アカデミー賞は社会を反映できているか?

世界の各界授賞式は、これまで長きにわたり、有色人種アーティストの功績を無視しつづけてきた。『ムーンライト』がアカデミー賞で最優秀作品賞を受賞した今、授賞式が正しい選考をすることの重要性が浮き彫りになった。

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31 March 2017, 12:20pm

今年のグラミー賞授賞式で、アデルが年間最優秀レコード賞を受賞したとき、わたしは彼女の幸せを喜ぶ一方で、激しい怒りを感じていた。矛盾した感情があったのだ。アデルはすごく努力家だし、その才能に疑いの余地はない。そして、あの"トッテナム出身の普通の女の子"という雰囲気に、イースト・ロンドン出身のわたしは親近感をおぼえすらする。受賞スピーチで、アデルは、受賞するべきはビヨンセだと発言し、翌日のTwitterはこの話題に溢れかえった。わたしは、「そうだ!」とばかりにトレンドのハッシュタグをつけてツイート合戦に参戦し、パロディ画像合戦や批判の嵐に参加したいと思いつつも、その現象に既知感をおぼえていた。それは、黒人なら誰でも、いや、有色人種なら誰でも、よく知る感覚だろう。自分が抜きん出て素晴らしい成果をあげたり、圧倒的な存在感を誇るようになっても、「まだ自分は不十分なのだ」と思い知らされる、あの感覚だ。そうした感覚を引き起こす環境は、職場や、クリエイティブなアートの世界、さらには有色人種の存在を讃えるために作られたはずの組織や団体の中など、いたるところに見られる。アカデミー賞で『ムーンライト』が作品賞を受賞したが、これはアカデミー賞が正しい判断をした数少ない例のひとつでしかない。アカデミー賞にかぎらず、他の映画賞でも、世界の授賞式はとにもかくにも白人至上主義なのだ。

授賞式の歴史は、白人の歴史と言っても過言ではない。そして、メインストリームの世界では有色人種のアーティストたちが白人を凌ぐ活躍を見せていようとも、それを正当に讃えることができないほど、授賞式の運営サイドは時代錯誤を続けている。授賞式運営団体が受賞者に選ぶ音楽アーティストや映画スターたちの妥当性を探ろうとしても、そこには現実からは遠くかけ離れた体制が浮き彫りになるだけだ。映画に関して言えば、受賞者を選ぶ審査団体のメンバー全体のうち、有色人種が占める割合は1%にすぎない。映画を観る観客の人種別の割合と比較すれば、それらの団体が世間一般の感覚から大きく乖離している理由は一目瞭然だ。そこで浮かび上がる疑問は、「なぜ有色人種のアーティストたちは、こんな環境のなかで勝負をし続けているのだろう?」ということだ。「授賞式に参加して、パフォーマンスを披露し、授賞式の存在と模様をメディアに広くアピールするのに一役も二役も買っているにもかかわらず、最終的には無視される——なのに、なぜ?」と。それでも有色人種のアーティストたちが授賞式に参加するのは、もとは限定的な公開規模でアート系映画館のみの上映を余儀なくされていた『ムーンライト』のようなインディ作品が、文化的なメッセージを世界に届けようとすれば、アカデミー賞のような映画賞が持つ影響力とプラットフォームが必要になる——そんな現代映画界の仕組みがあるからだ。しかし、もちろん、そのような力と場を誰に授与するかを決めるのは、授賞式運営団体だ。彼らが「与えよう」と思わないかぎり、そのような力とチャンスが有色人種アーティストにもたらされることはない。アカデミー賞で『ムーンライト』が作品賞を受賞したことは、重要な出来事だった。しかし、だからといって、それが真の進歩の証しだったかと問われれば、「違う」と答えざるを得ない。

どんな賞であれ、「ビヨンセが受賞すべき」と考えることは主観的な意見でしかないだろう。しかし、今年のブリット・アワードは、またしても有色人種アーティストたちの功績が無視されるという流れを断ち切っていなかった。

