「クリエイティブでいるには時間の浪費が必要」:アイリーン・マイルズ interview

近年、アメリカで再評価が高まる詩人のアイリーン・マイルズに、60年代から現代にいたる彼女の激動の半生について訊いた。

by Sophie Heawood; translated by Shinsuke Kuriyama at WORDSBERG Inc.
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11 June 2018, 10:21am

アイリーン・マイルズ(Eileen Myles)は、現在67歳。彼女は、詩の世界においてもっともセレブリティに近い存在だろう。いわゆる“男らしさ”を臆することなく前面に出したレズビアンであり、また極められたエレガンスが特徴の作家でもあるマイルズ。1994年に出版されクィア文学の歴史を変えた『Chelsea Girls』が再版されたことで、近年になってまた新たな読者層を得ている。また、Amazon.comでストリーミング配信され、エミー賞やゴールデン・グローブ賞などを立て続けに受賞したテレビ番組「トランスペアレント(Transparent)」には、マイルズをベースに作り出された重要人物が登場する。番組のクリエイターであるジル・ソロウェイ(Jill Soloway)曰く、マイルズは恋人である以上に、ミューズなのだという。しかし、現在の賞賛以前にも、マイルズはすでに100人分ほどの人生を生きてきた。90年代初頭には、男性ばかりだったアメリカ大統領選に、“女性であることを公表している”唯一の候補として出馬し、一方で既に20冊を超える詩集や小説、批評本を出版していた。「すべて手に入れたい」とマイルズは『The New York Times』紙に語っている。「ささやかな変化なんかいらない。徐々に訪れる変化なんか——そんなものは変化として認めない」と。

──朝早くに起きて机に向かい、詩や小説を書き進める、孤高の生活——誰もがあなたをそんな風にイメージしていますが、実際のあなたはどうでしょうか?

まったくそんなことはありません。まとまりのない無秩序な生活を送ってます。取り組んでいることがはっきりしているときには、書くスペースを作って、執筆に邁進しますけど。生活に決まったリズムがあるのは好きだし、そういう生活もできるだろうけど、わたしはなんでも先延ばしにする癖があるから、カフェや人目につかない場所に缶詰めになって、書くことに集中できるよう自分を仕向けるようにしています。わたしにとって書くことがいちばん重要です。詩や小説といった様々なタイプの文章を書いていますが、作家になっていなかったら狂っていたと思います。書かないという選択肢はありませんでした。

──表現の形式を替えながら書くというのは、つまり「置き換え」の作業ということになるのでしょうか?

そうですね。ジャーナリズムの視点からも書くし、アートについて書くこともある。あらゆるものに何かを感じ、いつでも何かを書いているような感覚です。今日は、新たに『チェルシー・ガールズ』の脚本を書いていました。Amazonから「映画にしよう」という話があって。

──脚本を誰かほかのひとに書いてもらうとは思わなかった?

Amazonに話を持って行こうと提案してくれたのが、これまで『アイ・ラブ・ディック』や『トランスペアレント』をプロデュースしたトップル(Topple)だったから、引き受けることにしたんです。Amazonには「原作者と映画を切り離さない」という方針もありますし。ここ一年で、『チェルシー・ガールズ』映画化の企画を進めるうちに何度も会議室で、担当者たちを前にプレゼンテーションをしてきましたが、慣れてしまいましたね。それはもう、わたしにとって、パフォーマンスを披露したり、教壇に立ったり、朗読をしたりするのと同じことでした。あらすじや企画概要を書いては練り直してを繰り返して、ようやく脚本を書ける段階になりました。今は物語のディテールを思い出しながら、思いついたことを書き留めているところです。

──『チェルシー・ガールズ』にはあなたの多くが反映されていると思いますが、改めて読んで「もれは自分にとって過去のもの」と思ったことはありますか?

