映画の平行線 第1回:『心と体と』

RIE TSUKINAGA

映画にまつわる新連載がスタート。映画ライターの月永理絵と文筆家の五所純子が、毎月公開される新作映画を交互に語り合っていきます。初回はイルディコー・エニェディ監督18年ぶりの最新作『心と体と』。

女の出てこない映画はない。けれど女はまだ語り尽くしていない。 “映画の女” を見ながら感じたアレコレを、お喋りのように、戯れ言のように、手紙のように、交わしてみたい。「映画の平行線」は最新映画とともに、映画ライターと文筆家が意見交換していく往復コラムです。


映画を見ているあいだ、私は実に無力な存在だ。目の前で否応なく流れていく光の反射を、ただぼんやりと見つめるだけ。映画へと何かを働きかけることなんてできない。でも記憶のなかでは話が別だ。映画館を出て、さっきまで見ていた映画について考えるとき、私はそれを自由自在につくり変えてしまう。正しい観客のあり方ではないが、どうしようもない。記憶のなかで、次々に別の何かのイメージや言葉が混ざり合う。

五所純子さんとふたりでこの連載を始めたきっかけは、お互いの記憶のなかでつくられる映画について話をしたいと思ったからだ。五所さんと話していると、自分の見た映画と彼女の見た映画とが、本当に同じものだったのか、と時々不安になる。意見が合わないわけではない。「そうだ、そうだ」と相槌を打ち合うことの方が多い。けれどそうやって頷きながらも、どこかで何かがズレていく。彼女の見たイメージと私が見たものと、ほんの少しだけ、何かが違う。それを解き明かすことはできないまま、話はどんどん過ぎ去っていく。それはたいしたズレではない。むしろ常にズレがあるからこそ、私は映画についての対話を続けたいと思う。

突然こんな話から始めてしまったのは、『心と体と』という映画を見たあと、まさに、記憶のなかで、様々なイメージとぐちゃぐちゃに混ざり合ってしまったからだ。映画は、私に先日読み終えたハン・ガンの小説『菜食主義者』(きむ・ふな訳、クオン)をまず思い浮かばせた。『菜食主義者』には、ある日突然一切の肉を食べなくなった女ヨンヘが登場する。彼女の固い決意は、夫をはじめとする周囲の人々に大きな衝撃を与え、それは徐々に怒りや恐怖といった恐ろしい感情の波を生む。なぜ肉食を拒絶するようになったのか。その理由を、ヨンヘは「夢を見たのです」と語る。その夢が彼女の何をそう駆り立てたのかはわからない。だがとにかくその夢を見るようになって以降、彼女は肉を拒み、やがて食べること自体をやめてしまう。彼女は、動物の世界を脱し、植物の世界を生きたいと願う。すべてに抵抗しながらやせ細っていくその姿は、まるで食べものを絶ち、栄養失調で死んでいったシモーヌ・ヴェイユのようだ。

この壮絶な小説『菜食主義者』と、どちらかといえば慎ましく暖かな映画『心と体と』がなぜ重なり合ったのか。それはきっと、ヨンへの見る夢が現実のすべてを変えていくこと、そして肉を喰らうというテーマが、この映画で大きな役割を果たすからだろう。『心と体と』は、ハンガリーのプダペスト郊外を舞台にした、イルディコー・エニェディ監督の18年ぶりの長編映画。監督は、長編デビュー作『私の20世紀』(1989)でカメラドールを受賞。90年代も意欲的に作品を発表するが、2000年以降はテレビドラマを撮ったり映画大学で教鞭をとる以外は、長編映画をつくれずにいたという。そんな彼女が久々に発表した本作は、若い女性マーリアと中年男エンドレの、どこか不思議な交流劇だ。食肉処理場で働くエンドレは、新しく職員としてやってきたマーリアに興味を持つ。だが彼女の行動はとても独特で、その頑なさから、まわりの職員たちからも煙たがられる。そんななか、職場で起きたある事件をきっかけに、ふたりが不思議な繋がりで結ばれていることがわかる。

