Photography by Kenji Seo

建築を生きる:映像作家 ベカ&ルモワンヌ interview

MoMAにもその作品が所蔵されている彼らはしかし、インディペンデント精神の塊だった。二人が建築を映像で撮る理由とは? 建築を語る新たな手法を切り開いたベカ&ルモワンヌにインタビューを行なった。

by Haruka Inagaki; as told to kenji seo
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maj 24 2018, 11:13am

Photography by Kenji Seo

フランスを拠点に活動するベカ&ルモワンヌは、現代建築と都市を主題に映像を撮り続ける映像作家である。ユニットを組んで始めての作品『Koolhass Houselife』では、オランダの建築家レム・コールハース設計の近未来的な住宅を家政婦の視点からコミカルに描いたことで一躍有名となった。以降、現代建築とそこでの人々の振る舞いにフォーカスしたドキュメンタリー「Living Architecture」シリーズを作り続けている。2018年時点で全18本となった本シリーズはMoMA(ニューヨーク近代美術館)にパーマネント・コレクションとして収蔵されるなど、現在もなお世界から注目の的だ。そんな彼らに作品製作の裏側や思想について話をきいた。

——「Living Architecture」シリーズを始められた経緯やその進行についてお聞かせください。

イラ・ベカ:私はもともと大学で建築学を専攻していたのですが、途中から映画を撮るようになりました。ルモワンヌと出会い共同制作するようになった際、まず写真や映画という分野における、より自由な建築の表現方法の可能性について話し合うところから始めました。その後、私たちはとても有名な住宅の映画を撮る機会を得ることが出来たのです。それが最初の作品であるレム・コールハース設計「ボルドーの家」のドキュメンタリー『Koolhass Houselife』(2008)です。私たちはこの作品で、あたかも建築を神格化するような、清潔で整えられた美しい空間を見せるだけでなく、そこでのリアルな生活を同スケールで重ね合わせることを試みました。当初は住宅というとても小さなスケールからプロジェクトを始めましたが、教会や美術館などといった違ったスケールの建築に対しても同じアプローチで取り組みたいと思うようになりました。シリーズ名を「Living Architecture」と名付けたのは、私たちの興味が”建築の中で日々営まれる生活”に向いているためです。デザインの中でも特に、建物がどのように私たちの振る舞いを変えうるのか、という部分に面白さを感じます。例えて言うならば、今こうして私たちが座っている椅子のデザインが、この空間での私たちの振る舞いにどう作用しているのかを映画として描きたいのです。

——すでに10年間このシリーズの製作を続けてらっしゃいますが、制作費はどうしているのでしょう?

ルイーズ・ルモワンヌ:私たちはTVやプロダクションの後ろ盾がない中で、このプロジェクトを始めました。そのため私たちは束縛のない、とても自由な状況で自分たちの思考を構築していくことができました。それはとても重要なことで、なぜならあなたがTVや組織から資金を得るとき、彼らは恐らくあなたのやり方に介入してくるでしょう。だから私たちは予算をもらっていませんし、好きなときに撮影し、編集し、議論しています。私たちは映画を最初から最後まで本当に2人きりで作っているのです。自由を勝ち取るという意味においてそれはとても大切です。最初の映画を作ったとき、私たちはDVD付きの書籍を制作しました。私たちは自分たちで映画を配給し、制作物を出版します。そして、こうして得た収益によって、次のプロジェクトを進めています。

『Koolhass Houselife』予告編

——ベカさんが建築や都市について学んだことは、映画を撮るうえでどのように活かされているのでしょうか。

ベカ:ヴェネツィア建築大学時代に建築家アルド・ロッシや建築史家のマンフレッド・タフーリのもとで学んでいました。もしかすると、自由な精神を持つことだったり、物事を異なる見方で眺めるという姿勢は彼らの影響を受けているのかもしれませんね。私たちは彼らのように都市や建築をより異なった見方で見ようとします。一般的な建築の表現にみられるような、単なる美しいイメージには興味はありません。より興味を抱くのは、これらの単純に美しいイメージの背後にあって、通常は見えないようなものです。たいていの人は美しいものを見ると幸せになりますし、それを見たがりますから、彼らの目線をこうしたものに向けるのはなかなか難しいことです。

