映画の平行線 第12回:『金子文子と朴烈』

毎月公開される映画を交互に語り合っていく人気連載。今回は五所純子さんが、大正期の日本に実在した二人のアナキスト、金子文子と朴烈(パク・ヨル)の愛と闘いを描いた『金子文子と朴烈』を取り上げます。

by Junko Gosho
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06 March 2019, 11:51am

女の出てこない映画はない。けれど女はまだ語り尽くしていない。 “映画の女” を見ながら感じたアレコレを、お喋りのように、戯れ言のように、手紙のように、交わしてみたい。「映画の平行線」は最新映画とともに、映画ライター・月永理絵と文筆家・五所純子が意見交換していく往復コラムです。


子供というのは健気なもので、親を庇いつくす。子供というのは辛辣なもので、親を蔑みつくす。マチルドは9歳の子だ。その年齢になれば、自分の親がだいたいどのようなものか、明るみに引っ張り出されるようにわかってくる。社会的視座の獲得だが、それは単純に子の成長を約束してくれるものといかず、ときに子自身を複雑にする。マチルドは母とふたりで暮らし、母の乱調を誰よりも知っている。そのために、誰よりも優しく母を守る番人であるとともに、誰よりも厳しく母を裁く審判にもなる。親の狂いに直面する子はひとりでに、“わたしの親は救いようのない狂人だ”という諦観を得るだろう。諦観によって子は(親と、世界と)和解しようとする。“狂人の母を救わなければならない”という使命感を覚えるだろう。使命感によって子は(親と、世界と)格闘しようとする。大人でも過酷なことだが、ましてマチルドは子供だ。まだ大人に庇護されるべき存在であり、親に貢献するよりも親から愛情を注がれなければならない。当然のこと、マチルドは母に庇護と愛情を求める。求めても求めても、しかし叶わない。だから怒る。なにしろ子供というのは未熟なもので、親に怒りつくす。

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© 2017 F Comme Film / Gaumont / France 2 Cinéma

いじらしい孤軍奮闘がある。月永さんも書いていた、学校の三者面談の場面からそうだ。場違いな言動をする母に合わせてマチルドは即席でタッグを組み、むしろ自分たちのノリを理解できない教師のほうが変だという空気をつくる。とても敏い。ある夜は、きっと母は帰ってくるのだと信じる気持ちと、離れて暮らす父に一刻でも早く連絡したい気持ちとがせめぎ合い、刻々と過ぎるだけの時計の針を見つめて耐える。とても強い。母に体を洗ってもらう夜は、甘え方が度を超して、ゲームのふりをして容赦なく母を服従させる。とても脆い。クリスマスの夜には、ターキーを焼きテーブルをセッティングして待ちぼうけ、待てども待てども帰ってこない母に業を煮やしてカーテンに火を放つ。とても激しい。燃えろ。燃えろ。燃えろ。燃やしつくさなければ、マチルドはじきに壊れる。燃えろ。燃えろ。燃えろ。しかしどうかマチルドよ、この火によって死ぬな。

マチルドはときどき死にたがる。いや、死の気配に浸かることで自分を癒す。おお、オフィーリアよ。水中に体を横たえて死んだ狂気の女。きわめて消極的で受動的な悲劇の女にマチルドを重ねてみせる、あの森の場面は何のために。受難を積極的に読み変えるマチルドはオフィーリアらしくない。するとオフィーリアはマチルドでなく母かもしれず、その水中死体を演じることでマチルドは母を疑似的に殺し、悲劇の額縁から脱出したのか。不吉な意思表明のようだ。水に続いてマチルドは土に自分を横たえる。学校から盗みだした理科の骸骨を埋葬しようと土を堀り、墓穴に横たわって息をつく。死者は埋葬しなければ魂の平安が訪れないと聞いたんだけど、じゃあ私の魂を平安にさせるためには自分で自分を埋葬すればいいよね、と。かわいいマチルド死んだふり。母を殺すことも自分を殺すこともできず、母を逃がすことも許せず、自分を逃がすことも知らず、骸骨とフクロウがオルターエゴという名の親友で。マチルドと見つめあう屍と獣、その眼窩と眼球がオーバーラップしていた。瞳の深度が測りにくいという点で両者はよく似ている。

