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© 2017 SHEPARD DOG, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

『デトロイト』映画評

Shinsuke Ohdera

『ハート・ロッカー』のキャスリン・ビグロー監督による最新作は、1967年、デトロイト暴動の渦中で起こったモーテルでの“戦慄の一夜”を臨場感たっぷりに描いた群像劇。

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『デトロイト』は、監督キャスリン・ビグローにとって長編10作目に当たる映画だ。ビグローが現代アメリカを代表する映画作家の一人として広く知られるようになったのは、2008年『ハート・ロッカー』からだろう。この作品で彼女は、女性として史上初めてアカデミー監督賞を受賞している。だが、コアな映画ファンの間でビグローはその初期から有名だった。

彼女は、コロンビア大学芸術大学院時代にミロシュ・フォアマンに才能を見いだされ、長編処女作『ラブレス』でデビューを果たす。この作品はウィレム・デフォーの初主演作であり、米アンダーグラウンド映画界で有名なモンティ・モンゴメリー(アメリカン・シネマテーク創立者でもある)との共同監督作だった。これら名前の並びからも、すべにビグローがいかに注目される存在だったかが分かるだろう。ジャンル映画に70年代的な陰りや粘着質な暴力描写、日常生活での摩耗感など独特の感受性を持ち込み、その作風は『ニア・ダーク』や『ブルースチール』においてすでに大きく開花していた。

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だが、彼女がハリウッドにおいて本当の意味で成功するのは、やはり『ハート・ロッカー』からだ。この作品で脚本と製作をつとめたマーク・ボールとのコンビが大きかった。事件記者だったボールは政治的問題を孕んだ現実の出来事に取材し、実録ものの社会派映画として仕上げることに手腕を発揮する。ボールとのコンビで作り上げた『ハート・ロッカー』『ゼロ・ダーク・サーティ』、そして今作『デトロイト』はいずれも大きな話題を呼び、ビグローを一つ上のステージに押し上げた。そしてそのフォーミュラはすべて共通している。簡単に言えば、ジャンル映画の血脈を受け継ぐ社会派映画である。だがその事実は、この『デトロイト』に二つの異なる結果を同時にもたらしているようにも見える。

『デトロイト』は、1967年にアメリカの大都市デトロイトで起きた人種間の対立と黒人暴動を背景としている。冒頭ではダイナミック・キュビズムと称される独自のタッチで黒人の日常生活と苦難を描いた黒人画家ジェイコブ・ローレンスの絵画によって、暴動にまで至ったデトロイトの歴史的バックグラウンドが語られる。この段階ですでにビグローがどういう立場でこの作品を描こうとしたかは明確だろう。映画は、暴動のきっかけとなった白人警官によるモグリ酒場への取り締まりから始まり、日常から逸脱して「戦場となった」デトロイトの街の様子を当時の記録映像や音声を織り交ぜつつ点景的にピックアップして描いていく。ここで紹介された何人かのキャラクターたちは、やがて〈アルジェ・モーテル〉へと集結し、オモチャの空砲をスナイパーによる襲撃だと勘違いした白人警官たちから激しい精神的・身体的苦痛を伴った執拗な尋問と拷問が続く長い長い夜へと、映画はその焦点を絞っていくのだ。

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アルジェ・モーテル事件については、原爆投下直後の広島を取材した『ヒロシマ』などの記事で名高いジョン・ハーシーによるすぐれたルポ『The Algiers Motel Incident』などがあるものの、一般的知名度は高くない。デトロイトの街角から一人また一人と集まってきた登場人物たちが、上映時間にして実に40分以上にも及ぶ粗野で陰惨でショッキングな暴力事件へと巻き込まれていくプロセスを見つめるのは、単なる映画観客に過ぎない私たちにとっても酷く苦痛を伴う体験だと言って良いだろう。これは決して悪い意味ではない。むしろ、ここにこそジャンル映画監督としてのビグローのすぐれた手腕が発揮されていると言うべきだ。