ルモワンヌ:私が思うに、美しいものはより簡単に表現できます。人々が物事をどう理解して解決するかという、習慣に影響を及ぼすようなコンセプチュアルな作品は、より複雑な表現を必要とします。私たちの映画の観客は、”美しい映画”と比べると限られた人々になるでしょう。

ベカ:私は今日の自分たちが完全にスタビライズされたイメージを持って歩いているように思うのです。普段私たちが目にするイメージの多くはとてもクリーンで、すべての動きが滑らかにスタビライズされています。そこらじゅうで目にする、そうした冷たい形式張ったイメージを私たちはいくぶんか壊したいのです。私たちはすべてが不安定で、動いており、薄汚れたようなイメージを好みます。ですから、住宅が雨漏りしている様子や問題がある部分も撮影するのです。

——『Xmas Mayer』(2010)でレンズを拭く様子をカットせずに残しているのもそのためなのですね。

ベカ:そうですね、それは良い例です。他の人なら通常カットするような部分を残すことを私たちは好んでいます。不安定さのためにこうした多くのシーンをフィルムの中に残しています。

ルモワンヌ:たとえ映画の中に私たちが写っていなくても、映画を撮るということはとても個人的な行為です。私たちは個人的に映画を撮っていますし、そうした些細な瞬間一つひとつにおいて、アクシデントが起こるはことは非常に重要です。私たちはアクシデントをカットしません。撮影時のアクシデントも含めて見せたいのです。そのため私たちはすべての作品でこの方針をとっています。それもすべて不安定なイメージのためなのです。

『Xmas Mayer』予告編

——おっしゃる通り、撮影されているお二人の存在が実際にキャメラに写っていないながらも、積極的に映画の中に現れているように感じます。映画の手法的な面で意識されていることがあればお聞かせください。

ルモワンヌ:60年代のシネマ・ヴァリテの作家たち、個人で製作活動を行なっていたジャン・ルーシュのようなタイプの人びとは私たちにとって非常に重要です。同時代のアニエス・ヴァルダは当時ドキュメンタリーを製作していた数少ない女性ですが、とても個人的でありながら、整然と真実を直観する手法を取っていました。またクリス・マルケルは、道を歩きながら自由に自発的に人々と対話するような撮影手法や、理性ではなく無意識の中で進行するような、とても有機的な映画の形式をつくりあげました。私たちは彼らから最も強い影響を受けています。

ベカ:画の作り方に関しては、写真家のウィリアム・クラインに影響を受けています。クラインと同様に、私たちは自分たちの作品のほぼすべてを広角で(場合によっては超広角で)撮影しています。なぜなら私たちはその空間にあるすべてのものを見たいのです。空間を見るときには目となるものが非常に重要だと思っていますし、私たちにとってはその空間で次から次へと起こる出来事を撮影するために広角レンズを使用するのが有効なのです。

——ルモワンヌさんは映画に関する研究をされていたと伺いました。

ルモワンヌ:はい。ソルボンヌ大学時代、ニコール・ブレネスという映画研究者のもとで学んでいました。私のテーマは、近代がどのように形態の統一性を破壊し、断片の美学をもたらすに至ったのかというものです。そのために映画理論、文学、哲学を研究していました。

Barbicania, © 2014 Ila Bêka & Louise Lemoine

——いま「断片」というキーワードが出ましたが、特に初期の作品では細かく分けられた章立てが連鎖しながら全体へつながっていくような構成が印象的でした。

ルモワンヌ:プロジェクトを始めた当初は、人びとの建築への見方を解体することが目的でした。そのため、全体像を持つということを避けたかったのです。たいてい建築雑誌では、その建築の全体像を理解できる気にさせる、一枚の美しい写真を目にします。一方、私たちのアイデアは、建築をそれを構成する”部分”を通して発見することにありました。そのため住宅の全体像を階段やカーテン、廊下などのいくつかのディテールに分解したのです。私たちのねらいは、これらの細かな章立ての集合を通じてのみ建物の全体像が見えてくるといったものでした。そしてこれを他の作品へ発展させようとしましたが、プロジェクトが進行するにつれて建築のスケールもどんどん大きくなっていったため、多様なアプローチの方法を考えなくてはなりませんでした。しかしこの断片のアイデアは気に入っています。それは構成の面で大いなる自由を与えてくれるのです。『Barbicania』(2014)のようなひとつの集合住宅をテーマにしたときも、細かな章をひとつにまとめて全体を構築しています。そして何が物語性を作り出すのかを把握するために、その配置を操作するのです。

