『散歩する侵略者』 黒沢清監督インタビュー

日本を代表するシネアスト黒沢清の最新作は、劇団「イキウメ」の人気舞台を映画化した『散歩する侵略者』。“侵略者”たちが奪うのはヒトでも領土でもなく、私たちが大切にしている「概念」だった——。監督が、「ボディ・スナッチャーもの」への愛、台詞に込めた本音、映画の中に吹く風の魅力を語る。

by Shinsuke Ohdera
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06 September 2017, 8:12am

黒沢監督がこれまでのキャリアで磨き上げてこられた様々な要素がぎっしりとつまった素晴らしい作品だと思いました。黒沢作品というと、日常の中に不穏なものが侵入してくる描写がいつも印象的ですが、今回の『散歩する侵略者』ではオープニングで恒松祐里演じる女子高生・立花あきらが金魚を持って歩く場面、あのスカートを揺らす風からしてすでにとても不穏でした。
あの風はたまたま吹いたのです。いくつかのシーンではわざと扇風機を当てたりもしていますが、あそこはラッキーでした。風って、待っていると意外と吹くもので、ちょうど良い具合だなと思ってカメラを回しました。

今回、様々な場面で風が印象に残りますね。風力発電の大きな風車も出てきますし。
あれは特に風が狙いだったわけではないのですが、千葉の海岸沿いにずらっと風車が並んでいる場所があって、一度使いたいと思っていました。車の窓から見えるのはもちろんスクリーンプロセスなのですが、風車自体はCGではありません。今回、最後にちらっと海が出てくるのですが、それまではあまり海辺の出来事だという感じはないと思います。意図的な強調はやめておこうと思ったからなのですが、ただどこかで実は意外と海が近いということも出しておきたくて、それもあって風車の立ち並ぶ海沿いの道を背景の素材として使いました。

(C)2017『散歩する侵略者』製作委員会

侵略者たちはまず人々から概念を奪います。その瞬間、レンズフレアのような光が画面に入ってきますね。
侵略者を描こうという作品で、あまりに何も演出効果を加えないのも何だからということで、小さな光をレンズに横から当てて、現場でフレアを作りました。フレームの外から。だから、実に原始的なことをやっています。CGではなく、全部その場で作りました。概念を奪うというのも、ある意味でとても舞台的というか、演劇だから成立しているという感じがしました。「俺、宇宙人なんだ」という台詞もそうです。とても抽象的な表現で、舞台ならばそれはそういうルールなのだと納得してもらえるかもしれませんが、映画にしてしまうと、そこで一体何が起こっているのか。現実として観客に信じてもらえるか、とても不安で度胸を必要とした部分です。

「宇宙人」と最初に口にされるのは、高杉真宙演じる若者・天野が長谷川博己演じる桜井と話していて、バンの逆側に回り込むとその影でいきなり静かに立っているという、黒沢映画の幽霊と同じ演出がなされた場面でした。
そうです。ただ、さらに正確に言うと、彼の方から宇宙人とは言わないのですよ。「俺たちの目的は侵略」って言うところから、桜井が「…ってことは、キミ、宇宙人?」って聞いて、「うん」と答えるだけなのです。微妙に自分からは名乗らない。ここは気を遣った部分でした。
それに、目的は侵略というところから、じゃあ君は宇宙人なのか?というやりとり。これは、観客が侵略SFを知らないと成立しないわけですよね。『E.T.』しか知らない人だったら、宇宙人が侵略してくるとは思わないかもしれない。侵略がすなわち宇宙人だというのは、侵略SFもののジャンルを知らないと結びつかないわけです。その意味でもかなり微妙な、かなり高度なやりとりになってしまって、これで大丈夫かとても不安でしたが、ぬけぬけとやったらなんとか成立したかな、とは思いました。

概念を奪う場面が実際に出てくるのは、松田龍平演じる侵略者に乗っ取られた男・加瀬真治が前田敦子演じる主人公の妹・明日美から「家族」という概念を奪うところでした。
これは原作にほぼ沿った展開なのですが、このあたりが実にずるいというか巧みで(笑)、きわめて都合の良いものを彼らは奪うのですね。都合が良いと言うと変ですが、つまりそれが奪われたとして大変なことになるのか、それとも案外楽になるのか、どっちとも言えない微妙なものを彼らは奪っていく。実際、概念なんて非常に面倒くさいものが奪われてしまってどうなるかなんてなかなか想像がつかないのですが、彼ら自身が実は社会的に縛られていたような概念が都合良く選ばれていて、だからそれを奪われて逆に解放される人も多いわけです。