名撮影監督バリー・アクロイドによってシャープに切り取られた警官たちの激しい暴力は、いつ終わるとも知れない夜の密度の中でひたすら陰湿に粘着質に私たちの皮膚に絡みつき、その度合いを刻一刻と増大させていく。映画前半の散文的点景から明確なコントラストを形成するこの過剰なバイオレンスに満ちた夜の持続の中で、私たちは拷問される黒人たち(二名の白人女性を含む)と同様の苦痛を味わい、白人警官たちの暴挙に対し激しい怒りを感じるだろう。この私たちのダイレクトな感情を導き出すものこそ、野心的構成の中で緊張感に満ちた素晴らしい場面を演出したビグロー監督の傑出した手腕であるのは間違いない。圧倒的力の差が存在する権力関係の中での執拗なハラスメントを描く映画的描写の冴えからは、例えばロバート・アルドリッチの傑作『何がジェーンに起ったか?』を想起させられるほどだ。

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『デトロイト』は、大変刺激的で見事な映画である。その映画的充実度は、ありきたりのブロックバスター映画では及びもつかない。だが同時に、世の中には素晴らしい映画であるというだけでは済まない問題もある。これは、もしかすると日本では余り受け入れられないタイプの言説かも知れないが、考えてみてほしい。『デトロイト』を見る観客には当然ながら黒人もいるのだ。いや、『デトロイト』がもし本当に黒人たちの側に立とうとした作品であるならば、観客としての彼らの存在こそ念頭に置いて映画が作られたはずだ。この作品は、現在まで続く人種的偏見とアメリカの分断を描いている。そして彼らはその苦難を現在も生きている。そうした状況において、過去の陰惨な暴力を描いた映画が、事件と同様の陰惨な映画的暴力として観客に押しつけられることはモラル的に間違っていないだろうか。この立場から『デトロイト』に激しい批判を寄せたのは「ザ・ニューヨーカー」誌の著名な映画評論家リチャード・ブロディだった。彼は、事件関係者への取材をもって描写の免罪符にしようとするプロダクションの姿勢にも疑問を呈している。事実、ジョン・ボイエガ演じる黒人警備員ディスミュークスは、現実には被害者を殴って暴行に荷担していたとの目撃者の証言もある。この作品はあくまでフィクションであり、その是非は監督自身の演出的選択においてこそ問われるべきなのだ。

『デトロイト』の評価はアメリカでも大きく二分している。この作品を高く評価する人々は、その映画的充実ぶりに着目する。逆に批判する人々は、現在のアメリカへとそのまま地続きであるアクチュアルな問題を描いた作品として、語り手のコミットメントに疑問を呈する場合が多い。Vibeの黒人女性ライター、シャネクア・ゴールディングは、本作が黒人コミュニティに寄与するところのほとんどない作品だと断じている。問題はここだ。つまりアルジェ・モーテル事件の場面は、ほぼホラー映画のタッチを踏襲していると言って良いだろう。白人警官たちはブギーマンである。自らが行使できる権力に陶酔するソシオパスか、白人女性を黒人に奪われたと思い込み激怒するマッチョか、愚鈍な差別主義者としてのみ彼らはそこで描かれている。彼らに人間の顔はなく、したがって人間を獣に変えてしまうシステムの残酷さもない。そして、ホラー映画で殺されるのはしばしば愚かで個性を欠いた若者たちである。この映画でも、壁に並べられ殴られ脅され一人ずつ殺されていく黒人青年たちは、警官にではなく映画によってどこかで個性を剥奪され、単なる被害者の記号へと矮小化されてしまっているように見えるのだ。ザ・ドラマティックスの悲劇的エピソードを彩るはずのラリーとフレッドの微笑ましい友情も、ここでは完全に背景へと没してしまっていた。

しかし、黒人たちは単なる暴徒でなければ、白人警官の暴力に脅えて逃げ惑うだけの表情を欠いた動物でもないはずだ。彼らの心を描かず彼らの側に立たないとするならば、事件当時ティーンエイジャーだったはずのビグローの視点は、アルジェ・モーテルの長い夜の中で一体どこにあるのか。そして人種差別が問題であるとするならば、その怒りの矛先は白人警官クラウスのような異常なモンスターに対してではなく、差別を生み出すシステムそのもの、社会そのものへと向けられなければならないだろう。このボタンの掛け違いは、終盤の裁判場面によっても埋められない『デトロイト』の本質的弱点である。ジャンル映画として野心的な構成を持ち、緊張感に満ちたすぐれた作品を作るだけでは済まない問題が現在の世界には存在する。現代映画の本当の挑戦は、むしろここから先に存在すると言うべきだろう。

デトロイト』 TOHOシネマズ シャンテほか全国公開中