今日的な、あまりに今日的な『クリスマス・キャロル』:北村紗衣【来るべきDに向けて】

これまでピンときたことのなかったチャールズ・ディケンズの『クリスマス・キャロル』。ところが、2020年になって読んでみると……? 

by Sae Kitamura
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20 March 2021, 6:05am

坂本龍一とGotchが中心となり発足したオルタナティブ・プロジェクト「D2021」。震災(Disaster)から10年(Decade)の節目を目前に控えた今、私たちはどのような日々を歩んできたのか、そして次の10年をどのように生きるべきなのか。この連載「来たるべきDに向けて」では、執筆者それぞれが「D」をきっかけとして自身の記憶や所感を紐解き、その可能性を掘り下げていきます。

今回は、古典文学からディズニー映画までをフェミニズム批評の観点から論じた『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』の著者で、舞台芸術やシェイクスピアの研究者でもある北村紗衣が登場。

「Dickens:今日的な、あまりに今日的な『クリスマス・キャロル』」北村紗衣

 私は大学で英文学を教えている。専門はシェイクスピアで、基本的にはイギリス・アイルランド演劇の研究者だ。文学というと小説しか思い浮かばない人もいるが、実は意外と演劇や詩の研究者も多い。私はとくに小説は得意ではないし、詳しくもない。

 ところが、私が勤め先の武蔵大学で担当している講義は「イギリスの文学」という文学史科目だ。英語教員を目指すような学生を対象に、古英語の『ベオウルフ』から最近のカズオ・イシグロまで、イギリスとアイルランドの文学史を教える科目である(今年はオンライン授業で講義をツイッターで行ったので、興味がある人はこちらのタイムラインを見て頂きたい)。私は芸術研究系の学科の出身で、博士課程で留学した時まで英文学科に所属したことがなく、学部の「英文学史」という授業を一度も受けたことがない。それなのに英文学史の授業を担当している。私の勤務先は小さい大学でイギリス文学の教員は2人しかいないので、まあこういう科目の割り振りにならざるを得ない。おそらくどこの大学も同じようなものだろうと思う。

 そういうわけで、苦手な小説や詩も教えないといけない。学部の頃に授業で習っていたロマン派の詩とか、アイルランドの文学とか、もともと好きだったブロンテ姉妹やジョージ・エリオットの小説とかならまあ教えやすいのだが、私が一番手こずっているのがチャールズ・ディケンズだ。ヴィクトリア朝きっての大人気作家で今でもたくさんファンがいるが、正直、私にはよくわからないし、かなり苦手である。

 私が研究しているシェイクスピアなど近世の演劇というのは、ディケンズが生きていたヴィクトリア朝のメインストリームの小説に比べると、セックスも暴力もユーモアもはるかに露骨だ。シェイクスピア劇では人がバタバタ殺されるし、食人とか人体切断とかも平気で出てくるし、変なところで笑わせるブラックユーモアもたくさんある。しかしながらヴィクトリア朝というのは荒っぽい近世演劇に比べると全くの別世界で、ユーモアははるかに微妙な線を狙ってきているし、セックスや暴力はほのめかしから推測しないとならない。私は文学史科目を教えなければならなくなってから一生懸命ディケンズを読んでいるが、それでもいまだに笑いどころがわからなくて困っている。

 しかしながら恐ろしいことに、どうやらディケンズを難しいと思っているのは私のような荒っぽい近世人だけではないらしいのだ。南雲堂から2007年に『ディケンズ鑑賞大事典』というとても役に立つ本が出ているのだが、これが「研究大事典」というタイトルでないのは、ディケンズというのはそうそう軽い気持ちで研究できるものではなく、ヴィクトリア朝文学の専門家ですら鑑賞がせいぜいだ、という考えがあるからだというもっぱらの噂である。これは研究会で聞いた内輪のジョークなのでたぶん本当ではなく、学者同士でふざけて言っているだけだと思うのだが、少なくともディケンズというのは学者仲間でそういう冗談が出てくるくらいは研究が大変だということだ。露骨なジョークで笑うのに慣れたシェイクスピアリアンがよく理解できないのも無理はない。