最初が「家族」で、次は所有の「の」でした。概念が奪われることで、その概念に社会的に縛られ壊れていた人が逆に解放されるというのは、『CURE』(1997)にも通じる主題ですね。
そうですね。あまり統一的に考えていたわけではないですが……。所有の「の」というのも原作にあったのですが、それを奪われた満島真之介演じる引きこもりの青年・丸尾が戦争反対を主張しはじめる。所有こそが戦争を含めた社会悪の根源だという話で、実に素朴と言えば素朴ですし、60年代じゃあるまいし、これを今やって大丈夫かと悩んだのですが、案外グルッと回ってその単純さが通じるかなと思いました。大きな主題ですが、こういうSFのような完全にフィクションの映画だからこそぬけぬけと1エピソードとしてやってみるのはアリかなと、思い切ってやってみた部分です。

この映画では演説シーンが2つ登場して、どちらもとても重要ですね?
いやあ、重要です。あんなことをやったのは、もちろん初めてですが。

丸尾の演説はストレートな反戦メッセージでした。そしてもう1つは桜井ですが、彼の演説は黒沢さん自身が喋っているのかと思うほど、この映画全体に対する黒沢さんの観点をかなり率直に反映したものであるように感じました。
それは、そうです。まあ、そう追求されると僕も口ごもってしまいますが(笑)。もちろん原作にこういう設定があったというのはありますけど、あの場面の少しコミカルなトーンの中で不特定多数の人々に向かって突然演説するシーンを設けることによって、普通映画じゃなかなかここまでストレートには言わないようなことを登場人物の台詞を通じて言ってみた気はしています。それは間違いありません。

(C)2017『散歩する侵略者』製作委員会

桜井は最初すごくいい加減な人のように登場するのが、ある段階からきわめて大きなものを背負いはじめる。ところが、あの演説の中で彼は言いたいことを全部伝えて、でも誰も聞いていない。しかし彼は言うべきことは全部伝えた、あとは自分の人生だ、大切な友人だ、と言うのがとてもすがすがしくて黒沢さん的だと思いました。
そう言っていただけると嬉しいですが、あれを境に彼はある意味で完全に人類を見捨てはじめるわけですね。実は、桜井のような主役を僕は自分の映画に登場させたことがほとんどありませんでした。僕の映画の主役級って、たいてい最初は体制内にいる人たちです。安定した刑事であったり、家庭の主婦であったり。そこからだんだん逸脱していくわけですが、桜井の場合は原作がそうだったからなのですけど、最初から一種のアウトローです。出版関係の仕事をしているとはいえ、勝手なことをやっていて最初からはみ出している。他の人の映画ではよくありますが、僕の場合こういう人物を発想したことがなくて、物語が進むにつれて彼がどうなっていけば良いのだろうかとかなり悩みましたし、逆に新鮮でもありました。だから、ものすごい振れ幅になりましたね。最初からアウトローだった彼は、おっしゃるようにだんだん人類の代表になり、さらに次のステージへ足を踏み入れてしまうというダイナミックな展開になってしまいました。正直言って、あれはかなり原作から逸脱してしまった部分なのですが、自分としては初めて登場させたタイプのキャラクターなので、ついつい行けるところまで行ってしまった感じです。

演説をきっかけに、桜井もある意味で解放され好きなことをする人間になる。彼は、この映画の中で概念を奪われることなく変身していく人間のひとりです。その桜井にとって大切なものは何か。そして、あの桜井にとってのクライマックスシーン「オレVS爆撃機」の場面ですが(笑)、ヒッチコックの『北北西に進路を取れ』だなとは思いましたが。
あれは僕がけっこうこだわって、無理を言ってやってもらった場面でした。『北北西に進路を取れ』と言われるとやや恥ずかしいわけですが(笑)、僕としては素直に、このジャンルをせっかくやらせていただいたので、やはり高い空から地上に向かって何かが攻撃を仕掛け、地上にいる者が逃げ惑うという場面は絶対にやっておきたいと。H・G・ウェルズの『宇宙戦争』なんかがこのジャンルの起源だと思いますが、ああした場面は戦争のメタファーにもなります。これを撮るのは、このジャンルをやる上での礼儀だと考えていましたね。

黒沢監督が理想とされる映画とは逆のことをお聞きするかも知れませんが、例えばスピルバーグの『宇宙戦争』で、まるで人間どもが豆粒のようだというのとはどこか違った作品を黒沢さんは撮っておられるような気がします。
そうですね。そこまで広い絵を撮れなかったということもあると思いますが、でも、ああいう感じを撮ってみたいという欲望はあります。

