Photography Mayumi Hosokura

『ルイ14世の死』:アルベール・セラ監督インタビュー 後篇

死にゆく“太陽王”の姿を医学的に描いた『ルイ14世の死』で大きな話題を呼んでいる異才アルベール・セラ。「21世紀の前衛」とも称される彼がこの映画で試みた挑戦とは? 後篇は役者の演出術、衣装論、セラ映画の不規則なリズムについて。

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maj 30 2018, 8:02am

Photography Mayumi Hosokura

『ルイ14世の死』:アルベール・セラ監督インタビュー 前篇はこちら。

——監督はこれまで主に非職業的俳優と映画作りをしてきましたが、この作品ではジャン=ピエール・レオと組み、さらにその後もヘルムート・ベルガーやイングリット・カーフェンらと共に舞台を作られたと聞きました。そこには何か変化があったのでしょうか?

いや、変化はありません。というのは、誓って言えますが、この三人は全く職業的俳優と呼べる人たちではないからです。ジャン=ピエール・レオは全くクレイジーな人間で、初めて会ったとき、私は非職業的俳優としか仕事をしないと言ったところ、彼は「心配するな、私はプロフェッショナルな非職業的俳優なんだ」と答えました。ヘルムート・ベルガーは、世界で最悪の俳優として有名ですが、それは実に酷い趣味を持っているからです。彼はヴィスコンティと何本かの傑作を作りましたが、酷い監督と組んだときには常に最低の演技しか見せてこなかった。そしてイングリット・カーフェンは完全にクレイジーです。彼女は映画より音楽に興味を持っていて、ファスビンダーと結婚しました。もちろんファスビンダーはゲイであり、二人の関係は兄弟愛のようなものだと彼女は述べています。さて、この三人が職業的俳優だとあなたは思いますか? 私としては、映画を作り始めた頃と同じタイプの人間と今でも映画作りを続けているような気がしています。そこに違いはありません。因みに、ベルガーとは、舞台をやった後、これから一緒に映画を作る予定です。舞台と同じテーマ、同じプロット、同じアイデアに基づきながら全く異なる作品を作ります。

©CAPRICCI FILMS,ROSA FILMES,ANDERCRAUN FILMS,BOBI LUX 2016

彼らがクレイジーだからというのは半分冗談ですが、いずれにしても私は職業的俳優と組んでも全く違いを感じません。というのは、彼らにプロフェッショナルなスキルを使わせないからです。脚本はあってもその通りには進めず、クロノロジカル(時系列順)に撮影を進めることは絶対にしません。絶え間なく場面や会話をミックスさせ、一日の始めから終わりまで撮影を続ける。こうした私の映画システムのなかで、彼らは職業的俳優として演技し続けることが不可能なのです。彼らが役のために何か準備してきたとしても、私はダメだと言うか、あるいは単に彼らを疲れさせるためだけにそれをやらせます。

一方、こうしたシステムのなかでも、(侍医ファゴンを演じた)パトリック・ダスマサオらが素晴らしい才能を見せたことは言っておく必要があるでしょう。彼らはその知性とエレガンスによって実に多くの素晴らしい瞬間を映画に持ち込んでくれました。これは間違いありません。

——この作品では、全体として特にドラマティックな出来事は起きず、何も起きない場面が長く続くこともあります。映画における時間、あるいは持続の問題についてどのようにお考えでしょうか?

時間に対する私の考えは、ある意味でとても因習的だと思います。それは現実における時間と同じなのです。つまりそれは、予想がつかず、不規則なものだということです。映画はひとつのショウであり、観客に与える心理的効果を計算したエンタテインメントだという考え方がありますが、私はこれが好きではありません。あまりに退屈だと思います。もちろん、映画はリアルタイムで起きる出来事ではないのですが、そこに不規則性を導入し、ひとつの場面がどこまで続くか、あるいは次の場面が一体どこから始まり、その長さがどれくらいのものかといった不透明さを与えることはできます。実際、私の映画のリズムは、現実に対する私たちの知覚と同じようにイレギュラーなものです。こうしたリズムを通じて、観客は自ら映画のなかに入り込んで、積極的にそこで何かをつかみ取る必要が生じてくるわけです。

こうした不規則なリズムは、同時に、何がノーマルで何がそうでないかという判断を宙づりにし、すべてを境界上に置くことにつながります。とりわけ、俳優たちとの関係においてそうでしょう。アメリカの映画批評家マニー・ファーバーは、かつて、俳優たちがすべての境界上に存在しているときにこそ最も輝くと言いました。フレームの境界、物語の境界、演技の境界の上に位置するということです。映画の構築性やヒエラルキーのなかですべてがコントロールされた状態から抜け出すこと——その後にこそ、何か面白い瞬間が映画に訪れると私は信じています。