書き終えてからずっとあの作品は、わたしにとって面白い存在だったんです。Amazonとの縁もあの本のおかげだし、またこうして読み返すことになりました。ほとんど同じ箇所ばかり読んでいます。脚本にしていく過程で、様々な新しいアイデアが浮かんでいます。あの本で書いたことには、わたしの人生を基にしたところもあるし、わたしが体験した出来事から着想を得て書いたこともある。実際に体験はしたけれど、書かなかったこともたくさんありました。そうしたことを今回の脚本に織り込んでいけるのは、あの本を書いたわたしだからこそできることですよね。

──いつも様々な形態で書き物をしていますが、今後は撮影現場で詩を書いたりするかもしれませんね。

そうね。詩というのは不条理なもので、わたしが「こんなことしちゃダメだ」「いま目の前で起こってることに集中しなくちゃ」と思えば思うほど、わたしの中に生まれてくるものなんです。

──前触れもなくひらめいて、それを家に帰ってから書くのですか?

そう。そして、完全な形で浮かぶときもあれば、単語やフレーズだけが浮かぶこともあります。

──いっきに数ページを書き上げてしまうのですか?

そういうときもあります。2016年の5月にひとつ詩を書いたんだけれど、それはおそらくその年書いたなかで最高の作品でした。詩は、良く書けていれば書けているほど、発表の段階で奇妙なことが起こります。『The New Yorker』誌はわたしの作品を一回だけ掲載してくれたことがあるんだけれど、あたかも作品をたくさん掲載したかのように振る舞って、イベントなんかに協力してほしいとお願いしてきたりするんです。だから、その作品を『The New Yorker』に掲載してもらおうと思ってコピーを渡したら、夏のあいだずっと寝かせておいた挙句、掲載しないと答えが返ってきた。『The New Yorker』はそのあと、ものすごく保守的なひとたちが書いたクズみたいな詩を掲載していた。そこで『New York Review Books』に持ち込んでみたけど、彼らも答えは「ノー」。『Granta』や他いくつかの媒体も掲載を見送った。詩の専門誌に持ち込めば、掲載してくれるだろうし、たくさんの原稿料をくれることも分かっていたけど、『The New Yorker』を手に取るような一般読者層に読んでもらいたいという気持ちがあったんです。そんなとき、高校時代の友達から連絡がありました。唯一『The New Yorker』に掲載されたわたしの作品を読んだみたいでね。それは、普段は詩に触れない人たちが詩を読んだということです。そういうことって、これからの時代もう起こらないのかもしれませんね。

──そうやって人は詩と出会っていくんですよね。

そう。雑誌を通してね。『The New Yorker』なんてその最たる存在だったのに、残念ね。

──どういう高校生活を送っていたのか教えてください。

カトリック系の高校で、最悪でした。保守的で、小さな学校でした。わたしは悪い生徒で。本当に、わたしにとって最悪な時期でしたね。

──女子校でしたか?

いえ、男女共学でした。でも最悪でしたよ。廊下で「女子はこっち、男子はこっち」って並ばされて。廊下では話すのも禁止されていました。あれは高校生活とはいえません。いかにもカトリック的で、抑圧的な空間でしたね。

──今になって振り返ると、当時のあなたは女の子を演じることに反抗していたと感じますか? それとも、降伏せざるを得ない状況にあったと思いますか?

降伏していた部分もあるかもしれません。お酒に助けられたところはあったと思う。当時のわたしは、自分がどこか間違っているんだと感じていました。わたしの家は二世帯が暮らせる建物になっていて、うちが家主、下の階にはレズビアンふたりが住んでいたんだけれど、このふたりがとんでもないアル中で。アル中であること、レズビアンであることを、いつもお互いに罵り合っていたんです。だからわたしは、レズビアンというあり方を認識していたし、自分からにじみ出ていると思っていた“男性性”や、自分が感じていた“女性”になりたくないという欲望も、間違っているんじゃないかと感じていました。

──女子と男子が分けられて廊下に並ばされたとおっしゃっていましたが、「自分は向こう側だ」と感じていましたか?

