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画面の分裂

ここ数年間ですっかり日常に溶け込み、現代生活の必需品となったスマートフォン。それなしの世界なんてもう考えられない!だけど、それによってもたらされた人類史上最多の画面数と情報量は私たちになにをもたらしたのだろうか? 小説家・海猫沢めろんが、スマホがヒトの意識に与える影響を考える。

by Melon Uminekozawa
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06 October 2017, 7:30am

スマホを捨てて5年以上が経った。

インターネット依存症と言ってもいいほどのネット中毒だったぼくにとって、スマホは悪魔の道具だった。

なにせ、起きている間は常にネットとつながっていられるのだ。朝から晩までゲーム、マンガ、アニメ、ニュース、SNS……あらゆる情報にアクセスして延々と情報をため込んでいると、自分が単なる情報処理マシンになったような非人間的な気持ちよさがあった。

朝は睡眠管理アプリで自分の今日のコンディションを調査。TODOリストで仕事を整理。昼は食べログ高評価の店に行き、夕方はランニング管理アプリで汗をかいて、夜はヨガアプリでメンタルヘルスを調整……できない……できてない! ぜんぜん管理できないよ! むしろスマホ使いたいだけじゃねえのか俺!?気がつくと、ネットに逃避することで仕事がほとんどできなくなっていた。これはいけない。死ぬ。

というわけで、ぼくは5年前にすっぱりとスマホを捨てたのだった(実際にはスマホどころか携帯電話すら持たない時期が1年近くあったのだが、周りの不評によりキッズケータイに。そして今はガラケーになっている)。

世間のみなさまはスマホを持ってよく正気でいられるものだ……いや、もう狂っているのかもしれない。

電車のなかで賢そうな大人たちがどんな意識の高い記事を読んでいようとも、その見た目はうすっぺらいガラス板を指でこすったりたたいたりしているサルだ。こないだSF映画の古典的名作であるキューブリックの『2001年宇宙の旅』を見たのだが、冒頭でサルが黒い石版<モノリス>に触れて人へ進化するシーンが、スマホを手に入れた人類のメタファーにしか見えなかった。

初代iPhoneの発売が2007年。日本でiPhone 3Gが発売されたのが2008年。10年前、スマホがなかった時代から考えると人類は進化したような……してないような……。果たして人はスマホで賢くなっているのだろうか?

そもそも人間の脳は便利な道具や環境を手に入れることで、どのくらい変化するのだろうか?

この問題についてぼくが知っている有名な話は、『ネット・バカ』に書かれた、かの有名な哲学者フリードリヒ・ニーチェのものだ。もともと病弱だったうえに戦争で傷を負っていた彼は、30代半ばごろヨーロッパ各地を転々としながら体調不良と折り合いをつけていたが、その数年後ついに限界に達する。視力が落ちて、頭痛嘔吐の症状に苦しめられもう執筆できないのでは……というところまで追い詰められたのだ。そこで彼はとある機械を導入する。

"万策尽きた彼はタイプライターを注文した。デンマークのマリング=ハンセン製ライティングボールだ。下宿に届いたのは1882年初頭のことだった。コペンハーゲンにある王立聾唖協会の会長、ハンス・ラスムス・ヨハン・マリング=ハンセンによって数年前に発明されていたライティングボールは、奇妙な美しさを持った器械で、金色に飾り立てられたピンクッションのような形状をしている。大文字と小文字、数字、句読点から成る52個のキーは、最も効率よいタイピングのために科学的にデザインされたという配列で、ボールの上面から放射状につきだしている。キーのすぐ下には湾曲したプレートがあって、タイプ紙がそこに固定される、キーを叩くたびにこのプレートは、精巧なギア/システムによりスムーズに回転していく。充分な訓練を積めば一分間に8000文字をうつことが可能であるこの器械は、当時、史上最速のタイプライターであった。"(ニコラス・G・カー『ネット・バカ』 篠儀直子訳)

この結果ニーチェはなんとか執筆を再開、文体はタイトで電報のようなスタイルになり、それまでより軽やかで力強いものになったという。そのことを指摘した友人の作曲家ハインリッヒ・セーゲリッツに対してニーチェは、「執筆の道具は、われわれの思考に参加するのです」と答えたそうな。

うーん、やっぱり道具と思考って、ある程度は関係してるよなあ。なんてことをぼんやり考えていたところ、さらにふと柳田國男の「火の分裂」の話を思い出した。

明治より前、まだ日本に電線網がじゅうぶんに行き渡っていない時代。家の中心に囲炉裏があって、家族はそこに集まっていろいろな会話を交わしていた。ところがロウソクやランプなどで、個室に火を持っていけるようになると、家族は分裂し、みんなが思い思いのことを考える時間が増えた。それによって人の内面もまた変化していった……というのが柳田の考えた「火の分裂」の趣旨だ。

