MARVELはヒーローをどう描いてきたのか? 荻上チキ×光岡三ツ子

歴史的メガヒットとなった『アベンジャーズ/エンドゲーム』とその後の『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』で”フェイズ3”が完結したMCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)。11年にわたる本シリーズで、MARVELはヒーロー像をどう更新したのか?

by Takuya Tsunekawa
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05 August 2019, 11:14am

70年以上にわたりヒーローを描き続けてきたアメリカン・コミックス。そのなかで、無邪気な正義感を起点としたヒーローたちは、現実の矛盾と複雑さにぶつかって悩み苦しんできた。時代とともにヒーロー像はどのように変化し、多様化してきたのだろうか。

アメコミファンとしても知られる評論家の荻上チキと、日本のアメコミ文化を牽引してきた翻訳家でアメコミ・ライターの光岡三ツ子による初対談が実現。ジェンダーやエスニシティが持ち込まれることで進化し続ける現代のヒーローについて語り合った。

弱さを強さにするヒーローたち

──近年はマーベル映画が世界的にヒットを連発していますが、その人気はどこにあると思いますか?

荻上 マーベルは人の弱点を描きますよね。例えばヒーローは、ヴィラン(敵役)との戦いを通じて、社会の問題や自分自身の人生で背負ってきた呪いと向き合います。トニー・スターク(アイアンマン)は、自分が心血を注いできた軍事産業がもたらす悲劇や矛盾と対峙します。ピーター・パーカー(スパイダーマン)も、ベンおじさんやグウェン・ステイシー親娘の死が自分にあるというトラウマを抱えます。そうした弱点を見せて、それが解消できてハッピーエンド、という終わらせ方をしません。同時に、マーベルのヒーローはチームアップしていくことによって、どんどん個性が際立つ。経済学でいうところの「比較優位」や「分業」のように、すごく強いヒーローにも苦手はあるし、「一般人が努力しました」みたいなキャラクターも活躍する。「あのキャラクターたちのなかだと彼はこのように輝く。翻ってそれを推す私はどのような輝き方を自分なりにすればいいだろう」と、より自分に引きつけられる気がするんですよね。どこかに自分がいると確認できる。多様性のなかでの群像劇が展開される。そこがマーベルの信頼できるところですね。


光岡 スパイダーマンは自分の弱さを知り尽くしているからこそ、そのなかで戦略を立てて勝てる戦い方をする。パワーでいったらハルクとかプロフェッサーXみたいなテレパスが優れているわけですけど、彼らが勝つかというとそうじゃない。スパイダーマンにも勝てる余地がある。MCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)のなかではアントマンもそういうふうにうまく戦いますよね。「強さ」が本当の強さじゃないっていうのが現実であって、そういうリアリティを取り入れることでアメコミって大きくなっていったんじゃないかと思います。


荻上 スパイダーマンって本当に隣人でしかなくて、アベンジャーズに参加してサノスと戦うような宇宙規模のヒーローでは本来ないわけですよね。絶妙に自分のキャパシティをちょっと超えるぐらいの敵と格闘していくなかで、葛藤と成長を繰り返していく。スーパーパワーだけど、決してスーパーマンではないんですよね。


光岡 アメコミで好きなのは、人間の願望と現実がないまぜになっているところ。空を飛ぶ、金を儲ける、女の人にモテるとかそういうものが叶っている人たちが描かれていて、でも彼らも人生が続いていくなかでは追い詰められるときもある。大量の作家が描くからこそ、人生のあらゆるシーンが詰まっている。日本の漫画も優れたメディアですが、そこはアメコミのアドバンテージだと思います。


荻上 別のジャンルとして楽しめますよね。もちろん、日本でメジャーなヒーローものからも社会に対する問いは読み取れるんですよ。例えば『ドラゴンボール』って、みんなの力を同意を得て集める、つまり元気玉を使う孫悟空と、セルとか魔人ブウみたいに同意なく力を奪うヤツとの争いがある。独裁とポピュリズムへの問いですよね。ただ、あくまでそれは読み取れるというだけで、『シビル・ウォー』のようにわかりやすく明示されるわけではない。


──日本の漫画とアメコミでは異なるプラットフォームが構築されてきたと。

荻上 日本の漫画でも、ポピュリスティックでマキャヴェリストなヒーローも、あるいは神聖ローマ帝国のフリードリヒ2世みたいに和解をもたらすヒーローも描かれます。マーベルやDCのようなマルチユニバースでは、クロスオーバーやチームアップを贅沢にできることで、それぞれの思想やキャラクターがより浮き上がってきますよね。


光岡 ユニバースってアメコミにしかない文化なので、すごい発明だと思います。人間って人生が続くなかでどんどん環境や立場、考えを変えていくんだけど、アメコミのヒーローもそういうふうにダイナミックに変わっていく。だから、そういうところで自分の人生が反映されるようになっているんですよね。