現実としてそれが撮れないという中で、しかし予算の違いというネガティブな側面にとどまるのではなく、一方で黒沢さんが発見されてきた映画的な細部の豊かな魅力があり、その面白さがある意味で集約された作品でもあったように思うのですが。
そう解釈していただけるとありがたいですが、所詮はその辺のご町内で、エキストラを集めると言ってもせいぜい100人程度集まったくらいでやらざるを得なかったものですから、これはやはり限界があります。もちろん首相官邸なんかも出せません。ベースはあくまでホームドラマであって、同時に世界が侵略される壮大な物語も描かなければいけないという、限界でもあり個性でもあるような映画を作ってきたということなのでしょうね。娯楽映画としては、本当はもっと色々とやらなければいけなかったような気もします。ただ、これがやはり限界だったし、逆に言えば、こうした「ボディ・スナッチャーもの」は、ご存じのように『宇宙戦争』のような大作とは異なって、それこそ低予算を逆手に取った表現で勝負してきたという映画の歴史もありますしね。

「ゾンビもの」もそうですね。
ええ。『光る眼』とかも、目が何となく光る程度のことですからね。この手の作品は、これで勝負して構わないのだと割り切った部分はあります。

ただ、苦肉の策ではあれ、そこから生まれた映画の細部がいかにこの作品をダイナミックに躍動させているかはとても重要なポイントだと思います。その中でも最初の話に戻りますが、黒沢さんはこの作品で風の演出にとりわけこだわっておられると思います。例えば丸尾が所有の「の」を奪われる場面でも、側にはペットボトルの風車がありました。
ええ。よくご覧になってらっしゃる。あれは狙ってわざと入れたのですが、本当に偶然吹いた風も多いです。実はこの作品は去年の8月に撮ったのですが、その前年の同じ季節に『クリーピー 偽りの隣人』を撮っていて、そこで8月はけっこう風が吹くということを発見したのです。木々が生い茂っていることもありますが、少し風が吹けば木々が揺れて葉っぱがざわめき始める。これを使って表現できるぞ、ということは考えていましたね。8月は風が吹く。吹きそうなときは、ちょっと待っていれば必ず風が吹くぞと考えながら映画を撮っていました。
ただ、これは何でしょうね。映画の中で風が吹くというのは、なぜこれほど人の心をざわめかせるのか。もちろん、宮崎駿さんとか、アニメの中でも何とかその感じを出そうとされている方がいらっしゃるのはわかるのですが、それでもやはり実写ならではの映画の力がそこにあるように思います。舞台で風が吹いてもあそこまでにはならない。いろんな映画を見ていると、間違いなく感じますよね。ザワザワ風が吹き始めて、それが偶然なのだか狙ったのかはわからないけど、何かハッとさせられて、特に何も起きていないのにそれが特別な場面であるかのように心に焼き付く。セットで撮っていると、残念ながら扇風機を回さない限り絶対に風は吹きませんが、だから外で撮っていると、うまくすると本当に見事に風が吹くので、そうした瞬間を撮れたときにはとても感激しますね。

(C)2017『散歩する侵略者』製作委員会

桜井が演説する場面でも旗が……。
あれも本当に吹いたのですよ。そういうこともあるかと思って、あらかじめ旗を用意しておいたのですが、見事に風が吹いて旗がバタバタとはためきました。映画というのは四角いスクリーンに映し出されて、これを何も考えずに作っちゃうと、真ん中に俳優が映っていて、ああ、これを見るのだな、と。後ろにあるのは背景だな、と。そういう見方に私たちはついつい慣らされてしまうわけですが、その無駄のないカッチリ固まった感じが、そこに風が吹き始めた瞬間、何と言うのでしょうか、すべてがいきなり有機的につながって、隅々まで立ち上がってこちらに主張してくるような、表現してくるような、そんな感じがするように思うのです。

画面全体が息づいている。
言ってみれば、そうですね。それこそが映画だっていうのは、まさにその瞬間に確信する以外にどうしようもないもので、これを言葉で説明するのはものすごく難しい。それこそ大寺さんにその辺り解明してもらいたいところですね(笑)。

余談ですが、最後にもうひとつ。やはり何と言っても、長澤まさみの「やんなっちゃうなあ」!(笑)
ええ、あれはもう。杉村春子風にという指定付きの台詞で(笑)。長澤まさみさんが見事に言ってくれました。

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散歩する侵略者
9月9日(土)全国ロードショー
監督:黒沢 清 出演:長澤まさみ 松田龍平 高杉真宙 恒松祐里 前田敦子 満島真之介 児嶋一哉 光石研 東出昌大 小泉今日子 笹野高史 長谷川博己

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