どれだけレコードを売ろうと、どれだけ小規模の賞を受賞していようと、多くのアーティストにとって、グラミー賞やアカデミー賞が成功の象徴であることは否定できない。業界からの評価が得られると同時に、アーティストとしての影響力と信憑性に箔が付く。ビヨンセは、レコーディング・アーティストとして第一線で活躍し続けてきたこの約20年間で、すでに1億枚のレコードを売り上げ、22個のグラミー賞を受賞し、歴代のどの女性アーティストよりも多くのグラミー賞にノミネートされたという記録を保持している。だからこそ、今回のグラミー賞授賞式でビヨンセのアルバム『レモネード』が年間最優秀作品賞ではなく、アーバン音楽カテゴリーやR&Bカテゴリーでのみの受賞となったのは、「理解しがたい」という次元を通り越して、単に「バカバカしい」としか言いようがない。2014年のグラミー賞授賞式では、デビュー・アルバム『Good Kid, m.A.A.d City』が一般リスナーからも批評家たちからも高評価を得て7部門でノミネートされていたケンドリック・ラマーが、ひとつとして受賞を果たさずに終わった。アルバム『The Heist』で、ケンドリック・ラマーを抑えて年間最優秀ラップ・アルバム賞を受賞したマックルモアは、その夜、ケンドリックに「やられたな。俺は君に受賞してもらいたかったし、君が受賞すべきだったと思ってる」とメッセージを送ったことを自身のInstagramで明かしている。Skeptaは、「That's Not Me」や「Shutdown」などでヒット曲を出していたにもかかわらず、2015年のブリット・アワードの授賞式には呼ばれてもいなかった。しかし、カニエ・ウェストは授賞式で「All Day」のパフォーマンスを披露する際、グライムのアーティストたちをステージに集める演出を考えていたため、Skeptaに出演を懇願。これを受けてSkeptaは急遽、パフォーマンスに参入した。その2年後となる2017年のブリット・アワード授賞式で、Skeptaは「Shutdown」のパフォーマンスを披露したが、曲の間奏部分では、先述のカニエによる2015年パフォーマンスに憤慨した女性視聴者がイギリスの放送倫理委員会にかけたクレーム電話の音源が流された。「男たちがステージ上で攻撃的な様子で踊っていて(Men aggressively dancing on stage)」というフレーズが繰り返し会場に響いた。

どんな賞であれ、「ビヨンセが受賞すべき」と考えることは主観的な意見でしかないだろう。しかし、今年のブリット・アワードは、またしても有色人種アーティストたちの功績が無視される流れを断ち切れずにいた。2016年はグライムの年だったにもかかわらず、ブリット・アワードはその現実に見て見ぬ振りをきめこんだ。批判を受け、ブリット・アワードの選考委員会は、当時の審査員全体のうち70%以上が男性であり、また、わずか15%ほどが黒人、アジア人、その他の少数派人種であったことを公表したうえで、「2017年、ブリット・アワードは変わる」と宣言した。その結果、StormzyやKano、Skeptaといったアーティストのほか、リアン・ラ・ハヴァスやエミリー・サンデー、Naoら有色人種アーティストたちがノミネートされることとなった。しかし、実際に受賞を果たしたのは、大手レーベルの後ろ盾なしに音楽チャート2位を獲得したSkeptaでもなく、同じくインディーズとして世界で100万枚を超えるレコード売り上げを果たしたストームジーでもなく、白人アーティストのラグンボーン・マンだった。多かれ少なかれ、世界中でサブカルチャーが風前の灯火となっている今、グライムは若者の活気を象徴しているサウンドであり、現代イギリスのストリートに起こるストーリーを物語ることができるサウンドはグライムをおいて他にない。イギリス人アーティストによる功績を讃えるために設けられた音楽賞授賞式が、賞をグライムのアーティストたちに授与しないだけでなく、ただ「多様性をアピールしなければならない」という政治的理由のためだけにアーティストたちを小道具のように扱うこの現状は、音楽賞授賞式業界の感覚がいかに常軌を逸しているかを物語っている。

『ムーンライト』の賞受賞は、どんな映画のどんなパフォーマンスをも凌ぐほどのインパクトを持っていた。メインストリームでは決して描かれることのなかった類いの物語が、今後は描かれていく必要があると世界に認識させるに十分な出来事だった。そして、多くの有色人種の俳優や女優、映画監督だけでなく、矮小化され、人間としての正当な扱いを受けていないと感じるすべてのひとびとに勇気を与える出来事となった。

