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『君の名前で僕を呼んで』:ルカ・グァダニーノ監督インタビュー

Takuya Tsunekawa

北イタリアの避暑地を舞台にした、ひと夏のまばゆい恋物語。グァダニーノ監督が本作で描いた「欲望」、ヌーヴェルヴァーグ作品からの影響、登場人物のその後を語る。「続編ではなく“クロニクル(年代記)”を作りたいのです」

イタリアの才気煥発なフィルムメイカーであるルカ・グァダニーノが監督を務めた『君の名前で僕を呼んで』は、ひと夏の胸の痛むほどのロマンスと牧歌的なその季節の感覚を鮮やかに捉えた珠玉の青春映画である。アピチャッポン・ウィーラセタクンの撮影監督として知られるサヨムプー・ムックディプロームのマジカルな撮影によって、すべてのフレームが日の光に満たされているこの傑作は、アメリカから北イタリアの避暑地に家族と休暇で訪れた17歳のエリオ(ティモシー・シャラメ)が彼の父の研究を手伝う24歳の大学院生オリヴァー(アーミー・ハマー)と経験する、まばゆい初恋を描いている。陽光の照りつける緑豊かな美しさに囲まれたなか、ふたりは別荘の近くを散策したり、サイクリングに繰り出したり、プールや湖でくつろいだりする。最初はまるで兄弟のようだが、関係はゆっくりと親密さを帯びてロマンティックになり、彼らは恋に落ちる。映画は、ふたりの微細な身体的な接触に細心の注意を払い、彼らのあいだに芽生えていく感情の変化をつぶさに観察していく。

興味深いことに、『君の名前で僕を呼んで』はイタリアを舞台にした映画でありながら、どこか往年のフランス映画の香りが漂ってくるような気品を豊かに湛えている。太陽が降り注ぐ町中での夏の戯れや人物の長い対話を辛抱強く捉えた本作は、エリック・ロメールを彷彿とさせるのだ。あるいは、モーリス・ピアラのような自然主義的なトーンや精神も感じさせるだろう(アンドレ・アシマンの原作小説では1987年に時代設定されているが、映画はエイズ危機が始まる直前の1983年に時代を移している──それは、ピアラの代表作『愛の記念に』の年でもある。ここではエイズ/HIVを扱わないことによって、陰鬱で悲観的なやり方で現実を表象することを避けているとも見ることができるかもしれない)。

「映画を作るとき、私は自分自身が小さい頃から観てきた映画を通して考えるようにしています。現実を再建するとき、映画のなかの現実というレンズを通して行っているのです。この作品に関して言うと、センチメンタルな描き方はしないように心がけ、そして作品全体を田舎の風景に浸したいと考えました。ジャン・ルノワールやベルナルド・ベルトルッチの映画に出てくる田舎の光景が昔から大好きだからです。だからこの作品では田舎の光景と、ヌーヴェルヴァーグの監督作品に見られるような心情を意識しました。つまりジャン・ルノワールの“子供”たち──モーリス・ピアラ、エリック・ロメール、ジャック・リヴェット、そしてベルナルド・ベルトルッチなどです。おっしゃる通り、それらを反映した作品であり、そのような知的なテクスチャーを映画に映し出そうとしたのです」

グァダニーノは、『ミラノ、愛に生きる』(2009)『胸騒ぎのシチリア』(2015)『君の名前で僕を呼んで』を“欲望”の三部作と呼ぶ。『メリッサ・P 青い蕾』(2005)など、以前より一貫して彼は欲望に関心を寄せてきたが、とりわけこれらにおいては観光やヴァカンスの要素が絡むことでそれは露わになっていくだろう(そのような問題は、もちろんロメールのテーマでもあったものだ)。

「私はほかの映画監督のように“こういう考えを表現したいからこういう作品を撮る”というふうに表現をパターン化できるような人間ではないのだと思う。私は作品に対してもっと直感的なアプローチを取っています。つまり、自分にとってしっくりくることを映像化しようと努めているのです。特に頭のなかでは意識していなかったのですが、完成後の作品を振り返ってみて、3作品すべてで“欲望”について語っていると気づきました。前から考えていたことではありません。だから、なぜ欲望に関心があるのかと聞かれても正直わからない。言葉では言い表せないのです。ほかの人がそれについて語るのはいいと思うけど、私から言うのは避けた方がいいのかもしれない」

彼が長けているのは、セックス・シーンを露骨に描くことは回避しながら、決して画面に映ることのないセンシュアリティを詩情豊かな描写によって扱っている点だ。劇中ではエリオが対処しきれないほど肥大化した性的なエネルギーを桃を使って処理する印象的な場面も用意されているが、グァダニーノはしばしば食べ物の持つ官能的な可能性や性質を敏感に感じ取っているかのようだ。それは、欲望の可視化に面白いやり方で機能しているかもしれない。