 ところが、2020年の12月、私は初めてディケンズの作品がなんとなく理解できたような気がした。周知のとおり昨年は新型コロナウイルス感染症の大流行のせいで舞台芸術は大変な窮地に陥っていた。アメリカやイギリスでは大きな劇場が無観客配信を始め、年末にはいろいろな劇場が『クリスマス・キャロル』の舞台版を配信した。ディケンズの小説『クリスマス・キャロル』(1843)の舞台版は、チャイコフスキーのバレエ『くるみ割り人形』などと並んで年末によく上演される定番演目である。私はアメリカのヴァージニア州スタントンにあるブラックフライアーズ劇場と、イギリスのロンドンにあるオールドヴィク劇場の2本しか見られなかったのだが、批評家によっては配信で5本とか6本見たらしい。

 オールドヴィク劇場は新型コロナウイルスの流行が始まってすぐ無観客配信を始めた。『クリスマス・キャロル』はジャック・ソーンが小説を劇化した翻案で、マシュー・ウォーチャスが配信用の演出を担当し、アンドルー・リンカーンが主演のスクルージ役をつとめた。画面分割を使うなど、かなり配信に特化した凝った演出のプロダクションで、全体的にユーモア溢れる明るいトーンの作品だ。

 『クリスマス・キャロル』は、貧しさを美化しているとか、センチメンタルだとかいうことで、バカにされがちな作品だ。「メリー・クリスマス」という言葉を流行らせるきっかけになった小説で、フランク・キャプラ監督の『素晴らしき哉、人生!』(1946)などその後のクリスマス物語に強い影響を与えた重要な作品だが、文化的意義が大きいわりに内容は軽くみられがちである。私も正直、とくに好きではない。

 しかしながらオールドヴィク劇場の『クリスマス・キャロル』では、スクルージが改心した後、人々に富の再分配を本気で訴え始め、炊き出しみたいなことをやろうとし始める。配信なのを生かして台詞と字幕で貧しい子供たちなどを支援するチャリティの紹介があり、寄付先が画面の下に表示されるという、スクルージの反貧困活動が直接現実につながる演出もある。新型コロナウイルス流行のせいで仕事がなくなり、困窮する人々が多数いる現代において、ここでスクルージがやっている活動はセンチメンタルだと切り捨てられるものではない。この撮影が行われたオールドヴィク劇場からさほど遠くないサザークでは、70年ぶりにユニセフがイギリスの子供に対する食糧支援を行うという事態が発生し、英国内では大問題になった。

 ディケンズがこの作品にこめたメッセージは、ヴィクトリア朝のミドルクラスの人々に対して、クリスマスには欲を捨ててちゃんとお金を寄付しろ、そうでなければ真人間とは言えないぞ、というものだったはずだ。そしてこのメッセージは資本主義にまみれた現代でも有効だ。しかしながら、状況はディケンズの時代より悪くなっている。スクルージはちょっとしたことで足を踏み外して強欲になったが、それでもクリスマスの精霊たちに過去、現在、未来を見せられて内省し、良心を取り戻せるだけの理性と人間味があった。しかしながら今、この芝居のメッセージを伝えないといけない富裕層は『クリスマス・キャロル』なぞ見に来ないか、見ても理解しないだろう。堀江貴文が『クリスマス・キャロル』を上演しているが、年金デモを税金泥棒呼ばわりするような企業家が『クリスマス・キャロル』を上演して悦に入っているとは、実にグロテスクである。

 私はヴィクトリア朝のミドルクラスに向けたセンチメンタルな説教話であるはずの『クリスマス・キャロル』が今日的すぎることに怒りすら感じた。ディケンズがヴィクトリア朝の人々に訴えたかったことは今でも真面目に受け取られていない。今まであまりよく理解できていなかったディケンズに、2020年の末になって初めて心を動かされた。『クリスマス・キャロル』は、少なくとも私にとっては、たぶん優しい感情ではなく、怒りを持って読むべき作品だったのだ。