「ステレオタイプ」と「自分自身」が重なるとき:木津毅【来るべきDに向けて】

他人の目を気にして、自分の本当に好きなものを否定してしまってない?

by Tsuyoshi Kizu
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29 December 2020, 9:20am

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坂本龍一とGotchが中心となり発足したオルタナティブ・プロジェクト「D2021」。震災(Disaster)から10年(Decade)の節目を目前に控えた今、私たちはどのような日々を歩んできたのか、そして次の10年をどのように生きるべきなのか。この連載「来たるべきDに向けて」では、執筆者それぞれが「D」をきっかけとして自身の記憶や所感を紐解き、その可能性を掘り下げていきます。

今回は、音楽、映画、ゲイ/クィア・カルチャーを中心に執筆を行なうライターの木津毅が登場。

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drama queenな僕のdetoxification by 木津毅

ソーシャル・メディア上での誹謗中傷、怖いですよね。幸いなことに僕は、建設的なご批判やご指摘をいただくことはあっても、あからさまな誹謗中傷を受けたことはそれほどない(と思う)。ただ、SNSでひとつ興味深い自分宛のコメントを見かけたことがあった。それは、「木津毅さん、drama queenやめたら?」というようなものだった。

僕がオープンリー・ゲイであることに対する言及のあとのコメントだったので、「queen」がゲイに対する蔑称としても使われることを踏まえると、差別的な側面もあるので普通に問題なのだけど、僕の反射的な反応は傷ついたとか怒ったとかとは別のものだった。

え?? 自分って、drama queenですかね??????

「drama queen」を検索にかけると「おおげさなひと、過剰に騒ぎ立てるひと」で、「女性にも男性にも使われる」とあるけれど、まあ女性に対して(偏見をたっぷりと含みながら)攻撃的ないしは揶揄的なニュアンスで使われることが圧倒的に多いと思う。アメリカの学園ドラマなんかを見ていると、女子生徒への陰口で「She is a drama queen!」みたいな感じで使われますよね。

「うーん、公の場でdrama queen的な振る舞いしたことあったかなあ」と記憶を手繰りながら、どうも自分の性格や言動と「drama queen」が結びつくようには感じられなかった。それは自分じゃない、と思った。他者の自分に対する印象はコントロールできないものだし、まあその方もとくに僕のこと知らないで何かの悪意の勢いで書いてしまったのだろうから気にし過ぎることはないだろうけれど、ではなぜ僕は、自分のことを「drama queen」と見なせない、あるいは見なしたくないのだろうと考えた。というのも、似たようなことを身近な人間に言われたことがあるからだ。

彼氏とはじめて海外旅行に行ったときのことだ。現地の美味しいものを食べる情熱に駆られた僕はある晩案の定お腹を壊し、ベッドでうんうんとうなっていた(あたったのではなく、たんなる食べ過ぎ)。はじめてふたりでする旅行だし、ちょっと甘えたほうがいいかと思い、「手を握って」と頼んでみたら、アメリカ人のおじさんは心底うんざりした顔で「Such a drama!(おおげさなヤツだな!)」と言ったのだった。えーっ、弱ってるときぐらい優しくしてくれてもいいやんかー! まあ、しぶしぶ握ってはくれたのだけど。「queen」とは言わなかったけれど、意味合いは近かったのだと思う。そのとき僕は、自分のなかのdrama queen性を発見したのだった。腹痛は翌朝すっかり治っていた……うん、おおげさやったね。

だけど、どうして僕は自分のdrama queen性を認められないのだろう。……たぶんそれは、僕のなかでゲイのステレオタイプのイメージと結びついているからではないかと思う。

ゲイであることを自覚し始めたとき、テレビのなかにいる「オカマ」と呼ばれるひとがキャーキャー騒いでいるのを見て、「僕はこれじゃない」と思っていた。小学校のときは女の子の友だちたちと『セーラームーン』を楽しく読んでいたけれど、高校生ぐらいになると「中性的なところあるよね」なんて言われると、自分が「女みたいな男」と他者によって判定されることに怯えていた。ゲイのなかには「(いわゆる)男らしさ」を過剰に追求するひともいるけれど、それは、ゲイのステレオタイプに対する忌避感から来ているのではないだろうか。僕にもそういう部分はあったし、いまもどこかに残っているのだと思う。

ゲイの内輪の言葉に「ゲイゲイしい」というのがあって、僕は長いこと「ゲイゲイしい」ものに距離を感じていた。カイリー・ミノーグにみんなで「キャーッ!」と盛り上がったり、中島みゆきをカラオケでエモーショナルに歌い上げたりする行為は「ゲイゲイしい」のだが、「自分はちょっとそういうタイプとは違うんですよね~」とスカしていたのだ。書いているだけで恥ずかしい。いまから思えば、僕がゲイのステレオタイプを避けていたことは典型的な「インターナライズド・ホモフォビア(内在化された同性愛嫌悪)」だったと思うからだ。

