Whiteのコレクションを発表したが、その評価は二分した。ヴァージルとの愛憎入り混じる情熱的なタンゴを踊り続けるべく、ラフ・シモンズがパリに戻ってくる前日のことだ。「新しいアウトライン、新しいシルエットが必要です」。ショーの後で、ラフはそう説明した。ラグジュアリーなストリートウェアファッションの大流行にうんざりしていることについて。「どこもかしこもプリントパーカーだらけ。何かが変わらなければならない」と彼は話す。ラフが生み出したナイトクラブ的ニューウェーヴクチュールのコレクションは、ストリートウェアの大衆的単調さから離れ、新しい美と新しいコミュニケーション方法を模索したものだ。そしてその翌日、ヴァージルもまた同じことをしたようだった。その後、Dior Hommeでキムがデビューし、マシュー・ウィリアムスのAlyxがブランド初となるショーを行なったが、カニエとヴァージルはともにフロントロウでそれを見守ったのである。

こうしたデザイナーたちのショーを通して、私たちはファッションと新しいリアリティの構築を隔てる壁が壊れる瞬間を目撃した。もちろん、見出しを占拠したのはヴァージルのLouis Vuittonだ。なにしろ何年ものあいだ待ち望まれていたショーなのだから。大騒ぎが大騒ぎを呼んでぐんぐんと騒ぎは大きくなったが、Instagramのストーリーをエンドレスに席巻したこのショーを取り巻く大騒ぎは、これほどまでの規模で変革の機会を提供したショーがほとんどなかったことに起因するものだった。それが単に新機軸のファッション美学の可能性だけでなく、ファッション全体の姿勢の変革を提供するものだったからこそ、これほどの大騒ぎになったのだ。よりオープンでより包括的、より多様性ある何かへ向かうムーブメントだったのである。

ヴァージルのショーノートで、彼は皮肉を「新世代の哲学」そして「Louis Vuittonにヴァージル・アブローがいること」と定義している。ラグジュアリーの定義は「価値、コード、クオリティによって決定されるブランド。新世代がこの支配を打破し、パラダイムを永遠に変えるまで、この使用と定義は少数への特権であった」。ストリートウェアは「ファッション体系の一部における反逆的なデザイナーのデビューコレクションでよくある衣服のジャンルだが、そのスポーツウェア的特性はラグジュアリーへと決定的に変容している」。彼はまた、自分のような若いデザイナーや、その観客であるミレニアル世代(彼自身は違うと強調しているが)が信仰する宗教としてマルジェラ教なる言葉をつくり出し、ノームコアを贅沢に育った世代の皮肉と称した。

『フィナンシャル・タイムズ』紙に掲載されたプレビュー記事で、ヴァージルは変革を暗示していた。「私がもともとやっていたファッションデザインのジャンルは、もう新しいというだけでは満足できないものになっています」。同紙のチャーリー・ポーターに、彼はそう語っている。「新たな権力層が興りつつあると感じています。主張を強く持つなら、今がそのとき。線は交わっています。シャツはもうじゅうぶんに売れたし、Instagramの投稿も生態系を変えるにじゅうぶんな数が成されました。もう戻ることはできません」。ヴァージルのLouis Vuitton就任は、この権力分布図の変換を体現している。実際、それはシンプルに“生態系”ということなのだ。単にアウトサイダーたちが権力の回廊へのアクセスを許可されたというだけではない。実際に権力を持ったのである。そこまで来たということだ。

もっとも支配的で興味深く、若々しいアートの形態のひとつとして勃興してきたファッション。その隆盛は、多くをパリのアトリエの歴史や伝統に相反する“ストリートウェア”の多元的パワーに依存している。ストリートウェアは、すべての者にとって、気楽で格好良く、自由でリアルでオープンであり、そのオープンさによって成功が引き寄せてきた。そして“ファッション”がそれをほしがったために、この両極を隔てていたスペースがゆっくりと消し去られていったのである。

今や、ファッションはもっとも急を要するアート形態となった。なぜならそれは、私たちが日々の生活で出会う循環するイメージのなかに存在すべく仕立てられた(テーラーメイドされている)アートだからだ。古きものと新しきものを賛美し、すべてのドロップ、すべてのコラボレーション、すべてのエディトリアルが、つねにアップデートされるスクロールのなかに集約される。Instagramによってファッションがいち個人に開かれるところまで来たが、その最先端にい続けたのがヴァージルなのだ。

ここ5年ほどで、ファッションが限定的でニッチな存在から、もっとオープンで若々しく民主的なものへと移り変わると、それはゆっくりだが自然に、私たち世代の関心と欲望を吸収していった。ファッションはもう、新しい世代がほとんど関心を持たないような、小難しくて無礼で独りよがりで限定的で排他的なものではない。現在のファッションは、ひとりのショーに3千人を呼ぶことができる。世界中から集めた多様なモデルたちに、レインボーカラーで彩ったランウェイを行進させて。親友にハグをして、お互いをサポートし合いながら。Louis Vuittonのすべてを指示する役目を担うのが「教育を受けていない」ファッションデザイナーで、ガーナ系移民の息子であることが、若者のニーズと欲望を示している。

「何が素晴らしいかと言ったら、これまでこんなポジションなど考えもしなかったデザイナーたちが、それを想定できるようになったってこと」。ショーの前、i-Dのマシュー・ホワイトハウスに、ナオミ・キャンベルはそう話した。「なんでもできる。ヴァージルがこの分野でかなりの才能があることは別にしても、彼は本当に多くの人に気づかせてくれた。こんなことが可能で、それがあなたにも起こるかもしれないって……。それが本当にうれしいの。希望を与えたんだから!」だからこそ、このショーがこれほどの試金石となったのだ。希望と可能性が夢で終わらず、現実となったのである。

This article originally appeared on i-D UK.