ヒーローの多様化/アップデート

荻上 時代ごとの色々な変化を取り込んでいくヒーローたちのロールモデルを見たときに、DCは今でもスーパーマンの呪縛がありますよね。なんだかんだで、超強くてマッチョな彼がいれば、いかなる困難も結局乗り越えられてしまう。『ジャスティス・リーグ』も特に映画版はスーパーマンが復活したら一発逆転かよ、みたいな感じがありました。「悟空強すぎ問題」に近い苦悩です。一方、マーベルはキャプテン・アメリカが一旦氷漬けになって復活するように、時代を経たら、また別のしかたでヒーローに生まれ変わらなければいけないというところがある。死んで、その役割をバッキー(ウィンター・ソルジャー)が引き継いだり。MCUはひとりに全部を背負わせないんですよね。


──チームを描くことが多様なヒーローの表現にもつながっていますね。


荻上 『ヤング・アベンジャーズ』では、チームのなかで異性愛の人がひとりしかいない。でもそこばかりを描くわけではなく、さらりと流すくらいの描き方になっている。80~90年代までのヒーロー像をどんどん茶化したり、アップデートしたりしていってますよね。


光岡 マーベルは変わらなければいけなかった。96年に一回倒産してるので。その頃のコミックはいいところもあったけど、同じものをずっと量産してるような状態だった。要するにアンパンマンみたいな紋切り型の世界ですよね。それか従来のコミックと違うことをやろうとして誰にもわからないストーリーが展開されたり、リニューアルして失敗したりとか、そういうのをずっとやっていた。そこから建て直すにあたって、「多様性」がキーなんだとクリエイター陣の共通認識としてあったんじゃないかと思う。色々なキャラクターがいて、色々な知恵を活かしていく作品の性質上、考え方も自然にそうなると思うんです。マーベルは2000年代に小説家や劇作家、音楽家、映画の脚本家などさまざまなジャンルの作家を雇いました。それが商業的に成功したかどうかは一概に言えないんですけど、そのときから流れが変わった気がします。少なくとも作品の幅は広がりました。作家性に頼るというより、色々な作家たちの作風を取り入れていきながらベースは崩さずにやってきた流れのうえに、MCUが生まれたように見えるんですよね。


荻上 マーベル・コミックス編集長のC.B.セブルスキーに取材したときも、2000年代に建て直していくときに、より「社会との窓」としてのコミックを目指すようになったと語っていました。その頃からさまざまな変化を重ねていった。女性のクリエイターが増えたり、アジア系のアーティストが活躍するようにもなりましたよね。2000年代前半は、9.11のトラウマに等身大の苦悩を混ぜるような、シビアな作品に挑戦してるけど、観客がどこにシンパシーを求めていいかわからない状態だった。『ダークナイト』がトラウマとの闘いの完成形で、アメコミ映画はここから先どうするんだろうという感覚がありました。

『アイアンマン』と『キャプテン・マーベル』の画期

荻上 そしたら『アイアンマン』が出てきた。そこからヒーローのトラウマ語りではないしかたで弱点と向き合っていく作品が生まれてきたように思います。だんだんと「みんなのヒーロー」ではなく、「比較優位のなかでのヒーロー」を見せるようになってきた。単にアダルトチルドレンでしたとか、結局はカウンセリングのために戦ってる、というものではない。心的世界ではなく外的世界がそこにある。ドラマシリーズでも、『ジェシカ・ジョーンズ』『ルーク・ケイジ』『アイアン・フィスト』『デアデビル』のトラウマは、自分は何者かというアイデンティティの葛藤ではなく、具体的な障害、人種差別、あるいは性的被害であって、そうしたものと真剣に向き合うヒーローは、トラウマ克服型のヒーローよりアップデートされていると思うんです。それでエンパワーメントされる人もいるだろうし、「トラウマや鬱病、貧困と闘ってるあの子も実はヒーローだよね」みたいなシンパシーを視聴者に与えられるかもしれない。


光岡 『ダークナイト』の元を辿ると、マーク・ミラーの『ダークナイト・リターンズ』を映画化する企画で、ダーレン・アロノフスキーが監督することになっていました。途中までできていた脚本を見ると、彼の映画『ブラック・スワン』や『レスラー』のように自分との闘いを究極に突き詰めていった結果、自分が消滅するみたいなオチだった。確かに衝撃的な展開なんですけど、それ以上先に行くところってないじゃないですか。今のアメコミはそうじゃなくて、人生のワンシーンを描いている。ヒーロー物語は別に寓話じゃないんですよね。