マーリアとエンドレをつなぐのは、夢。ふたりは、お互いが毎夜同じ夢を見ていることに気づき、驚愕する。夢のなかで、男と女は二匹の鹿になる。寄り添いながら草を食み、森のなかを歩く。その幸福な夢の時間を毎夜共有していたことを知り、彼らは急速に相手への関心を高めていく。

でも、現実でのふたりはなかなか思うように心を通じ合わせることができない。原因は、エンドレの臆病さとマーリアの強い個性だ。彼女は記憶力が異常なほど高いが、たった1ミリ、2ミリの肉の脂肪の厚さも無視できないなど、仕事上でも私生活でも融通をきかせられない。他人との接触が苦手でうまくコミュニケーションを取ることができない。こうした彼女の個性について、監督は、映画を見ていると彼女にアスペルガーの兆候があることが気づくだろうが、これを一人のアスペルガー症候群の女性についての映画にするつもりはなかった、と語る。実際、映画内でもそうした症状を特定する言葉は使われない。

マーリアは、これまで他者との接触を避けて生きてきた人間だ。エンドレと親しくなりたいと願うが、その方法がわからない。恋愛感情とは何かを勉強し、自分の性欲を確認し、セックスアピールの仕方を考える。その様子は少々滑稽だ。彼女よりずっと年上のエンドレの、マーリアへの態度は優しい。だが「恋愛はもう引退した」と言ってみたり、片腕が不自由なことを気にするわりには、別れた女を家に呼びつけたりと妙にプレイボーイを気取っている。噛み合わないふたりの様子を見ていると、夢のなかで惹かれた相手だとはいえ、本当に彼が彼女にとってふさわしい相手なのか、と勝手に憤ってしまう。

ふと、これを男女逆にしてみたらどうだろう、と思いつく。女性経験のない不器用で内気な男がある女性と出会い、みっともないほどに必死で相手との関係を築こうとする物語。小さな町で暮らす冴えない中年男がヴァカンスで訪れた母娘にまとわりつく『女っ気なし』(ギヨーム・ブラック、2011)。43歳で恋愛経験のない巨漢のフーシがダンス教室で出会った女性に恋をする『好きにならずにいられない』(ダーグル・カウリ、2015)。どちらの作品でも、彼らは女たちに真正面からは愛されない。だが女たちからの優しさを得て、彼らは新しい人生へと出発する。

もしかすると『心と体と』は、運命のふたりが心を通じさせるラブストーリーではないのかもしれない。夢のなかで愛し合うふたりが現実社会でも心を通じていく。それは美しい物語だけれど、この映画は、どう考えてもマーリアの映画だ。夢の啓示を受けた彼女が、自分の体を大胆に変化させ、新しい生活へと飛び込んでいく。女の成長、とは言いたくない。ただ変わったのだ。彼女は、新しい自分になるため、体を、心を、改造する。

最後に、この映画の食肉処理場の美しさについても言及したい。それは、アキ・カウリスマキの初期作品『罪と罰』(1983)で見た殺伐とした現場とはまったく違う、美しく整然とした光景だ。そういえば、先日公開された『RAW〜少女のめざめ〜』(ジュリア・デュクルノー、2016)でも、動物たちの死体と血が画面いっぱいに映されていた。こちらは食肉処理場ではなく、獣医学校でのこと。通過儀礼と称して新入生に生肉を食べさせ、動物の血を浴びせかけ、死体を解剖する場面が仰々しく映される。映画自体は興味深いものだったが、動物たちの死体や血と少女の“めざめ”を重ねあわせる露悪的な見せ方には、正直少々辟易した。

『心と体と』の食肉処理の風景は、これとはまったく違う。とても効率的で、慎ましく、嫌悪感は一切感じさせない。その一方で、牛の頭が切り落とされ、大量の血が流れ落ちているこの整備化された食肉の現場をただ美しいと言ってしまってよいものか、とも思う。そういえば、マーリアもエンドレも、なぜか肉よりも野菜を好んで食べていた気がする。それは、彼女たちが夢のなかで鹿に変身することと、何か関係があるのだろうか?

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心と体と
4月14日(土)新宿シネマカリテ、池袋シネマ・ロサほか全国順次公開。