『ダゲレオタイプの女』:黒沢清監督インタビュー<前編>

世界中に熱狂的な支持者=“キヨシスト”を有する黒沢清が、オールフランスロケ、外国人キャスト、全編フランス語のオリジナルストーリーで挑んだ初めての海外進出作品『ダゲレオタイプの女』。i-Dは、映画団体「Indie Tokyo」の主宰にして映画評論家の大寺眞輔をインタビュアーに迎え、本作の魅力、黒沢作品に通底するテーマを探った。監督が考える、Jホラーとゴシックホラーの違い、人類最古の写真技法「ダゲレオタイプ」と映画における類似とは……?

by Shinsuke Ohdera
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14 October 2016, 1:35pm

1980年代半ば『神田川淫乱戦争』('83)や『ドレミファ娘の血は騒ぐ』('85)で登場して以来、黒沢清という名前は日本の映画ファンにとって常に最も大きな関心の対象だった。テレビやVシネに活躍の場を求めた時代、『CURE キュア』('97)での成功、そしてJホラーの旗手となった『回路』(2000)や『叫』(2006)の時代。そのあいだにも『ニンゲン合格』('98)や『アカルイミライ』(2002)『トウキョウソナタ』(2008)といった一見地味ながら深い味わいを持つ作品も彼は撮っていた。

そして、カンヌ国際映画祭ある視点部門で監督賞を受賞した『岸辺の旅』(2014)を経て、「世界のクロサワ」となった彼は『クリーピー 偽りの隣人』(2016)と『ダゲレオタイプの女』(2016)というピカピカの2本の新作を一気に私たちの手元へと送り込んできた。とりわけ後者は、黒沢にとってはじめてのオールフランスロケによる作品だ。その新鮮な装いのなかで、しかし『ダゲレオタイプの女』からは『スウィートホーム』('88)の時代へと原点回帰する趣も感じられる。

黒沢清の現在は一体どこにあるのだろう? そして、映画へと注ぎ続けられる彼の情熱、彼の作家性の根源とは? 映画の原理的問題やジャンル論を越えて、黒沢清の生の欲望を垣間見せる瞬間を『ダゲレオタイプの女』から探ってみた。

大寺眞輔(以下、大寺):フランスでの撮影という新しいチャレンジにもかかわらず、『ダゲレオタイプの女』はすごくクラシックな黒沢清、王道の黒沢映画になっていると思いました。オリジナル脚本だということも大きかったのでしょうか?
黒沢清(以下、黒沢):そうだと思います。ジャパニーズホラー(※以下、Jホラー)が世界的ブームになっていた、『回路』の前後だと思いますが、イギリスのプロデューサーに何かホラー映画を撮らないかと話を持ちかけられました。そのとき考えたものが、この物語の基本になっています。ハマー・プロなどで有名なイギリスから声がかかったことが大きいのかもしれませんが、本当に小さいときから好きだった、Jホラーよりも古いゴシックホラーのようなものを、是非とも撮りたいと思いました。唯一『スウィートホーム』で少しやりましたが、僕の昔からの幼い夢のような部分をストレートに表現した物語が最初にあったので、今回の映画製作にあたっても素直にそうした部分を出すことができました。

大寺:ゴシックホラー、あるいは怪奇映画の要素は、この映画の主人公であるジャン以上にダゲレオタイプにこだわって撮影している写真家ステファンに反映されていると思います。
黒沢:そうですね。だいたい昔観ていたその手の映画って、古い屋敷や古城で、年老いた城主が娘を使って怪しげな実験をしている。フランス映画でいえばジョルジュ・フランジュの『顔のない眼』('59)など、父親が娘のために怪しげな医学実験をやっているという、当時60年代前後には本当によくあったこの手の怪奇映画で基本的な設定ですね。

大寺:マッドサイエンティストのストーリーが基本になっていますね。この映画を見て真っ先に思い出したのは、まさに『回路』と『スウィートホーム』の2本でした。
黒沢:『回路』含めJホラー・ブームの中で撮っていた作品は、自分にとって新しいチャレンジであり楽しかったのですが、"昔からやりたかったこと"ではありませんでした。『リング』('98)や『呪怨』(2000)に刺激されて「こんなやりかたもあるのか、じゃあ自分も挑戦してみよう」と色々試行錯誤していたものです。『スウィートホーム』はもっと前からやりたかったオーソドックスな怪奇映画なので、その点で言えば今回は『回路』などよりも、もっと前のものに近い内容ですね。

大寺:例えばJホラーが当時の黒沢監督にとって挑戦であり、怪奇映画の方が自分のオリジンに近かったとすると、その最大の違いとはなんでしょう?
黒沢:ひとつは怪奇映画の美術です。日常から離れた場所で怪しいことが起こるというお膳立てのようなものです。だから人里離れた屋敷のアトリエなどを設定して、普通ではありえない出来事を起こします。一方、Jホラーは全く違う発想で作られています。なんでもないマンションの一室や道端で、突然髪の長い女が立っているという表現で勝負している。その方がお金もかからないし、物語としても日常からすぐ奇怪な現象に入っていけます。なので『スウィートホーム』は全くJホラーではありません。あの作品同様、人里離れた屋敷といった舞台設定で勝負するのは、昔からの僕の大きな欲望のひとつでした。

