ハリー・スタイルズへのクィアベイティング批判をやめるべき理由

フリルブラウス、パールのイヤリング、曖昧なセクシュアリティ表現……。それらに明確な説明を求めることは行き過ぎなのかもしれない。

by Otamere Guobadia ; translated by Nozomi Otaki
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11 August 2021, 3:34am

Still from "Watermelon Sugar"

 

近年、ポップカルチャーをめぐる言説において、クィアベイティングへの非難が相次いでいる。その矛先はさまざまな有名人へと向けられ、最近ではマドンナ、ビリー・アイリッシュが槍玉に挙げられたが、なかでも繰り返し非難を浴びているのがハリー・スタイルズだ。

 その内容は至ってシンプルで、外見上はノンクィアなスターが、自らがクィアであることは公にせず、LGBTからの金銭的支援やファンダムの獲得を狙ってクィアカルチャーや美学を〈盗用している〉というものだ。そうすることで、クィアフォビックな世界でクィアのアイデンティティを公表することのリスクなしにそのエッジィな感性を利用できるという。

 クィアベイティング批判は、セレブのセクシュアリティの曖昧さに向けられることが多い。多方面からクィアベイティングとして非難を浴びたのは、アンドリュー・ガーフィールドの「(自分は)今行為をしないだけのゲイだ」というイラッとくる宣言から、「今までに(自分のセクシュアリティを分類したことはなく)まだその必要性を感じていない」というアリアナ・グランデのツイートまで、多岐にわたる。さらに、ハリー・スタイルズの「僕らはみんなちょっとだけゲイ」という発言のように、ふざけ半分でセクシュアリティの曖昧さを利用し、助長している、というものもある。

特にハリーとアリアナに向けられている批判は、これらの発言はクィアを公言することを避ける手段に過ぎない、ということだ。これによって、セレブたちはジェンダーやセクシュアリティのスペクトラムにおいて、曖昧でどっちつかずの位置を保つことができる。

 その他の批判は、クィアを自称する人びとの美学の〈盗用〉に向けられたものだ。ハリーはワン・ダイレクション時代のRiver Island的な〈男の中の男〉のイメージを脱ぎ捨て、ソロアーティストとしてよりダンディな、バロック調のテイストを選んだ。この新たなスタイルは従来のジェンダー規範に従わないジェンダーノンコンフォーミティへと徐々に進化していき、彼が身につけるマニキュア、パールのイヤリング、フリルブラウスは、ストレートの社会で大げさなまでに褒め称えられている。ハリーがドレスにブレザーを羽織った『VOGUE』の表紙も「画期的」と絶賛された。

批判の対象となっているのは、安全で有利な場所で安定した名声と好感度を獲得し、表向きは〈ストレート〉であり続けているハリーのジェンダーノンコンフォーミティが、いとも簡単に得られた功績であるということだ。彼が既存の枠にとらわれない存在として讃えられ、崇拝されているのと全く同じ理由で、クィアであることを隠さない人びとは街なかで激しい非難を浴びる。

このことはつまり、彼がジェンダーノンコンフォーミティへの貢献から享受する賞賛や勇気は、盗まれたトロフィーであることを示唆している。彼のドレスや派手なボアは、彼自身がLGBTQのアイデンティティやクィアコミュニティへの支持を公にしていなければ身につけるべきではない制服であり、名誉の印なのだ。

シスジェンダーのゲイ男性であることを公表しているお騒がせ美容YouTuber、ジェームス・チャールズも、ドレスとウィッグを身につけた自身の加工写真を投稿しただけで、トランスフェミニンのドールの美学を盗用したとして、同じコミュニティ内から批判を浴びた。

 しかし、これらの批判は、その矛先がスカートを履く超資本主義的なTikTokのEボーイや窮地に陥った美容系インフルエンサーだとしても、私たちが忌避するべき偽善的な本質主義に基づいている。もちろん、常に外見を評価されるこの世界で、私たちが着飾る方法がラディカルであってはいけないとか、内面の真実を取り繕うものであってはいけない、ということではない。私たちがいかに着飾るかはその人固有のものであり、規定することはできないのだ。自己表現や変装の分野において、クィアネスに定められたルックはない。