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© 2017 F Comme Film / Gaumont / France 2 Cinéma

フクロウが人間の言葉を話す。その言葉はマチルドにしか聞こえず、フクロウはマチルドの大切な対話者となる。フクロウが男声で話し始めたときは父の代理、あるいは神的な役割としてマチルドを引導する者かと思われたが、しかしフクロウはまったく全知全能でなく、マチルドの知りえることしか知らない。これはマチルドの半身として情動と思索を分け合う存在だ。そう確信したのは、ひとつには、後年のマチルドが母との日々を言葉で記録しはじめるのと引き換えのように、フクロウが言葉を発しなくなったからだ。もうひとつ、より強く確信したのは、あれほど親密になりながら最後までマチルドがフクロウに名を与えなかったからだ。名を与えるとは対象化すること。マチルドとフクロウは未分化に一体化している。(ただしかし、わたしは記憶違いがひどい。前回の月永さんの記事に、母と父にも名前がなかったとあった。作中には名前があったが、エンドロールの表記が「父」「母」だったという意味かもしれない。いずれにせよ、わたしは母がザとかゼで始まる名前だった気がして、父にも名前があったように記憶しており、主要人物で名がないのはフクロウだけだと憶えているのだが、どうにもおぼつかない。)

先ほど“狂人”や“狂気の女”と書いた。この語感の強さは書く手をためらわせる。狂女といえば、白いワンピースの女性が雨に降られながら虚ろな視線で踊っている、そんな旧態依然としたイメージがつきまとって厭わしい。しかし堂々と書きつけてみたのは、『マチルド、翼を広げ』がそれらの表象を新たにしているからだ。森の場面ではオフィーリアと重なって見えた母だが、しかし全体をよく見れば、家を出てひとりになりたい母は、狂気におちいって初めて愛を表明したオフィーリアに似ていない。(また、妻を友情で支えつづける父は自らの愛を棄却したハムレットに似ていない。彼ら彼女らの愛は破滅の要因にされず、関係を変えていくための源泉とされ、家族というものが模索されている。)子マチルドのドラマを軸に見れば、母は育児放棄したひどい人に見えるかもしれない。しかし、ウェディングベールをかぶって歩く母ザ●●●●(名前が思い出せない)を街中で見かけたら、わたしは口笛を贈るだろう。ザ●●●●は魅力的だ。耗弱した心神のなかにきらめく明晰な意思も描かれる。その姿は“狂人”“狂気の女”“精神病”といった凝り固まったイメージを温かく溶かす。

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© 2017 F Comme Film / Gaumont / France 2 Cinéma

『マチルド、翼を広げ』はノエミ・ルヴォウスキー監督の自伝的要素が強いという。お前は母の囚人になっている、とフクロウは作中の子に言う。たしかにそうだ。けれど、子はやがて気づいた。子はかつて自分が母を囚人にした側面に気づいた。だからこそ監督となった子によって本作がつくられた。そして、その母を監督自身が演じた。本作のダンスシーンに迫真性をおぼえる。現実離れした場面だが、精神病者の子であるわたしはどうしようもなくリアリティを感じる。対決とも妥協とも懐柔とも屈服とも同調とも反発とも果たし合いとも化かし合いともつかない、そのすべてである、ダンス。子が親とやっていく。人が人とやっていく。自分でもよくわからないステップを踏んでダンスのように混ぜ合わせていくしかない。あのダンスは、子がたどりつく極地であり、和解のこのうえなく美しい表現だ。鮮烈な成長を遂げたひとりの子が作品の外にいる。そのことに感激する。

