i-D throwback:ノーザン・ソウルの90年代リバイバル

DufferのTシャツにプリントされたロゴからシングル盤のスリーブ、クラブHeavenly Socialのセットに至るまで、ノーザン・ソウルのリバイバルが著しい昨今だが、これは本当に“リバイバル”と呼べるのだろうか——ノーザン・ソウルが下火になったことなどこれまであったのだろうか? 1996年8月のi-D『The High Summer』号の記事を紹介しよう。

by Dean Cavanagh
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09 September 2016, 5:47am

ノーザン・ソウルは、あくまでもアンダーグラウンドのシーンだった。だから、歴史的記録がほとんど残っていない。見つけようとしても、それは風洞で目も開けていられないほどの向かい風を前に、上向きに小便をするようなものだ。ノーザン・ソウルは砕け散って変異した、サブカルチャーとしては例外中の例外なシーンだ。そしてさらに重要なのは、ノーザン・ソウルが商業化によって陳腐に薄められていくのを拒絶したジャンルであるということ。メディアの無知を嘲笑し、アンダーグラウンドの存在を死守するシーンは、パッケージングして売ることなどできないのだ。

アメリカのソウルミュージックを愛するイギリス人のファンとして、1960年代初期にブリティッシュ・ソウルのシーンに絶大な貢献と影響をもたらしたデイブ・ゴーディン(Dave Godin)こそが、自身のコラム『Blues and Soul』のなかで、そのシーンを「ノーザン・ソウル」と名付けたひとだ。独自にアメリカのソウルミュージックを取り入れて、60年代中期に、主にイングランド北部の小さなクラブで小さな激震を起こしていたシーン——ゴーディンは、このシーンの骨組みをなんとしても説明したかった。その末の命名だった。サウンドは荒削りで、聴衆を沸かす力があり、がなるような管楽器の激しい音に、胸を締め付けるようなボーカルが特徴だった。量産こそされなかったが、クラブの客たちからは熱狂的な人気を誇ったノーザン・ソウル。発生からほどなくして宗教とでもいうべき現象となり、熱烈なフォロワーを生み出した。ブラッドフォードのThe Mojo、マンチェスターのTwisted Wheel Club、クルーのUp The Junction、ストークのGolden Torch、ウィガンのWigan Casinoといったクラブが、ノーザン・ソウルの寺院のような役割を果たした。そうしてできあがったシーンは、継承と知識、強烈な個性と大量のアンフェタミンによって、さらなる高みに達した。

デイヴ・プレスコット(Dave Prescott)は、ノーザン・ソウルが成熟していく時代にその荒削りな精神の勢いを目の当たりにすることができた数少ない人物のひとりだ。「あのシーンはスクータークラブから芽吹いたような感じに思えた。当時、俺たちは60年代初期のクラシックなアメリカのR&Bをたくさん聴いていたんだ。そこにDJがノーザン・ソウルを作り出したときは、新鮮な空気を吸ったような気分だった。ノーザン・ソウルはいわば保護されたシーン。それまではシーンが生まれるといえばイングランド南部が通例だったのが、ノーザン・ソウルは北部だけで発生していたというのも嬉しかった。そこには確かな純粋主義のようなものがあった。シーンに傾倒していたひとのほとんどは、ノーザン・ソウルがアンダーグラウンドに忠実であることを望んだ。イングランド南部では、ジェームス・ブラウンに代表されるようなソウル・ファンクのファンキーなサウンドがもてはやされていたのに対し、北部ではもっと荒削りなものを探し求めつづけたんだ。泥臭さへのこだわりみたいなものがあったのは否定しないけど、だからこそノーザン・ソウルはあの高みに達することができたんだ。Bi-oneは魂を売ろうとしていた」

成熟していくにつれ、そのファッションスタイルを追ったテレビドキュメンタリーが制作されたり(笑うしかないクオリティだった)、遠路はるばるライブを観に大勢の聴衆が押し寄せたり、そしてレアなシングルを発売したいと札束が積まれたりと、そこにはノーザン・ソウルをより多くの聴衆に届けたいという不可避な現象が発生した。アシッドハウスのシーンを開拓したアーティストたちと違い、ノーザン・ソウルの開拓者たちは目先の富にも、シーンをトレンドに押し上げることにも興味を示さなかった。ノーザン・ソウル界においてもっとも影響力を持つDJであろうデイヴ・エヴィソン(Dave Evison)は、しかし当時を振り返って次のように語っている。「70年代初頭までにノーザン・ソウルはもう噴火寸前の状態になっていた。ソウルファンたちは、踊れる音楽がレコードで発売されることを望んでいた。DJたちもまた、母乳を求める赤ん坊を前にした母親のような気分になったものだ。多くのDJは、失敗を恐れずより新しいサウンドをという姿勢を忘れ、しかし飢えた子供たちが満腹になるぐらいのレアでダンサブルな曲は届け続けた」。それでもノーザン・ソウルが、その直後に爆発的人気を博すUSブラックミュージックの流入を大きく促す、底知れぬ力を持ったシーンであり続けたのは、エヴィソンを始め、キース・ミニシュル(Keith Minishull)、ラス・ウィンスタンリー(Russ Winstanley)、アラン・デイ(Alan Day)といったDJたちの力によるところが大きい。

