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『レディ・バード』映画評

Momo Nonaka

グレタ・ガーウィグの監督第一作目にして、すでに話題沸騰の映画『レディ・バード』。都会を夢みる地方出身者の心情や、母と娘の機微を描いた本作を翻訳家でライターの野中モモがレビュー。

なんてことないことはなんて特別だったんだろう。いろいろな意味でそう気づかされる映画だ。将来への希望と不安を抱えながら小さな衝突と理解の経験を重ねる10代の女の子の日常描写には、青春時代というものの普遍性を感じさせる瞬間がたくさん埋め込まれている。加えて、これがアメリカで批評的にも興行的にも大成功を収めたという映画の外側の現実にも、このなんてことなさがいかに意義深いものなのかを思い知らされる。

物語の舞台となるのは、2002年から翌年にかけての米カリフォルニア州サクラメント。映画は作家ジョーン・ディディオンのエッセイからの引用で幕を開ける。「カリフォルニアの快楽主義について語る者はサクラメントでクリスマスを過ごしたことがない」。つまり同じカリフォルニア州でも、華やかなショウビジネスやユース・カルチャーの都として広く認知されているロサンゼルスやサンフランシスコとは違うということ。アメリカ全体で見ればリベラル寄りのはずだが、もっと「進んだ」大都会に比べれば保守的な街で、底辺の貧困層ではないが決して裕福ではない家庭に育った、ちょっと変わってるけれどものすごくエキセントリックなわけではない女の子の、高校生活最後の一年がはじまる。

© 2017 InterActiveCorp Films, LLC./Merie Wallace, courtesy of A24

ヒロインのクリスティン(シアーシャ・ローナン)は、親に与えられた名前よりも自分で自分につけた名前「レディ・バード」で呼ばれたい女の子。周囲の人々も本人の意志を尊重してそれにつきあってあげているあたり、日本とアメリカの文化の違い、そして割とのびのび育ってきたヒロインの資質と環境がうかがえる。レディ・バードは「ここと違って文化のある」東海岸の大学への進学を希望しているが、主に経済的な理由から反対されている。父は仕事がうまくいっておらず、一家の暮らしを支えているのは看護師として働く母だ。両親が少々無理して娘をカトリック系の私立高校に通わせているのは、レディ・バードの兄(養子らしいことがそれとなく示される)が公立高校に通っていたときに目の前で人が刺される事件が起こり、心配になったからだ。テレビにはイラク戦争のニュース。暴力はすぐそこにあるけれど、まだ一応は親や学校に守られている状態のレディ・バードは、携帯電話も運転免許も手にしていない。

監督・脚本のグレタ・ガーウィグは、だいたい高校卒業までの一年間のヒロインの経験を、小さなエピソードの積み重ねでおよそ1時間半に凝縮してみせる。学校生活、進路問題、家族(特に母親)との関係、恋愛と性体験、友情その他いろいろ。コミカルに、かつあたたかみのある美しい映像と音楽でもって次から次へと差し出される、ありふれているけれど当人にとっては大問題な出来事の数々。漫画的キラキラファンタジーとしょぼくれてざらついたリアルな生活感の中間あたりを早足でぐいぐい進んで道を作っていくような94分だ。

© 2017 InterActiveCorp Films, LLC./Merie Wallace, courtesy of A24

女性の登場人物を男性主人公のために用意された美しき「ごほうび」としてしか扱わないような映画へのいらだちを常々感じてきた人々が、女の子の青春をかっこわるい部分も含めて描いたこの作品に喝采を送るのはよくわかる。レディ・バードは衝動的にやってはいけないことをやってしまうし、自分を取り繕うためにすぐにバレる嘘をついてしまう。ボーイフレンドに夢中になるけれど、恋と同じかそれ以上に同性の友達との関係が心の大きな部分を占めている。そして最も身近で、深い関わりを持つ他者は母親である。「ニューヨークの大学に行きたい」という希望にとって障壁となるのは、学力や親の理解よりも先にまずお金の問題だ。勉学も、部活も、バイトも、人間関係のゴタゴタも、すべて同時進行でいろいろなことが起こっている状態。それはとても普通で、だけどそういえばティーンの女の子映画であまり見たことがないものではなかろうか。

