Federico Fellini, Roma

なぜファッションは宗教に夢中なのか?

反発を招くにもかかわらず、多くのデザイナーがコレクションに宗教を取り入れるのはなぜだろう。

by Felix Petty; translated by Aya Takatsu
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maj 18 2018, 6:14am

Federico Fellini, Roma

メトロポリタン美術館で予定されている展覧会〈Heavenly Bodies(天体)〉には、「ファッションとカトリックの想像力」というサブタイトルがつけられている。展覧会には、十字架やいばらの冠、お香や罪悪、富と権力など、巷で大うけのカトリック的ファッション・ステレオタイプをすべて取りそろえられているという。聖母マリアはたくさんいるが、マドンナは少し。現時点で入手可能な画像からは、聖職者の装いや宗教的な絵画から着想を得たファッション、そしてラグジュアリーな図像を愛し、美と歴史を使って信仰を得ようとするカトリックというテーマを、そのまま解釈したものだということが見て取れる。〈Heavenly Bodies〉は、肉体的輝きという非常にピュアな表現で、ファッションとカトリックの軸を表現したものなのだ。

想像がつくデザイナー(ヴェルサーチなど)から、ちょっと意外性のあるデザイナー(ラフ・シモンズ、デムナ・ヴァザリア、チュニジア人のアライアに日本の高橋盾)がつくるものまで、さまざまな服と聖なる装いをミックスさせるこの展覧会が、キュレーション的な偉業となることは間違いないだろう。

聖なるものを冒涜してまで衝撃的なルックをつくりたいという、ファッションのエゴを容認してきたメジャーな宗教は、カトリックのほかにない。ここ数年、一般的に、文化盗用に対する見識が高まり、それを受け入れないという動きが広まってきた。それでもなお、私たちは毎シーズン、聖なる試金石を洒落た安ピカものに変換するという、悪しき宗教表現を目にする。それでは、すぐ反発を招くにもかかわらず、なぜファッションはこうも宗教に夢中なのだろうか。

via Wikipedia

その根源は、カトリックと欧州ファッションの深いつながりにある。ファッションは宗派的な神秘性から、その創造性を開花させていった。宗教的情熱は、カトリックの伝統として、スペイン出身のクリストバル・バレンシアガや、ロンドンのジョン・ガリアーノの中に入り込んでいった。パリのジャン・ポール・ゴルチエやココ・シャネル、ミラノのエルザ・スキャパレッリ、そしてヴェルサーチも然り。

そしてファッションがカトリックの儀式や聖職者の装いに着目しーーなぜならそれが彼らの知っているものだったからーー、業界のシーズンサイクルに合わせて、スピリチュアルな不変性を提示するようになったのである。もちろん、彼らは全員稀有なデザイナーであり、それぞれ素晴らしい創造性を兼ね備え、現代ファッションを独自のやり方で定義していった。その出自から、彼らはごく自然にカトリックのパレードや壮麗さ、そして物語を取り入れるようになった。カトリックの豪華さやイコン、またバロック時代の贅や、敬虔な修道僧の質素さに、そのテーマを見つけながら。教皇でさえ、ある時期、スリッパを履いていた。

もしこれが自然の成り行きというなら、ファッションが欧米以外にまでその目を向けてからはどうなっただろうか。安易な異国情緒のイメージを提供するという、見当違いな奉仕活動に従事し続けている。私たちがすぐに見落とし、無自覚な文化的冒涜として攻めを受ける類のもの。だが、それが時として美しい、可能性を開くものとなることもある。

今シーズンを例に見てみよう。Marine Serreのコレクションは素晴らしいものだった。その中心に据えられたのは、三日月のシンボル。彼女は、イスラムとの関連性から悪いものとされているこのシンボルのパワーを活かし、理解と共感、ユニバーサルを掲げたその“radical call for love”の一環として再定義している。同時に、彼女はまた体全体を覆い隠すスタイルも掘り下げている。保守的な宗教上の規制を、まばゆいスポーティ系の自由さへと変えたのだ。