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©2017, CINEWORLD & MEGABOX JOONGANG PLUS M , ALL RIGHTS RESERVED

金子文子は孤児だ。正確にいえば母も父も祖母も祖父も養父母的な人もいるが、ろくな養育を受けず、肉親から奴隷のようにこき使われた。精神的な純粋孤児である。子の文字を二つももつ愛らしい名前をもつのに、いやだからか、子として決然と親を求めているようにも見える名だ。文子が実践したアナキズムは、国家を否定し、日本の天皇制とその支配的な家族的形態を破壊しにかかるのだけれど、法廷で文子が朴烈(パク・ヨル)に捧げた万歳三唱は、とても有名な万歳三唱だが、恋人に投げつけた愛の絶唱というよりも、また天皇に捧げるべきものを犯罪者に捧げるという思想的反逆というよりも、天皇のかわりに朴烈を親として希求する叫びにも見えた。関東大震災後の混乱のなか、天皇嘉仁ならびに皇太子裕仁暗殺のための爆弾製造の容疑で逮捕された朴烈と文子だが、取り調べで刑事の問いに対し、朴烈は政治行動を遂行するための返答を、文子は性愛思想を成就させるための返答をする。実はここで二者は分かれている。そこから朴烈が、本作が、文子のほうに引っ張られるように見えるのは、ハングルを読めないわたしが日本語に引っ張られているからかもしれない。邦題は『金子文子と朴烈』、原題は「박열」(朴烈)、英題は「Anarchist from the colony」である。

あの人の遺骸はどんなだったのだろう。ふと想像させられる人がいる。マリリン・モンロー、樺美智子、佐々木貞子、アンネ・フランクなどだが、金子文子もそうで、文子の自伝『何が私をこうさせたか——獄中手記』の冒頭に文子の遺骸の描写があったからだと思う。墓から掘り起こされた文子の遺骸は土の水分を吸って顔を膨らませ、首もとには縊死した跡が残っていた、とあったように記憶する。その惨たらしさのせいか、あるいは本作のメインビジュアルが下敷きにした、文子と朴烈のツーショット写真の重たさ。古いモノクロ写真は粒が荒く影が濃く、座る文子は背筋をだらしなく緩ませて体を朴烈にあずけ、それを背後から抱く朴烈の胸元ははだけ、左手は文子の左乳房にまわされ、右足は文子の下半身を包んでおり、退廃的な空気がふたりから漂う。どこかいやらしく魔的な力のある写真だ。この印象が強かったせいか、本作の文子像(ならびに朴烈像)は新鮮だった。文子が向日性の女なのだ。向日の日は太陽の意であって、反日とか親日とかと関係ないです、念のため。本作の文子はきわめて健康的で直情的であけっぴろげで人なつこい。むしろ文子の簡潔な文体がよみがえって活気を帯びてくる。伊藤野枝の人間像と思想に迫った栗原康さんの『村に火をつけ、白痴になれ』は、野枝の背中を追いながら姉を庇護し激励し情愛をかける“弟文体”の発明だったが、それに似た追い方で本作は文子をかたちにしている。

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いや、というより、もう正直に言って、いまの我々はアナキズムの女に励まされたいのだ。それはそうだろう。貧乏人はますます貧しさに追いやられ、敵国に囲まれてるような宣伝に煽られ、土地は戻ってないのに復興だと謳われ、年数万円と引き換えに産めよ育てよ食わせよと命ぜられ、仕事は選ばなきゃ無限にあると叱られ、男だ女だ度胸だ愛嬌だとコケにされ、夢の技術だったインターネットでみみっちく誹り合い、なにかひとつでも希望を感じることがあるか。死に体にも限界というものがあって、マチルドが火をつけたように、もう破壊くらいしか希望がもてない。それが我々の実情じゃないか。このとき“女”が召還される。不埒な女闘士の力に励まされようとする。金子文子しかり、伊藤野枝しかり、ローザ・ルクセンブルクしかり、エマ・ゴールドマンしかり、ジャンヌ・ダルクしかり。時代の喘ぎによって何度も墓を掘り返される彼女たちはいい迷惑かもしれず、召還されたところで自分が浪漫化されて描かれれば「……え、私そんなんじゃないし」と思うだろうし、本作の文子だって、あの痴的なほどの快活さは作者の想像力がつくったものだろう。ただしかし、その創作された人物のなかに歴史的な迫真もあり、爆弾テロほど物騒でなくとも、文子が朴烈に結ばせた約束など日常的で奮っている。「その一、同志として同棲すること。その二、私が女性であるという観念を取り除くこと。その三、一方が思想的に堕落して権力者と手を結んだ場合には、直ちに共同生活を解消すること」。どうですか。ちょっと部屋に貼ってみたくないですか。