『Barbicania』予告編

ベカ:僕らは映画を記憶の産物として作るようにしています。例えば建物の中に入るときや、街にいるとき、一日の終わりに家に帰るとき、こうして考えてみると、これらは皆ただの部分に過ぎないことが分かります。あなたはバスに乗り、窓から婦人が通りを歩いているのを見ながら、これらの美しい瞬間を思い出すでしょう。記憶は、一瞬一瞬のモーメントの集積で構成されます。私たちはその構造のようなものを作りたいのです。我々の記憶には、一つひとつのモーメントが別々に記録されていると考えます。それに似たある場所に行ったときの体験や、心に響いたものを、カメラにひたすら収めていくことにより作ろうとしているのです。ここにはかなり感性が介入してきます。私たちは、感性に響いた場面や様々な人びととの出会いの集積として映画を作っているとも言えるかもしれません。

——建築物を撮るためにその空間に関係する人々に着目されていますが、被写体となる人物(家政婦や住人)を撮る際に注意していることはありますか?

ベカ:建物における労働者たちはそこでの手慣れたアクションをいくつか持っています。例えば家政婦はその建物に対して家事という行為を持っています。一方で、家主の場合はそれとは状況が異なります。例えば『Moriyama-San』(2017)に登場する森山さんは、いつも本を読むのにたくさんの時間を割いています。私は彼に何の要求も口に出していなかったのですが、ずっと本を読んでいる人間を撮影するのは退屈なのではないかと数日経って気づいたようで、その後バーベキューを開いてくれたり、映画鑑賞会をしてくれたり、花火をしてくれたり、私のためにアクションを起こしてくれました。
私たちが撮り始めるのに時間が必要なように、人びとも私たちが何をやろうとしているか理解するために時間が必要なのです。急いではいけません。私たちは、人びとが何か言いたくなるまでただそこで時間を過ごし、その瞬間がきたら彼らが与えてくれるものを記録するのです。私たちの映画はすべてそうして作られています。

『Moriyama-San』予告編

——ありのままの建築の姿を表現するには、その建築と同等もしくはそれ以上に、そこにいる人々について理解する姿勢が必要なのですね。

ベカ:2、3日で撮られた有名建築の映画はありますが、それらはどのように建物が機能しているかを説明するものです。私たちは建築の全体の機能に関して何も説明したくありませんし、映画を観た人が最終的にどんな建築なのか理解できなければハッピーです。あなたは建築を理解する必要はなく、ただその空間にいる人々と同じ経験を共有しさえすれば良いのです。これらはただの私たちの見かたであり、私たちの人びととの関わり方です。私は教師たちが「これはこうだ」と答えを決めつけるのが好きではありません。あなたはあなたなりの考え方を提案する必要があります。私たちは自分たちの方法で映画を作り、それを提案しているだけなのです。

Homo Urbanus, © 2018 Ila Bêka Louise Lemoine

現在、彼らは対象をそれまでの固有の建築から都市へと展開した「Homo Urbanus」という新たなシリーズを製作中だ。このシリーズは気候・環境によってそれぞれの都市で人類がどのように生活しているかを文化人類学的な視点で比較する試みとなっている。都市での小さな出来事が連鎖的につながることで、部分の集積として都市という見えない全体、そこでの集団の記憶が構成されてゆく様は「Living Architecture」シリーズと地続きである。すでにボゴタ、サンクトペテルブルグ、ラバト、ソウル、ナポリといった都市で撮影済みだという。彼らは現在も次なる都市で製作を行なっている。

Living Architectures
2018年6/2-3 京都国立近代美術館にて2日間連続上映

Credit


Text Haruka Inagaki
As told to Kenji Seo