おそらくレディ・バードと彼女のお母さんのあいだの世代である筆者にとって、この作品でのピンク色の使いかたや相対的貧困の問題からまっさきに連想される映画は、1986年の『プリティ・イン・ピンク/恋人たちの街角』だ。これと『すてきな片想い』と『ブレックファスト・クラブ』、ジョン・ヒューズによるモリー・リングウォルド主演の3本は、80年代にティーンから絶大な支持を集め、現在でもさまざまなところで参照されている。グレタ・ガーウィグもこれらを『レディ・バード』のインスピレーションのひとつとして挙げ、映画音楽を撮影現場でも流したと発言している。

© 2017 InterActiveCorp Films, LLC./Merie Wallace, courtesy of A24

折しも今年の4月、「#MeToo」をきっかけに男性優位の映画業界への批判が高まるなか、50歳になったモリー・リングウォルドが、自らの若き日の仕事について再考するコラムを「ニューヨーク・タイムズ」に寄稿した。先ごろクライテリオン社からリストア版Blu-rayが出たのを機に『ブレックファスト・クラブ』を娘といっしょに再見したリングウォルドは、10代の頃に自分が演じた登場人物がスカートのなかを覗かれ、触られたことがほのめかされる場面に戸惑いを覚える。彼女はこれをきっかけに当時を振り返り、関係者たちに意見を尋ねた。残念なことにヒューズその人は早々に映画製作の第一線を退き、2009年にこの世を去ってしまっている。

ヒューズの映画は、事実、80年代の若者たちをおおいに楽しませ、励ましてきた。彼は大人が忘れてしまいがちな中高生ならではの不満や焦燥、楽しみや喜びを巧みに掬い取ってみせた。ひょろりと細長い体つきに赤毛のショートボブで不機嫌顔がチャーミングなモリー演じるヒロインの姿には、「常に笑顔で感じ良くあれ」というプレッシャーに苦しんでいるたくさんの女の子たちが共感し、憧れたはずだ。だがその一方で、ヒューズの映画には女性蔑視的な悪ノリ要素が残っており、男性キャラクターの横暴な行動に甘すぎたのも事実である。主要登場人物に有色人種はいないし、LGBTQの存在がはっきり示されることもない。リングウォルドは、愛おしく大切だけれど瑕疵を無視できなくなった作品に対してどうすればいいのか、と自問する。そして、評価は時代にあわせて変わっていくものであり、なかったことにするのではなく、意見を表明し、大人は若者の意見に耳を傾け、映画についての対話を続けていくことが重要だと呼びかけてコラムを締めくくっている。そうして映画は異なる世代の人々を結びつけ、新しい世代は自分たちの表現を生み出していくのだ。

© 2017 InterActiveCorp Films, LLC./Merie Wallace, courtesy of A24

2010年代の30年前は80年代で、80年代の30年前は50年代。自分がもうずいぶん長い時間生きてきたことを思い知らされて愕然とする。こうした女性や若者の表現史を思うと、『レディ・バード』の女たちが見せるごくごく普通の未熟さや頑固さが、時間をかけて獲得された自由のあらわれのように感じられてくる。女たちに比べて男たちの描写が薄く、ちょっと都合よく動いてくれすぎな感じがするのもまあいいか!という気分になってくる。35歳の新進女性監督が10年代後半に世に問う「15年前の青春」は、この先、映画の、文化の、社会の、個人の過去と未来を考えるにあたって、たびたび参照されることになりそうだ。私はもっと「故郷も家族も知るか!」って感じの人たちが都会で大暴れする話のほうが好き!と言いたい気持ちもあるけれど、お見事でした、と素直に認めよう。

レディ・バード』TOHOTOHO シネマズ シネマズ シャンテ他にて全国公開中。