文子と朴烈はそれぞれ独房に閉じ込められ、交流する人物も限られる。朴烈をふくむ不逞社の面々、あるいは首相官邸に集まる面々、男たちが家族化した集合体の動きとして捉えられるのに比べて、文子は一対一の関係で描かれているように見えた。いかにも男性社会のなかで個として高められていく女闘士だが、もっと関係性によって文子を見たかったという思いも残る。はじめのほうに登場していた初代はどこへ行ったのだろう。文子と初代はどんな会話をしただろう。おたがい何を思い合っていただろう。

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だから、やはりこう思うのだ。独房で孤立化していく文子がもっとも紐帯を強くしたのは、本当に朴烈か。天皇ではなかったか。本作に天皇の姿はない。けれど文子の孤立が深まるにつれて、天皇の空虚な存在感が増している。文子と朴烈は結婚式をあげるカップルのように韓国式の正装で法廷に臨むが、あれは二人で企んだこけおどしなんかじゃなく、天皇に出会うためのドレスアップだったのではないか。ならば、前述に戻り、文子の万歳三唱は、朴烈という恋人を通して天皇という敵に捧げられた愛の絶唱ではなかったか。天皇とは文子が失った親ではないか。あの法廷は最高権力者と最下層民が親子として出会うためのステージだったのではないか。聖なるものと俗なるものが通じ合う。けっして直接には描かれない、文子と天皇との強烈な接着面だ。天皇と自分の接点を見ない、見えない、見ようとしない。それこそが日本の天皇制の特徴であり、天皇制が維持される秘訣のようなものだと思うが、そのような“日本人”に比べて文子はよほど天皇を求めている。天皇明仁が幼少時に着た和服の吉祥文様があしらわれた「天皇陛下御即位三十年記念」の豪華記念切手が先日から発売されたと、風呂場でよく会う人たちが喜んでいた。民は金銀砂子にめっぽう弱く、東京オリンピックの招致不正疑惑や天皇制についての議論よりも、式典で裾にひらめく金糸銀糸に目を奪われる。いかに金や銀が美しかろうと、それを無邪気に言祝ぐような愚鈍な民にわたしはなりたくない。リオオリンピックに和装で登場した小池百合子よりも、法廷にチョゴリで現れた金子文子のほうがかっこよくないか。わたしは貧しい。どうせわたしは貧しい。いかにもわたしは貧しい。ならば、せめて突っ張って生きましょうや。俗の美学で転覆してやれ。

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長々書いたが、『金子文子と朴烈』できつく震えたのは、関東大震災時の東京を中心に起こった朝鮮人大虐殺の場面だった。当時、自警団は朝鮮人と日本人を分けるために、道行く人を呼び止めては、「十円五十銭」など朝鮮語を母語とする人が発音しにくい言葉を復唱させた。そして訛った人を殺していった。(そのため、在日朝鮮人だけでなく、沖縄や東北などの地方出身者なども殺されたという記録がある。)凄まじい事件だ。本作は韓国を活動拠点とする韓国人と日本人によって演じられている。したがって、朝鮮人大虐殺の場面も全員がハングルの訛りを帯びている。「十円五十銭と言ってみろ」と脅すほうも、「ちゅうえんこじゅっせん」と声を振り絞るほうも、皆が皆、訛っているのだ。つまり、彼ら彼女らは1923年9月1日の日本で殺されていた人である。死者たちが虐殺を再現している。韓国で生まれた日本の歴史劇を日本で見るということ。戦犯の末裔であるわたしは、その意味を凄まじく刻みつけられた。

金子文子と朴烈
2019年2月16日(土)よりシアター・イメージフォーラム、シネマート心斎橋ほか全国順次公開