ただ、自分は男なんだと感じていました。着る服から好みのものまで、男子的なもの方が好きだったんです。外へ出かける兄を見ながら、「なんで自分はこんな服を着なきゃならないんだろう」と思っていました。
わたしが小さい頃に亡くなってしまったけれど、父はとても寛容で、自由なひとでした。すごくクィアなひとだった。父が生きていたころのうちには、性の流動性(ジェンダー・フルイディティ)みたいなものが当たり前のようにあったのです。だから、父が亡くなったときは疎外感を感じました。それで、学校ではイケてるグループの女の子たちとも仲良くするようになっていったんです。だけど、中学のときは、ジェンダーをスイッチのように切り替えるような感覚で、「女の子もできる」と思ったのを覚えてる。友達に勧められて流行りのパーマをかけてみたり。8年生になる頃にはファッションも変わってきて、周りからも「きれい」と言われる容姿ができあがっていった。子猫みたいに怯えてもいたように思うけど、男の子が「きれい」だと言うんならそれでいいか、とも思っていました。でもお酒を知るようになって、飲んでいれば自分が感じている違和感から目を背けられるようになっていった。同時に、女の子を演じるには支障が出るようになった。お酒さえ飲まなければ、きっときれいな女の子になっていたと思います。

今はお酒もドラッグもやりません。やめざるを得なくてやめたけど、お酒とドラッグはわたしの言語世界を大きく広げてくれたし、自分のセクシュアリティを知るうえでも、ストレート女性を演じるうえでも(のちに男性を演じるうえでも)、大きな助けになりました。ドラッグを知って、そこで初めてレズビアンとして生きる可能性を見出すことができたんです。

──名前を変えようと思ったことはありますか?

もちろん。苗字は変えないけど、名前は変えたいと思ったことはあります。

──自分が描かれている『トランスペアレント』を見るのは嬉しかったですか? それとも、あれはあなたではなかったのでしょうか?

あれはわたしというわけではないんです。レスリーを演じたチェリー・ジョーンズ(Cherry Jones)とは仲良くなった——けど、わたしではありません。

──20歳以上若い世代が、近年あなたの作品を再評価するようになっています。あなた自身もそれを感じていますか?

ひしひしと感じます。

──突如、世間の注目が集まっていることについてはどう感じていますか? 生活に変化はありましたか?

勇気、スペース、そしてお金をもたらしてくれました。大金持ちというわけじゃないけれど——これまではせき止められていた水流が放たれたような感覚です。もう人前で教えたりしなくていいんだ、わたしは何かを成し遂げたんだと実感した瞬間があったんです。自分が受けている恩恵をありがたく思いながらも、断るべきことには「ノー」と言えるだけの自信を持っていなくちゃと思っています。バンドみたいに数ヶ月ものあいだ、朗読やツアーの旅をして、終わったら数ヶ月休む——そんな理想の働き方を、今ならできる。だから、自分が必要とするプライベートの時間は、無理してでも自分に与えてなければいけないのです。
テキサスに家を持っていて、そこに犬を一匹飼っているんだけれど、若い作家たちに家と犬をみてもらってます。そこにいるときには、うちで好きなように暮らしてもいいよ、ってね。わたしも、彼女たちぐらいの年齢のときに、“ハウスシッター”をやらされたことがあって、そこでひとりきりになったからこそ色々なことを考えられた。どうすれば安く生活できるか——その知恵さえ自分のものにできれば、あとはすべて自由な時間でした。その時間で、自分の生命力を養うことを学んだんです。
わたしと名声の関係性は(カトリックだという違いこそあるけれど)、アンディ・ウォーホルと名声の関係性に似ています。現実の自分よりも少しだけ輝いていたい、より偉大でありたいといつも思っていた。そして、自分が本当にそうであるかのように演じていました。詩人だからといって、それを仕事として生活していけないなんてことは絶対にない——そう信じて、詩人を仕事として生活している自分を演じるのが大切だと思います。それを実践して、10年ごとに、アート系作家として生きてみたり、パフォーマンス・アーティストとして生きてみたり、大統領候補として生きてみたりと、新たな自分を作り出していきました。とはいえ、詩はわたしにとっての核の部分。詩人であるということから、ほかのすべては派生しているんです。

──あなたが書いた一節に、「わたしの大きな犠牲は、誰もが期待し、わたしもそれを必要としているからこそある。わたしは崖から飛び降りてしまいたくなるほど、根っからのレズビアン。そして、男前な詩人でもある——詩を支持し、嘘をつくのをやめて、金を稼ぐのだ」というものがありますね。そういうことでしょうか?