Marine Serre autumn/winter 18

多様な文化をミックスさせたショーとして、また別の側面を見せたのがGucciだ。その2018年秋冬コレクションにおけるターバン使いで、ある方面から怒りを買ったのである。アレッサンドロ・ミケーレがコレクションを通して目指したのは、私たちをひとつに結び付けるものを示すこと、つまりカルチャーを交錯させ、規制から解き放たれることで得られる、美しいファッションの可能性だった。

しかしそミケーレの思惑をよそに、そのコレクションは思わぬ反発を招いた。Gucciのターバンを被ってランウェイに登場したのは白人のモデルだったのだが、それが大多数の目に攻撃的に映ったのだ。それがーーそしてコレクション自体がーー意図したのは、装いの規制から解き放たれることのパワーを掘り下げること、つまりジェンダーや人種、宗教から自由になるということだった。そのため、ターバンのルックには、ラベンダー色のブルカ風レースとシルクのバブーシュカが合わせられ、フェアアイルのニットやベースボール風のロゴが配されていたのだ。残念ながら、私たちの世界はまだファッション・ユートピアには程遠く、このコレクションも、いまだ多数の人が心に抱く制約を強調させただけだった。

最近のファッション界では、ジェンダーの制約を壊すことのほうが、異教徒を分け隔てるより物議を醸さないのだ。にも関わらず、ファッションは繰り返し挑戦し続ける。たとえその理由が、愛と平和と理解を広めたいという見当違いな欲求、もしくは因習打破による挑発行為にあったとしても。これは、ファッションとカトリックのあいだにある古き通説のように、権力とも関係している。Rick Owensの2009年春夏コレクションは尼僧の慣習にインスパイアされたものだし、Givenchyもいばらの冠に似たネックレスをつくった。D&Gがシチリアの大聖堂にあるモザイク画をデザインソースとしている一方、ガリアーノは自身の2000年秋冬コレクションで、聖職者の衣服をデザインしたことで有名だ。もっとも保守的なカトリックのほら吹きを除いて、これらが反感を買うことはほとんどなかった。なぜなら、こうした攻撃/風刺/回帰/賛辞は、権力ある立場の者からほかの権力へと発されたもので、利己的な益はまったくないからだ。

しかし、海外に出ると、権力構造は変わるものだ。誰であっても、絶え間ない文化的冒涜への非難から逃れることはできない。Yves Saint Laurentが1977年に発表した東洋風のOpiumコレクション、ポカホンタスを取り上げた1997年のガリアーノによるDior Coutureも例外ではない。Alexander McQueenはアフリカのヨルバ・ジュエリーにインスピレーションを受け、BALENCIAGAは二コラ・ゲスキエールのもと、パレスチナのケフィエをハイファッションに持ち込んでいる。

2つの歴史的なショーを考察してみよう。まず、Jean Paul Gaultierの1993年秋冬コレクション「Chic Rabbis」。これは、正統派ユダヤ人の衣服をオートクチュールにしたものである。ハシド派風の女性が、伝統的な男性用ラビ衣装を着て歩く。シュトレイメル(大きなファーのハット)や、厚手の黒い布地を再解釈したアイテムも登場し、モデルたちはメノーラ(ユダヤ教の燭台)が並ぶランウェイを歩いていく。
ここで問われているのは、誰が何を再解釈しているのかということだ。ゴルチエが自身のコレクションでカトリックのイメージを使うことが可能なのは、彼がカトリック教徒だからである。迫害をファッションにまで持ち込むことはできない。

では、Chalayanが1996年に発表した悪評高きブルカ・コレクションはどうだろうか。伝統的なイスラムの衣服にある規制を通して、手が込んでいるがシンプルに、すべてをさらけ出している(もしくは、何も見せていない)。これは自由か冒涜か? そのもっとも著名なイメージの中に、謎めいた力が垣間見える。それは並んだ6人の女性のうち一番左がまったくの裸で、一番右が体のすべてを覆われているというもの。Chalayanのショーがその力を保ち続けてきたのは、それが軽々しく答えを出したり、すべての文化に適合させられるような簡単なものではないからだ。

ある女性の自由は、他の女性にとって堕落を意味する。あるデザイナーが提示するアイデンティティや宗教の多様性は、他の者にとって攻撃的な中傷でもあるのだ。

This article originally appeared on i-D UK.