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FRUiTS編集長が語る、原宿の20年

昨年末で月間発売を終了した『FRUiTS』。原宿のストリートファッションを追い続けた編集長青木正一に、原宿のこれまでの軌跡と、いまの原宿への思いを訊いた。

Shoichi Aoki

東京では、銀座、渋谷、青山、中目黒、新宿、原宿、それぞれの街でファッションが違う。その中で、若者が自由なファッションを楽しんだり、作り出したりする街は原宿だけだ。都市にはクリエイションを発生させるスポットと消費するスポットがあり、経絡のように繋がっている。それぞれの街の役割は簡単には変化しない。

原宿はファッションのクリエイションが湧き出る小さな泉である。泉から湧き出たクリエイションは、周りに拡がって、世界にまで影響を与える。原宿にいるオシャレな子たちは、泉の周りを飛んでいる妖精だ。と、ちょっとロマンチックな表現だが、それが原宿を愛する人たちが抱いているイメージではないだろうか。最近よく聞くのが、「最近オシャレな子が減った」「原宿は大丈夫だろうか?」「人は多いが、オシャレな子がいない。普通の街になってしまいそう」という会話だ。挨拶代わりになっている。その街のファッションのレベルを心配する、そんな街は世界でも珍しい。

昨年12月で、FRUiTSの雑誌としての発行を終了したのだが、この妖精たちの数が激減していることが、大きな理由だ。毎月発行するだけの写真が撮れない。妥協してムリに撮っても意味がないので、雑誌という形態で定期的に発行することは諦めることにした。写真がたまったら発行する、不定期の出版物として継続するつもりだ。

さて、この原宿ファッションだが、ずっと昔からあるわけではない。20年前、というとかなり昔だと思うかもしれないが、その頃に突然生まれた現象だ。原宿はそれまでもおしゃれなファッションの街ではあったが、オリジナルのファッションが生まれる街ではなかった。もともと、オリジナルのファッションがストリートから生まれるということ自体が、世界でも珍しい現象だ。ロンドンのパンクファッション、アメリカのヒッピホップファッション、スケーターファッション、それくらいしか思い浮かばない。

原宿ファッションが生まれる前はコムデギャルソン、ヨウジヤマモトが作り出したDCブランドブームが10年間ほど支配していた。日本中はもとより、世界中がその影響下にあって、原宿も影響下にあった。それより以前は、流行とは大手アパレルが仕掛けるもので、ハマトラ、ボディコンといったブームや、1、2年前に海外で流行したものの焼き直ししかなかった。メンズファッションは、アイビーのVANとヨーロピアンのJUNしかなかった。と思う。自分がどんな服を買っていたのかも思い出せない。

DCブランドブームの熱狂が去った後に、東京のファッションが2年間ほど方向性を見出せない時期があった。その時期に、ヴィヴィアン・ウェストウッドのインポートや、ロンドンから原宿に引っ越してきたクリストファー・ネメスが流行りだした。大阪発のトライヴェンティやビューティー・ビーストが東京に進出してブレイクしようとしていた。大きな流行はなく、様々な方向のベクトルが共存している状態だった。個人的には好ましい状態で、ロンドンのストリートファッションの様な多様性を感じさせた。そういう環境の中、突然発生したのが、今の原宿ファッションだ。1996年のことである。原宿を遊び場にする子たちの間から、自分自身のファッションを作り出す子たちが出現したのだ。今では当たり前のことだが、それまではファッションというのはそういうものではなかった。デザイナー、ブランド、ファッション雑誌が提案するスタイルをいかに理解して実践するかがファッションであり、ファッションセンスだった。自分で新しいファッションを作り出して、実践するというようなことはなかった。しかも、それが日本中を巻き込む流行を作り出し、世界のファッションにも影響を与えたのだ。

原宿のファッションスナップだけの雑誌を作ろうと決心したのは、雑誌「STREET」で(トップ画像の)この2人を撮影したときだ。学校は違うが、2人は友達だった。ピンクのセーターの子は、日美の学生で、鼻ピアスとユニークなヘアースタイル、MILKBOYのオーバーサイズのピンクのニット、内にピンクのボタンダウンのシャツを合わせているのが心憎くかった。強さとカワイさがミックスされた完璧なコーディネートだ。自分のスタイルを持ち、自信に満ちた態度が強い印象を与えた。後日、FRUiTSの撮影を始めた時に最初に撮ったのもたまたま彼女だった。そのときは、MILKBOYのタータンチェックのコートを着て、友人と二人でホコ天の表参道通りの真ん中に立っていた。同じ子だと気づかずに、怖そうだったので、アシスタントに撮影していいか聞いてもらった。カメラを向けても笑顔もポースもなし、そのまま立ったままで、目線をカメラに向けるだけだった。それがその後のFRUiTSでの撮られ方になっていく。ややタイトなコートについて聞くと、脇を自分で切って詰めたと言う。彼女はその後、ジャージにカラフルなプラスチック小物をアクセサリーとして付けて、デコラファッションに繋がるファッションを始める。

2人組は文化服装学園の学生で、左の子は、羽織(?)と雪駄という和服のアイテムをミックスしているが、それまでこんなファッションはありえなかった。この時期に突然数人の子が始めたことだ。しかも中はジャージ! このミスマッチを完璧にコーディネートしている。右の子の黄色い髪の毛というのも見たことがなかった。しかもスニーカーの色を合わせるとは。全く新しい子たちが出てきたことを確信した。日本のファッションの革命が始まったと思った。

その後、原宿のストリートからは3ヶ月ごとに新しい流行が生まれた。先頭で切り拓く子たちが新しいことを始めると、それをフォローする子たちが出てきて瞬く間に流行になっていく。先頭の子たちは流行の中にいることが嫌なので、逃げるように違うことを始める。フォローしていた子たちの中からも切り拓く能力のある子が出てきて新しいことを始める。そういう連鎖が進化の仕組みだった。古着をオシャレなアイテムとしてミックスするのもこの時期に生まれたことだ。1年後に、ひとつの進化の頂点としてデコラファッションが生まれる。その頃にホコ天が中止になるという大きな出来事があり、男子には裏原ファッションが大流行し、女子にはシンプルブームがやってくる。個人的には暗黒時代と呼んでいるが、今見返すとファッションのレベルはとても高い。その期間が5年ほどあった後、きゃりーぱみゅぱみゅが出現したり、原宿らしいファッションがゆっくりと戻ってきたのだが、昨今はまた深刻な低迷期に入っている。

原宿ファッションは良くなったり、悪くなったり、波がある。だが、1999年にホコ天が中止になってからは、全体的に減衰しながらの波だ。ホコ天の中止はボディブローのように効いている。消費だけの街なら移動のための道でいいが、小さなファッションのクリエイションの芽を育てるには、熟成させる場が必要だ。車の通らない広場的な存在があって、のんびり散策できたり、仲間と座って語らえる場所があったから、原宿ファッションが生まれたのだ。

今の低迷にはスマホとSNSの影響も大きいのだろう。自己承認欲求を満たすには、SNSの方が手軽でお金もかからない。ファストファッションの影響も大きい。破壊的イノベーションの典型例だ。おかげてファッションのレベルの平均値は上がったが、均質化されてしまった。

だが、再びファッションの力に気付くだろう。なぜかわからないが、日本の若者のファッション感覚はスゴイ。天才的なファッションセンスを持った若者も必ず出てくる。大人としてできることは、環境を整えることだ。いろいろやるべきことはあると思うが、まずは熟成の場としてホコ天の復活が必要だと考える。

青木

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Credits


Text Shoichi Aoki