ノーザン・ソウルが進化すると、絶大な影響力を誇ったクラブBlackpool Mecca Highland RoomのDJ、イアン・レヴァインやコリン・カーティスらがシーンを新たなレベルへと導いた。純粋主義は影を潜め、ノーザン・ソウルのサウンドは複合的サウンドへと変化して、クラブに浸透していった。ノーザン・ソウルのクラシックソングは、ジャズやハイエナジー、プロトハウス、ストリートソウルといったサウンドと並べられてプレイリストに加えられるようになった。黎明期からノーザン・ソウルを支えてきたリン・ギルバート(Lynne Gilbert)は、クラブカルチャーがノーザン・ソウルを過小評価していると感じていたうちのひとりだった。「アメリカのモダンソウルのサウンドを積極的に取り入れたリチャード・シアリング(Richard Shearling)やコリン・カーティスといったDJの存在なくして、現代ある上質のガレージもジャズも、ファンクもヒップホップも、コンテンポラリーソウルも存在しえません。使い古された言い方ですけどね。でもその道の開拓者たちがそれ相当の評価を得ずに来ているのは確かです。真似をした人たちばかりがのし上がりました」

いま改めて(しかし限定的に)盛り上がりを見せるノーザン・ソウルへの関心により、生の音源やシーンのアンダーグラウンド精神などを掘り起こそうとする動きが今後見られることになるだろう。The Heavenly Socialで、名曲と考える数曲をプレイしたことがある私は、イングランド南部と北部のサウンドに依然として大きな隔たりをみとめることができる。デヴィッド・ホルムスやボビー・ガレスピー(Bobby Gillespie)などのDJが考えるノーザン・ソウルの概念は、私のそれとはまったく違う。泥臭さへの私のこだわりが強すぎるのだろうか?デイヴ・プレスコットは、このこだわりについて繰り返しこう説明している。「ノーザン・ソウルを愛した人々が共有したこの気持ちは、きっと失われることなく生き続ける。当時のシーンが持っていた勢いを知っているひとは、あの誇りを失うことなんてできない」

そのシーンは現在も生き続けている。ブラッドフォードのミッドランドホテルは、口コミイベントを毎月開催しており、そのイベントには30代のノーザン・ソウル・ファンたちに混じり、若い世代も多く見られる。常連参加者のウィンストン・エティエンヌ(Winston Ettiene)は、新しいファンを心から歓迎している。「若い世代がノーザン・ソウルを気に入ってくれるなんて最高にクールだよね。もちろん、今の状況を嘆く古株たちは絶えない。でも、何も心配する必要なんてない。ノーザン・ソウルのシーンが乗っ取られたり、商品化されるなんてことは起こりえないんだから」

年上のいとこたちからノーザン・ソウルを与えられて育たなかったとしても、私はきっと他のブラックミュージックやブラック・サブカルチャー、ブラックアーティストたちに傾倒していたに違いない。マヘリア・ジャクソンやインプレッションズ、スライ・ストーン、ザ・ラスト・ポエッツ、そしてドクター・アリマンタドなど、挙げたらきりがないが、私たちが今日愛してやまない複合的サウンドは、これまで多くのブラックアーティストたちが試行錯誤して生み出してきたものがあってこそ生まれたものなのだ。キリスト教の神であろうとアラーの神であろうと、ブッダであろうと誰であろうと、ノーザン・ソウルを生み出してくれたその誰かに、私たちは感謝すべきだ。なぜなら、ノーザン・ソウルの発生なくして、イギリスのミュージックシーンは今頃、不毛なフィールドとなっていたに違いないのだから。

Credits


Text Dean Cavanagh
Photography Elaine Constantine 
The High Summer Issue No.155, August 1996
Translation Shinsuke Kuriyama at WORDSBERG Inc.

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