"彼らは追い追いに家長も知らぬことを、知りまたは考えるようになってきて、心の小座敷もまた小さく別れたのである。夜は行燈というものができて、随意にどこへでも運ばれるようになったのが、実は決して古いことではなかった。それが洋燈となってまた大いに明るくなり、次いで電気燈の室ごとに消したり点したりし得るものになって、いよいよ家というものにはわれと進んで慕い寄る者の他は、どんな大きな家でも相住みはできぬようになってしまった。自分は以前の著書において、これを火の分裂と名づけようとしていたのである。"(『明治大正史 世相篇』)

「火の分裂」によって近代日本人の内面がつくられていった……などとは柳田は言っていないのだが、そう思っていたであろうことは想像に難くない。この「火の分裂」の話を最初に友達に聞いたのは、7年くらい前だっただろうか。そのときにぼくは「あれ、これテレビも同じだよな」と思ったのを覚えている。かつて、昭和の家庭の中心にあったテレビ。それはいまやスマホにとってかわられ、みんながリビングに集まってひとつの画面を見るという風景は珍しいものになった。家にいてもひとりひとつの画面を持って、別々の画面を見つめている。テレビを見ながらスマホを見るという使い方も一般的だろう。

ぼくは「火の分裂」に対して、これを「画面の分裂」と名付けたい。

さて、さきほどの話に戻ろう。もしも「火の分裂」によって近代日本人の内面がつくられていったとしたら、それは、道具や環境によって人の心が変化したということにほかならない。だとすれば、現在起きているスマホによる「画面の分裂」は、どういった心を作るのだろうか? 知りたいのはそこだ。思いもよらないような奇妙なものなのか、それともあまり変わりばえのしないものなのか。「画面の分裂」がつくる新しい意識の形について想像をめぐらすのに、ちょうどよい書物がある。小児発達学部教授のメアリアン・ウルフが書いた『プルーストとイカ』という本だ。これは文字を読むという行為がいかに人間の脳を変化させていくのかということを、最新の脳スキャン技術をふまえて探った一冊。

"私たちはけっして、生まれながらにして文字が読めたわけではない。人類が文字を読むことを発明したのは、たかだか数千年前なのである。"(『プルーストとイカ』 小松淳子訳)

という言葉通り、初期の人類にとって、字を読むという行為はまったく未知のものだった。しかし、ひとたび「読む」という行為を覚えると脳はものすごい速度で進化していったという。この本が主張したいことは「当たり前のように思っている"読む"という行為は、実は当たり前ではない」ということだが、もうひとつ重要な要素が「ディスレクシア(読字障害)」についてだ。

村上春樹の『1Q84』のヒロイン「ふかえり」のせいで、日本でも広く知られることになったディスレクシア。この障害を持つ人は、先天的に字を読んだり書いたりすることが困難だ。学習障害の一種で、昔からこういう人は一定数存在していた。文字を読むのは主に左脳の機能だが、ディスレクシアは左脳の読字回路がうまくつくれず、右脳の側を使う。そのために右脳の働きが強くなって天才的な能力を発揮する人もいる。例えば、アインシュタイン、ダ・ヴィンチ、エジソン、ロダン、ガウディ……などなど、彼らもディスレクシアだったらしい。

今、ぼくらが使っている無数の画面のひとつであるスマホはたしかに便利なデバイスだけれど、よく考えてみるとそこで使われているのはほとんどが「言葉」である。しかし、同時にそのなかで絵文字やLINEスタンプやInstagram、あるいは動画サービスなど、言葉によらないものも増えている。だとすれば……もしスマホがもっと発達して、文字を使わずに利用できるようになったとしたら、ぼくらの左脳ではなく右脳のほうが肥大化して今とはちがう発想をするようになるんじゃないだろうか?

あまりにも単純な発想だけれど、実際、人間が今のように賢くなったのは、肉やら果物やら栄養価の高いモノを食べて「認知革命」が起きたせいという説もある。スマホの普及によって、人はかつてないほどの情報量を頭に流し込まれている。栄養価が高くて認知革命が起きるなら、脳への情報負荷によって革命が起きてもおかしくないだろう。デバイスにって人の意識が変化し、内面も変わっていく――昔からSF作品でさんざん言われていたことだけれど、実際にそれが起きるのを見てみたいものだ。たとえば、それは全人類がYouTuberになるとか、文字がぜんぶスタンプになっちゃうとか、そういうショボいことかもしれないのだけれど。