 クィアコミュニティには、ジェンダーノンコンフォーミティとは私たちが〈普通であること〉に逆らい、粘り強い努力の結果勝ち取ったものだ、という意識があるかもしれない。しかし、それは私たちだけの所有物ではない。クィアのカウンターカルチャーを何かに封じ込めることも、自分のものだと主張することもできない。ジェンダーとそれを明示する記号には所有権もなければ、支配者も立法者もいない。忠誠の誓いもなければ、もちろん入会料金も必要ない。


これらの批判の多くは、突き詰めていけば、セレブのクィアネスは公の場や対話の中で宣言されるか、それ相応のパフォーマンスがなければ認められない、という現実へと行き着く。つまり、曖昧さは罪とみなされる。ハリーの場合は、彼がバイセクシュアルかもしれないという噂が本人によってはっきりと認められるのではなく絶えずほのめかされ続けていること、もしくは彼が男性とも寝るという動かぬ証拠があがらないことにフラストレーションが溜まった結果だ。

 その矛先がセレブへと向かう前、クィアベイティング批判のそもそもの始まりは、文学や映画のストーリーテリングの構造、すなわち明らかにクィアの規範や資料に口先だけ賛同しながら、保守的な市場や過敏なオーディエンスを遠ざけないよう、好ましくない部分だけを削除する行為への批判だった。20世紀映画のクィア表象は長らく、暗示、言及、推測の域を出ることはなかった。当時のクィアベイティング批判の対象は、個人の恋愛観や服装のチョイスではなく、ストーリーラインやプロデューサー、臆病な監督や検閲済みの台本だったのだ。

 しかしカーダシアン家やジェンナー家、リアリティ番組『カーダシアン家のお騒がせセレブライフ』の時代において、ブランドとセレブの違いはなくなり、本心からの主体的な投稿と単なる商品の宣伝の区別もなくなっていった。

 もちろん、スクリーン上のキャラクター描写の批判を、セレブがあるキャラクターやイメージをブランディングの一環として取り入れ、もてあそぶ行為に当てはめるのは、論理の飛躍と捉えることもできる。しかし同時に、この主張こそが本来創作物の説明責任を負うべきクリエイターに責任逃れをさせ、生身の人間にクィアベイティング批判を向けることの根本的な不確かさを示している。すなわち、こういう非難は、自分の活動に自らの内面を反映しているアイコンやアイドルにしか向けることはできない。

 そんな存在は、私たち当事者からしても現実からかけ離れたフィクションであり、どんな題材よりもメロドラマ的だ。私たちはハリーがクィアではないと規定することなしに、彼をクィアベイティングとして非難することはできない。私たちが想像する彼とクィアネスとの関わりは、当てずっぽうな推測に過ぎないのだから。

 私たちはスーパースターのアイドルへの憧れを美化する手法や風潮を通して、彼らが自発的かつ積極的に、堂々と率直にカミングアウトして、私たちクィアの地位やモチベーションを向上させてくれることを切望している。

 さらに、ハリーがただひとりクィアベイティング批判を一身に浴びていることは、決して偶然ではない。彼は結局、スターが祀られる神殿で最も輝かしく貴重な存在のひとりで、圧倒的な文化的影響力を誇る現代における第一級の二枚目俳優なのだ。

 彼のポップカルチャーにおける存在感は、私たちの傍社会的関係(※視聴者が有名人や架空のキャラクターなどにまるで友達のような親しみを抱く、一方的な関係性のこと)を象徴している。ハリーは数百万人の熱狂的なファンにとって、夢の体現者であり、美と成功の神聖なシンボルであり、主体性のあるひとりの人間というよりも、ベッドルームのピンナップに近い。