そうだと思います。それと、あれはギリシャの女性詩人サッポーが男性に拒絶されて崖から飛び降りたというヘテロセクシュアルの物語にかけた冗談でもあった。80年代、わたしはセント・マークス・ポエトリー・プロジェクト(St. Marks Poetry Project)のディレクターを務めさせてもらっていました。正気の人ならそれを“報酬”だとは思わないほどの薄給だったけど、それでもわたしにとって初めて大人として仕事をさせてもらう機会だったんです。あの頃、初めてクレジット・カードを持つようになって、新しい世界にいることを実感したのを覚えています。

──ニューヨークのイースト・ヴィレッジでのことですか?

そう。イースト・ヴィレッジはわたしの心の故郷です。

──故郷のように感じるんですね。

そう、故郷。買ったわけではないけれど、今でも当時と同じ場所に住んでいるんです。家賃も上がらないしね。小さなアパートだけれど、良い場所だし、家の正面には、ニューヨークで最古の墓地もあります。

──死が常にそこにあるのですね。

いつも死があって、そこにはいつも鳥や木やリスが生きている。そんな環境が好きですね。10年に一度は墓場の修繕をしに出るんだけど、何かを直すというより、掘る作業のほうが多いかもしれません。これからもあの環境が失われないことを願います。

──2016年は、様々な文化が奪われるような出来事が続き、誰もが、命は永遠ではないと気づかされました。あなたは死についてどのように考えていますか?

死についての考え方はつねに変化します。仕事にもそれは影響して、「自分が大切に思うものを扱おう」と思うようになったり。変な話で、若い頃に戻りたいとはまったく思わないけれど、この先できることには限りがあるという現実にひどく落胆するんです。なぜやっておかなかったんだろうと思うものが、やはりあるのです。

──焦点を絞り始めているということですよね。それでは、今後は何をやっていくつもりなのでしょうか?

もしも今回の脚本で監督を務められないなら、いつか監督をやりたいと思っています。今回は誰か他の監督が撮るだろうけれど。本もたくさん出すつもりです。本にまとめる詩は、すでに書き上げています。今はアンソロジーの編纂もしていますが、これはほとんど編集の作業ですね。旅行記として書いたエッセイ集も準備していてますが、旅行記の枠には収まらないものになりそう。それと、売り込もうとしてるテレビの企画がひとつ。ドラマやコメディ要素もある、詩人の人生を描いた物語です。それから、もう一冊。大切な書類やなんかと一緒に箱に入れたまま、失くしてしまったのか、どうしても見つからない本があって、それがわたしの人生にちょっとしたゴタゴタを起こしたんです——それをひとに話したら、「それ、書けばいいじゃない。書かないなら、わたしが書くわよ」って言うから、それも書こうと思っています。

──先ほど、無秩序な生活環境だとおっしゃっていましたが、お話をうかがっていると、あなたはとても戒律的に、エネルギッシュに活動しているように思えます。毎朝、起きて、意気込んで作品作りにかかっているような……?

まったくそんなことはありません。でも、今日は朝起きてから「やるぞ」と執筆に取りかかった。大胆な気分になって部屋の整頓をしたら、脚本を書く気になったから。
先週はロサンゼルスで一週間、クラスを教えなくちゃならなかったんだけど、これが素晴らしい一週間でした。教えていると、詩と一体化したような感覚が得られるんです。授業で教えて、ジムでトレーニングをして、脚本を書いて——完璧だと感じられて、最高の気分でしたね。だけどニューヨークに戻ると、友達が恋しくなって、映画が観たくなった。無性に自分のアパートに帰りたくなったんです。家に居たくて、でも脚本には一切手をつけませんでした。リラックスするタイミングを見極めるのは難しいんですね。でも、クリエイティブでいるには時間の浪費が必要なんだと思います。創造性はいつも、その狭間で起こるものなのです。

わたしはいつもこう考えています。一日中、腕に生えている毛を見つめ続けること──そうした微かな細部を記録に留めていくことは、かけがえのないことなのです。わたしは青春時代を無駄にした——つまりそういうことなんです。

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