──これまで女の子がディズニープリンセスの振る舞いを見習うことを奨励されてきたとするならば、男の子にとってはヒーローが男らしさの象徴としてあったと思います。

荻上 マチズモとヒーロー像との結びつきについては、フェミニズムが批判してきたところです。それを受けて、マチズモを描かないというより、女性をトロフィーとして描かないようになってきたと感じます。女性キャラクターはこれまでトロフィーとして、あるいは男を撹乱させるファムファタルとして描かれてきたんだけど、近年は、ただ助けられる者ではなくて、道を拓くような立場として描かれるようになってきた。『スパイダーマン:スパイダーバース』でもスパイダー・グウェンみたいな等身大の女性ヒーローも登場してきた。ロボットを操るペニー・パーカーも『ビッグ・ヒーロー・シックス』のように、「可愛い」以上のキャラクターや背景付けがある。ピーター・パーカー自体の変化というよりは、彼と関係を持っているキャラクターがより深く描かれるなかで、女の子にモテることだけが目的の男の子の話ではどんどんなくなっている、ということはあると思います。以前のアメコミ作品はベクデル・テストも当然合格してなかったし、女性そのものにフォーカスされるようになったのは最近ですよね。


光岡 映画では『キャプテン・マーベル』が本当に最初だと思います。『ワンダーウーマン』は素晴らしい部分もありましたけど、やっぱりクラシックなヒーロー像だった。いかなるときでも美しくて、容姿も振る舞いも完璧で、なのに優しくてユーモアもある。女性ヒーローってそういうものだけじゃないでしょう、となってつくられたのが『キャプテン・マーベル』。だからこそバッシングも大きくて、作品の多様性を嫌うグループの反発に遭っています。

「ヒーローはこうあるべき」論との闘い

光岡 彼らは「こうあれ」というヒーロー像を強く持っていて、女性ヒーローによってそれを壊されるのが気に食わないんだと思う。コミックは生の願望をぶつけられるところで自分の理想郷であってほしいから、ほかの作品に比べても攻撃が強くなってしまう。「ゲーター(gater)」って言い得て妙で、「門を作る/狭める人」という意味にも取れますね。でもヒーローというのは、常に門から外へ飛び出していく人たちなんです。「こうあれ」から解き放たれて自由になっていく。『マイティ・ソーバトルロイヤル』が上手く描けていると思ったのは、ヴィランであるヘラはめちゃくちゃ強いんだけど、その強さは故郷の土地に囚われたもので、そこから出られない。ソーは外に出られるからこそヒーローで、その弱点を突いて打ち負かすんですよね。


荻上 『キャプテン・マーベル』最高でしたけどね! ロマンスも男からのテストもトラウマ語りも抜きで、濃厚なヒーローものを描けると示した。ああいうバッシングは日本でも既視感ありますよね。ゲーターは自分たちが迫害されてる側で、自分たちの好きな作品に対して「こうあるべき」を押しつけられているという被害者意識を持つわけですよ。「自分まで変われってことか」と恐怖感や抑圧を感じているのかもしれない。家父長制のなかでそれなりのいいことも味わってきたけど、同時に嫌なことも味わってきたという感覚もあって、マチズモや自分ではできないある種の代理満足、仮想現実の快楽の場所としてコンテンツを使用してる。そうなると、自分たちのカルチャーが現実の政治的な多様性に汚されてしまうこと自体を許さないという、別の闘争になってしまう。反多様性のグループがやっていることってテクスチュアル・ハラスメントですよね。本当は男が作っているに違いないとか、底上げのために女に下駄を履かせているに違いないというような疑惑をぶつけていくことによって、正当性を巡る議論にすり替えていく。それって本当はミソジニーなんだけど、そうは語らないから、何を言ってるのかぼやけてるように見えてしまう。


光岡 アメコミって保守的なものでもあって、ついこのあいだまでは、読者の8割が白人男性だと言われていたメディアでした。アメコミには「冷蔵庫のなかの女」という言い方があります。5代目のグリーン・ランタンがヒーローとして戦っていく決意をした理由のひとつが、自分の彼女が無残にもヴィランに殺されて、冷蔵庫のなかに詰め込まれてたことだったんですが、「そんな理由のために女を冷蔵庫に詰めるな」と言った人たちがいたわけです。最初はなかなか理解されなかったけど、女性は主人公が奮起するための引き立て役として、あまりにも粗雑に扱われがちだという主張なんで すよ。すべてのキャラクターが重要だという考え方が読者の方にも醸成されていったからこそ、『スパイダーマン:スパイダーバース』みたいな素晴らしい作品につながっていった。スパイダー・グウェンたちはスパイダーマンの枝葉やイロモノではなく、自分の人生を生きていて、それぞれの宇宙で愛すべき隣人をやっている。どのキャラクターもツールではないという考え方自体がアメコミのなかでは主流になりつつあります。

この記事は『i-D Japan No.7』ヒーロー号から転載しました。

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Text Takuya Tsunekawa

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