©CAPRICCI FILMS,ROSA FILMES,ANDERCRAUN FILMS,BOBI LUX 2016

同時に、こうした不規則性は、編集によって計算されたものでもあります。しかし、それでもそこには、ある種の無垢なものが存在しているでしょう。なぜなら、もし単に観客を喜ばせたいだけなら、私はもっと効果的な編集をすることができるからです。私にとっても未知なものである新しい時間の知覚こそが、こうした試みを正当化するのです。映画におけるアーティスティックなゴールとは、何か今までとは違うものを生み出すことです。しかし、それは実際に生み出されるまで、正確にどういうものか計算することはできないのです。

時間は、映画において重要な役割を果たします。それは、私たちの知覚を変えてしまう。もし私が何かを30秒撮り続けたとすれば、それは何かの意味を持つでしょう。しかし、もしそのショットを5分間続けたならば、それは観客の知覚を変容させる。それはクレイジーで挑発的な試みとなり、神秘的なものともなる。それは退屈ではありません。退屈を超えた先に行く試みなのです。

©CAPRICCI FILMS,ROSA FILMES,ANDERCRAUN FILMS,BOBI LUX 2016

——2時間ほどの上映時間のあいだに、ルイ14世の身体が次第に動きを止め、最後は解剖場面で終わります。一方、最初のタイトルバックではカメラの移動撮影が行われていました。移動から静止へという、この作品全体の構成が見事だったと思います。

冒頭の場面は、この作品で唯一の移動撮影です。私はカメラの移動が一般的に好きではないんです。というのは、準備に時間がかかりすぎるからです。さらに、ポストプロダクションでも高価な投資が必要となる。したがって、あらゆる現代映画において移動撮影を回避する正当な理由が二つも存在するわけですが、それでもある種の人々は移動撮影を好んで行います。まるでカメラがオモチャか何かであるかのように。私には理解しがたいです。

ともあれ、この映画は移動撮影から始まって、解剖の場面で終わる。ファゴンが口にする最後の台詞「次はより慎重に診断しよう」は、私がとても気に入っているものです。これは撮影のなかで彼が即興的に口にしたもので、しかも誰かに対する返答として喋ったものでした。したがって、彼がこの言葉を口にした一秒か二秒後には次の台詞がつながっていたのです。私はこの台詞を映画の最後に置きたいと直感したので、私にしては異例のことですが、彼に頼んでもう一度同じ台詞を言ってもらいました——今度は次の台詞を続けることなく。映画の最後に相応しく、少し空白の時間を台詞の後に作ったのです。しかし、編集のときにその二つを比べてみて、やはり最初のテイクが素晴らしいと感じました。台詞の後にもう少し空白があれば良かったのですが、それ以上に彼の口調、そのニュアンスが素晴らしいと感じて、そちらを選ぶことにしました。

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構成に関して言えば、クロノロジカルに撮影を進めることなく、最終的に編集で身体が衰弱していくプロセスを矛盾なく描けたことはほとんど奇跡だと言って良いくらいでした。私自身、編集を始めたときにはこの試みが成功すると全く思えなかったほどです。この映画の場合、さらに別の問題もありました。私はこれまで自分の作品のなかで、同じキャラクターは常にひとつの衣装を着て同じ外見で登場し続けるというルールを守ってきました。しかし、この映画の場合、あまりにも沢山の魅力的なコスチュームやカツラが用意されて、それらを映画に使わないのは勿体ないと言われたんです。だから、最初はいくつかの衣装やカツラを俳優たちが着用して撮影を行いました。しかし、それでは本当にわけが分からなくなる。同じ会話のなかで同じ俳優が別の衣装を着用していることだって起こりえたでしょう。だから、結局のところ私が気に入った衣装やカツラをそれぞれひとつだけ選んで、俳優たちに着用させることにしました。

衣装を変える必要なんてあるでしょうか。私たちはファッションショーを作っているわけじゃないのです! それに、ルイ14世に関して多くの書物が書かれていますが、彼がどのような衣装やカツラを着用していたかについてはほとんど記録が残っていません。だから、ここには大きな創作的自由が存在しているのです。彼がお気に入りの衣装にこだわって、ベッドのなかではそればかり着用していたとしても何の不思議があるでしょう。むしろ、金持ちで裕福だというすでに誰もが知っている彼のイメージを再現するためだけに豪華な衣装を何着も見せるのは愚かなことです。私は、ソフィア・コッポラのように映画を作っているわけではないのです。映画のある種の要素は、俳優たちの演技や作品そのものの自然なディベロップメントにこそ奉仕すべきであって、それ以外の配慮は必要ないのです。

ルイ14世の死』5月26日(土)より、シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開