ゲイがゲイのステレオタイプとどう付き合うかは難しい問題だ。ゲイが社会から押しつけられる「オカマ」「オネエ」といったようなステレオタイプはもちろん差別的なのだけれど、自分のなかの「ゲイゲイしい部分」を認められないのは、社会の差別的なまなざしを内面化している部分もあるだろう。また、「女みたいな男」を否定する世間の価値観に追従してしまってもいる。僕個人の話で言っても、ゲイであることをカミングアウトした状態でメディアに出る人間なので、ステレオタイプと結びつきそうな言動をどこまで公にするか、というところでよく悩む。「小学校のとき、『セーラームーン』が大好きでした!」は僕の真実なのだけれど、「ああ、やっぱりゲイって女の子的なものが好きなのね」というステレオタイプ的な印象を生み出してしまうかもしれない。けれどそれを隠すことは、「女の子みたいな男の子」や、何より自分自身を否定することにもなる。考えるとキリがないが、考えてしまう。「Be yourself(自分自身であれ)」はクィア・カルチャーの重大なメッセージだが、「自分自身」が「ステレオタイプ」と重なるときはどうすればいいのだろう? いずれにせよ、それがインターナライズド・ホモフォビアと結びついているのだとすれば、立ち止まって考えないといけない。それは僕のなかの毒だからだ。

最近しばしば耳にするようになったトキシック・マスキュリニティという言葉を知っているひとも多いだろう。「有害な男性性」と訳されることが多く、ミソジニー(女性嫌悪)やホモフォビアに由来する、「タフであること」への過剰な信仰や女性や性的少数者を貶めることで自らの「男性性」を誇示することなどが典型例として挙げられるものだ。

トキシック・マスキュリニティのポイントのひとつは、「トキシック」は「有毒な」という意味がある言葉で、そうしたトキシック・マスキュリニティ的価値観は当の男性にも毒のようにじわじわと害を及ぼす可能性もある、ということだ。たとえばタフであることを自らに過剰に課してきた男性は、深刻に悩んでいるときも誰かに弱みを見せることが難しくなるだろう。ホモフォビアを根深く身につけてしまった男性は、ホモソーシャルのコードに則らない男性同士のケア的なコミュニケーションを忌避してしまうだろう。だから、毒の正体を見極め、解毒(detoxification)することが、個人にとっても社会にとっても必要だという段階に来ている。デトックスだ。僕もトキシック・マスキュリニティについて日々考えたり、文章に書いたりしているけれど、もちろん自分もその毒から逃れられていない。

僕が社会のステレオタイプを意識するあまり、自分自身をインターナライズド・ホモフォビア的観点から否定しているのだとすれば、それは僕にとって有毒だ。トキシック・マスキュリニティ(女みたいな男は良くない)と結びつくところもあるだろう。だから僕はいま、デトックスとして自分のdrama queen性を認め、肯定したいと思っている。

「queen性」(≒「ゲイゲイしいこと」)を肯定する、というのもクィア・カルチャーの重大なメッセージのひとつだ。たとえばパフューム・ジーニアスを名乗るシンガーソングライターのマイク・ハッドレアスは、代表曲“queen”で自らのqueen性を肯定している。その曲では「わたしがしなしなと歩くとき、それは家族向けではない」というのがキメのフレーズになっているが、ミュージック・ヴィデオのなかでハッドレアスは、会社のお偉いさんが集まる会議室のテーブルの上をハイヒールとフルメイクで、まさに「しなしなと歩いて」みせる。……超カッコいい。「家族向けではない」というのは、かつてポルノ俳優と共演したミュージック・ヴィデオが「家族向けではない」と(ヘテロセクシュアルのものでもっと過剰に性的なものもあるにもかかわらず、)YouTube上で一時公開禁止になったことに対する反論である。それが「家族向けではない」とされたことは、ホモフォビアをマイルドに表明するための欺瞞であることを見抜いたからである。だからこそ、「ゲイゲイしさ」でもって闘ってみせたのだ。しかしそこでは、「ゲイゲイしさ」以上に、ハッドレアスの「自分らしさ」が祝福されている。

だから、「drama queenやめたら」とコメントしてきた方には申し訳ないけれど、僕は自分なりに「自分自身の」drama queenぶりを楽しもうと思っている。弱っているときぐらい、多少おおげさに周りに甘えてみてもいいだろう。カイリー・ミノーグのディスコ・ビートに合わせて爆踊りしたっていい。どちらもちゃんと自分だと感じるから。ともかく、「ゲイゲイしい」イメージや行為が社会に押しつけられているうちはステレオタイプだが、だからこそ、僕たちゲイはそれを自分自身の喜びとして取り戻さなければならない。

毒は簡単に消えるものではないし、そもそも何が毒なのかを見極めることは難しい。丹念な自己省察が必要なときもあるし、毒を意識するあまり過剰に自罰的になってしまう危険もある。だけど……解毒はきっと、そんなにつらいことばかりではない、と僕は思う。自分が本当に欲望していることを見つめ、けれども同時に社会との接合点を無視せずに、少しずつ解放していけばいい。そのことを友人たちと、まだ見ぬ誰かと祝福したい。

祝福といえば、パンデミック以降、僕はダンスフロアにまだ行けていない。そうだ、社会のステレオタイプと別の次元で、僕はいつだってディスコ・ミュージックが好きだった……たくさんのqueenたちと同じように。フロアでまたみんなに会えたら、ドナ・サマーの“I Feel Love”をDJに回してもらおう。

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D2021

木津毅(きづ・つよし)

ライター。1984年生まれ。音楽、映画、ゲイ/クィア・カルチャーを中心にジャンルをまたいで執筆。編書に田亀源五郎の語り下ろし『ゲイ・カルチャーの未来へ』(Pヴァイン)がある。連載にエッセイ「ニュー・ダッド あたらしい時代のあたらしいおっさん」(『cakes』)、「LGBTQ通信」(『ミュージック・マガジン』)、「話題は映画のことばかり」(『EYESCREAM』)など。

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