「私は“人による表現”にとても興味があるのです。しかし日常生活の要素を用いた表現は、方法が限られている。夢を見て、寝て、セックスをして、食べて、生理的活動をする。個々のパーソナリティとともに、私たちはそれらによって成り立っています。食べること、育てること、放置されることなどもそこに含まれるでしょう。私たちにとってこれらは基本的な要素で、目の前にあることなので、そこに注目しました。それが人生であり、人生を表現する手段でもある。だからキャラクターたちに表現させるのに、最もリアルな方法だと思ったのです」

スフィアン・スティーヴンスのピアノを主体とした繊細でありながら柔らかく儚い完璧に美しいサウンドトラックが、エリオとオリヴァーの魅惑的で甘い夏の初恋に情緒と叙情を加味している。あたかも思春期の自分に戻らせるかのような痛切なノスタルジーすら喚起するのだ。そして、やはりグァダニーノの映画とロック・ミュージックは切り離せない関係にある。ローリング・ストーンズの「エモーショナル・レスキュー」をフィーチャーした『胸騒ぎのシチリア』に続き、『君の名前で僕を呼んで』でもザ・サイケデリック・ファーズの「ラブ・マイ・ウェイ」を伴った解放的なダンスパーティのシーンがある。また、劇中でエリオがトーキング・ヘッズのTシャツを着ていることも見逃せない。「作中の音楽は、登場人物の年齢や職業、時代設定と常に関連づけて選ぶようにしています」

しかし、この映画で最も偉大で崇高な精神は、エリオと父とのメンターの関係にこそあるだろう。物語の終盤、マイケル・スタールバーグによって注意深く優しく演じられる父親から息子へ語りかけられる対話には、強く胸を打たれるものがある。

「あの場面は、原作の内容をそのまま描写した最適な例だと思う。アンドレ・アシマンによる美しく完璧な文章に耳を傾けた結果です。映画監督としての私の使命は、あのシーンを真っすぐに伝えることでした。アシマンの力強い言葉と素晴らしい役者の相乗効果だと思っています。私は、彼らに“呼吸”をさせたのです。自由を与えたのさ」

第90回アカデミー賞で脚色賞にも輝いたジェームズ・アイヴォリーによるシナリオは、原作が採用していた過去の記憶を思い返す回想形式から現在進行形のナラティヴへ構成を変更しているのが特徴的だが、それだけでなく、ふたりの物語のエピローグも省略している。グァダニーノはふたりのその後に関して、リチャード・リンクレイターの『ビフォア・サンライズ』シリーズのように、あるいはフランソワ・トリュフォーがジャン=ピエール・レオの成長をそのままフィルムに刻印した「アントワーヌ・ドワネル」シリーズのように描いていく構想を語っているが、どうやら“続編”という位置付けではないようだ。

「メディアの伝え方に原因があるのですが、実は“続編”という情報は正確ではありません。経緯を説明しましょう。映画を完成させて、サンダンス映画祭で観客と一緒に観たとき、私は2つのことに気づきました。登場人物を愛しているということ、そして一緒に映画を作った人々を愛しているということです。カメラの前の役者たちも後ろのスタッフもね。この作品は壮大なストーリーを伝えているわけではありません。観客は自らの人生とリンクさせて観ることができるでしょう。大人への第一歩を踏み出したエリオを描いているから、彼自身や周囲のその後の成長物語を描くのはどうだろうと思ったのです。その意味で、確かにフランソワ・トリュフォーの作品に出てくるアントワーヌ・ドワネルも思い出しました。今回の登場人物のクロニクルを作ることによって、同じ役者やスタッフと再び組み、登場人物の成長過程を描けると考えました。そのアイデアをアンドレ・アシマンに話したところ、非常に興味を持ってくれました。だから、今後の人生でいつか実現できたらいいなとは思っています。条件が揃えば、“続編”ではなく“クロニクル(年代記)”を作りたいのです」

しかし、彼は原作のストーリーラインに厳密に従うのではなく、その後の物語ではエリオが必然的にゲイになるとは限らないとも示唆しているようだ。エリオはオリヴァーだけでなく、隣家に住むフランス人マルシア(エステール・ガレル)ともくっついたり離れたりを繰り返しているガールフレンドに近い関係にあるだろう。グァダニーノにとって重要なことは、映画がまだティーンエイジャーであるひとりの男の子のセクシュアリティについての物語である以上、すべてを彼からの視点で慎重に扱うことであり、そして彼が変化していく肉体を通して抑制が利かなくなるほど性的欲望に目覚めていくなかで、自発的に快楽を求めていく姿を描くことなのだ。

「この物語の続きについてはまだあまり話したくありません。ただひとつ言えることは、私は自分にレッテルを貼らないということ。それは登場人物にも対しても、誰に対しても同じです。だから『君の名前で僕を呼んで』はゲイ・ロマンスの話ではないと思っています。それは断固として拒否します。『君の名前で僕を呼んで』は、ある青年が大人への第一歩を踏み出す物語です。青年は独自の方法で欲望を満たしていく。彼の欲望はあまりにも強く純粋で、本人も周りもそれを受け入れている。だからゲイ・ロマンスの話ではない。ここで語っているのは“欲望”についてであり、それは社会的や歴史的に、あるいは社会の思想で定義づけることはできないものなのです」