 この空間はファンタジーに満ちていて、そこから世界中のファンの脳内にクィアフレンドリーなパントマイムの王子のようなハリー像が生まれ、ファンフィクションにどっぷり浸かったファンたちを夢中にさせていった。共有されたファンタジーは、この10年でWattpadやTumblrの大海の中で急速に細分化、多面化していった。


その中でハリーはあらゆるセットでカスタマイズされた役割を演じ、まるでゲーム『シムズ』のように、私たちの欲望と陰謀を具現化したプロットに翻弄される。多くのクィアベイティング批判の根底にあるのは、ロマンチックでエロティックなファンタジーの否定に対する憤りなのかもしれない。すなわち、彼らが〈ベイティング(食い物にする)〉されたと責め立てるその相手の、想像上で条件付きの現実離れしたロマンスの可能性が断ち切られたことへの怒りだ。

 しかし、この憤りの底には、もっと無防備な、仲間との絆への願望がある。私たちは文化戦争における召集兵、すなわち公的、私的空間における自分たちの抑圧と排除への抵抗の手段となる多くの人びとと可視性を探し求めている。私たちはハリーやビリー・アイリッシュのようなスーパースターのアイドルへの憧れを美化する手法や風潮を通して、彼らが自発的かつ積極的に、堂々と率直にカミングアウトして、私たちクィアの地位やモチベーションを向上させてくれることを切望している。

 もちろん、ジェンダーノンコンフォーミティの盗用を取り巻く批判と同様、この主張にも重要な不公平が存在するのは否めない。多くのクィアの人びとが命や生活のために必死に闘っている(そして共に闘う仲間を必死に探し求めている)いっぽうで、これらの美学を生み出した張本人が毎日のように街で暴力に直面している現状のなか、賞賛はスターに集中しているという、なんとも苦々しいダブルスタンダードが存在する。

 これらの主張の共通点は、どちらも同性愛者やクィアの人びとを十分な権利やリソースから遠ざける構造要因に向き合うことはなく、彼らのシンボル性だけに注目しているということだ。そのため、私たちはクィアが必死に求めてきたわずかな表象を生みだす組織を問いただすのではなく、自らの限られたクィアの領域を守ることしかできない。だからこそ、私たちはハリー・スタイルズのクィアベイティング批判をやめるべきなのだ。

 著名人に対するクィアベイティング批判は、クィアの人びとやコミュニティを解放するというよりむしろ、有害な影響をもたらす。クィアのアイデンティティの特性を規定し、それを美学や行うべきタスクのリストへと押し込めてしまう。定義するべき言葉を選ぶよう強制し、場合によってはジェンダーやセクシュアリティの体験を、オーディエンスが好むわかりやすいものへと限定してしまう可能性もある。私たち当事者が、はるか昔からクィアに厳しい要求を突き付けてきた異性愛中心で性差別的な社会と、まったく同じことをやっているのはなんとも皮肉なことだ。

 クィアのゲートキーピング(※何かへのアクセスを制限し、コントロールすること)は、リタ・オラなどのスターに、殺到する批判に対処するべくカミングアウトを強制したり、そもそも誰かがセクシュアリティについて率直に語ることを妨げるなど、好ましくない結果を招くことが多い。

 クィアのいいとこ取りをしたいだけのスターもいるように感じられるかもしれないが、公平なクィアの実践とは、私たちがあらゆる人びとにセクシュアリティについて語り、自ら決定を下す主体性を与えること、もっと具体的に言えば、例えば経験の有無や公の場での振る舞い、そのアイデンティティを明確に示す〈経歴〉について語る自由を与えることだ。結局のところ、クィアベイティング批評は、クィアネスを可能性や自由、魔法に満ちた場ではなく、ルールでがんじがらめに縛られたものへと変えてしまうだけだ。

 クィアベイティング批判は、クィアの欲望やアイデンティティとは克服し、封じ込め、規定することができるものだという不当な推論へとつながる。当然、そんなことはできるはずがない。それは反復し、よみがえり、新たに異なる言葉を探り、時にどんな言葉にも当てはまらないものなのだから。

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