アカデミー賞では、去年、主要20部門で有色人種がひとりとしてノミネートされない事態が2年連続で起き、これに反発したエイヴァ・デュヴァーネイやスパイク・リー、マイケル・ムーアが授賞式参加をボイコットした。果てには、イギリスの女優シャーロット・ランプリングがそれに関した人種的思慮に欠ける発言で批判を浴びるなど、一連の騒動は、「#OscarSoWhite(真っ白なアカデミー賞)」として世界中で話題となった。米アカデミー賞はそれを教訓とし、2017年授賞式では、ヴァイオラ・デイヴィスやデンゼル・ワシントン、オクタヴィア・スペンサー、ナオミ・ハリス、ルース・ネガ、デヴ・パテル、そして『ムーンライト』のバリー・ジェンキンス監督といった有色人種の俳優や監督をノミネートに選んだ。彼ら有色人種俳優たちが出演してノミネートを受けた作品『ムーンライト』、『フェンス』、『ヒドゥン・フィギュア』、『ラヴィング』は、いずれも人種問題を扱っている。人種差別的発言や外国人排除思想が日常会話の中にまで入り込んでくるトランプ政権下のアメリカにあって、特に重みのあるテーマだ。アカデミーは、非白人の監督や俳優たちの作品を長年にわたり過小評価してきた過去を改める必要性を感じていた。『ムーンライト』の賞受賞は、どんな映画のどんなパフォーマンスをも凌ぐほどのインパクトを持っていた。マハーシャラ・アリの最優秀助演男優賞受賞(イスラム教徒の俳優としては史上初)と、映画の最優秀作品賞受賞は、メインストリームでは決して描かれることのなかった類いの物語が、今後は描かれていく必要があると世界に認識させるに十分な出来事だった。そして、多くの有色人種の俳優や女優、映画監督に勇気を与える出来事となったにちがいない——いや、これまで困難を強いられてきた有色人種がこうして自らのストーリーを映画で語るチャンスを得ることで、矮小化され、人間としての正当な扱いを受けていないと感じるすべてのひとびとの道が開けたのだ。人生が差し出したすっぱいレモンも、甘いレモネードに変えて飲んでのける——これまで、白人よりも安い収入に甘んじることを余儀なくされ、作品カテゴリーは少なく、さらに少ない役回りとチャンスしか与えられない世界で、その現実を凌駕するほど圧倒的なパフォーマンスをし、業界から正当な評価を勝ち得た有色人種のアーティストたち。各界の授賞式は、これから世間の意見との闘いを強いられることになる。世界がTwitterやTumblr、Snapchat、Facebookなどで生の意見を常に発信しているのだ。だから今、わたしたちは見直さなければならないのかもしれない——ミレニアル世代に対して授賞式が持つ役割と、その今日性を。大衆の感覚を持ち合わせていないアカデミーや選考委員会の代わりに、今という時代に何が本当に祝福されるべきなのかを決める、もうひとつの母体が必要なのだ。

『ムーンライト』が各賞を受賞した今、私たちはこれを、変化を求めるムーブメントへと押し上げていかなくてはならない。各授賞式が有色人種アーティストたちに対して正当な評価と賞賛を与えず、キャスティングに多様性が欠け、有色人種の起用が不当に少ない状況が続くようであれば、そうした現状を打破するために、私たちは集団で立ち上がり、異議を唱えなければならない。フランク・オーシャンとカニエ・ウェストがグラミー賞授賞式をボイコットしたように。時代は2017年——「多様性が浸透しているこの社会をまったく反映していない」などとボヤくだけでは不十分——変化を望むなら、私たちが自らその変化の一部とならなくてはならないのだ。しかし、まずは、『ムーンライト』を観て、この歴史的快挙を皆で祝福しよう。アカデミー賞で各賞を受賞したことを受けて、イギリス国内では現行の上映映画館に加えて、さらに80箇所での上映が決まった。『ヒドゥン・フィギュア』でそうしたように、『ムーンライト』でも、私たちはチケットを買って映画を観ることで、一般大衆の意見を世界に届けよう——大手アカデミーや映画賞選考委員会がどんな基準でノミネートを選ぼうと、私たちは、今という時代を真に映し出す物語への支持の姿勢を自ら打ち出していこうじゃないか。

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Credits


Text Lynette Nylander
Translation Shinsuke Kuriyama at WORDSBERG Inc.