大寺:今回フランスで撮影されたにも関わらず、きわめて匿名的な場所になっているように見えました。
黒沢:こういう物語だからということもありますが、フランスでなにか撮れと言われて、パリの現在の日常や現実を生々しく的確に撮れるかというと、たぶん僕には無理だと思うのです。撮ったとしても実際にそこで生活している人からかけ離れたものになるだろうと思いました。ですから、外国で撮るなら少し時代や社会から隔たった物語がふさわしいし、僕にできるとしたらそれだと。逆に、『カリスマ』('99)では匿名的な場所を作ろうとしたのですが、東京で撮ると東京の現実がこびりつくのでなかなか難しかったです。もちろん、パリでもパリの現実がどこかこびりついているとは思うのですが、少なくとも日本人から見ると、あまりそういうところは気にならない。フィクションの世界があっさりと作れるのではないかと思いました。

大寺:オープニングショットの駅から屋敷までの間をつなぐショットで、何か看板のような、緑と白の板のようなものが裏道の両脇に立てかけられていますね?
黒沢:そうです。あれはフランスでよく見かける工事現場のフェンスです。日本だったらオレンジと黒です。この屋敷はもう取り壊す予定だという目印です。現代のパリ近郊の設定なので、さすがに僕も頭から屋敷に到着する場面を入れるのにはためらいがありました。まずワンカットめはパリの少し外側の駅、そのあと屋敷の近くまで歩いて行くと工事中のフェンスがあり、次にようやくこの非現実の世界、いつの時代とも知れぬ屋敷の前に立つという手順を踏みました。

大寺:工事現場の設定が映画後半で地域再開発の話へとつながっていますが、消え去っていく場所だからこそ非現実的空間が残っているという問題は、黒沢監督の作品でいうと『勝手にしやがれ!!』('95)シリーズにも通じるものでしょうか。
黒沢:そうですね。東京近郊で撮るとき、幽霊が出てこなくても『勝手にしやがれ!!』のように殺人が起こったり、やや奇妙なことが起こったりする場所というのは、僕にとって都市と田舎の境目です。こういう場所は大抵再開発中だったりします。パリの場合はどうだろうと脚本を書いているとき調査したのですが、同じでしたね。中心部が世界遺産として保存されてしまっているがゆえに、郊外との間がまさに再開発によって壊されまくっている。犯罪とか、フランスの場合は移民によるデモとか、色々と面倒なことが起こるのはその辺りです。パリであれ東京であれ、現代の都市はやはり同じ構造を持っているようです。

大寺:この作品の場合、屋敷ばかりではなく、ダゲレオタイプというすでに滅んでしまった過去のテクノロジーが大きく扱われています。
黒沢:当初はたった1枚写真撮るのに膨大な時間をかけ、人間を固定してこんな大袈裟なことやっているというのが、いかにもゴシックホラーのマッドドクターのイメージに近いという単純な理由でした。しかしダゲレオタイプのことを調べていると、映画ってほとんどこれだよなと思うようになってきました。
最近映画もほぼデジタルで撮っているのですが、スマホで誰でも簡単に動画が撮れてしまう世の中なのに、固定こそしないけど役者に「ここに立っていてくれ」と衣装を着せ照明を当てて何度もテストして、たかが数十秒のワンカットに1時間も2時間もかけて、そこに何やら神聖なものが映るに違いないと信じて映画を作っているわけですね。これはほとんどダゲレオタイプと変わっていない。こんなものが今残っているのが不思議だというくらい時代錯誤なことを僕たちはやっているのだと改めて痛感しました。
しかし一方で、あれだけ日常的にスマホ動画を撮っている若者たちでさえ、映画館に行くと神聖な何かが映っている、見たこともない何かがそこに映っているかもしれないと期待して来てくれるわけですね。これは昔からほとんど変わりません。そういう映像に対するある種の神秘性がかろうじて残っているのが実は映画なのだと意識しつつ、しかしこれはやはり『ダゲレオタイプの女』のステファンと同じで、どこか狂気であり幻想であり、最終的には自滅していくものかもしれないと自戒しながらこの作品を作りました。

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© FILM-IN-EVOLUTION - LES PRODUCTIONS BALTHAZAR - FRAKAS PRODUCTIONS - LFDLPA Japan Film Partners - ARTE France Cinéma

大寺:ダゲレオタイプを映画への自己言及と捉えた場合、人間を固定し長時間露光によって像を得るまで動くことのできないテクノロジーは、モーションピクチャー(動く絵)と呼ばれる映画に対しある種の倒錯があるように思うのですが。
黒沢:ダゲレオタイプとは、絵画への憧れを強く持ったものだと思います。一方、映画は動くものだと言っておきながら、実は絵画への嫉妬や憧れを同じように隠し持っており「絵画ではないけど、やっぱり絵画的にしたい」という微妙な距離が捨てがたくあるように思います。前々から感じていたことですが、今回この作品を作るにあたってスチール写真の歴史を見直して改めてよくわかりました。生きて動いている人間を、固定させ動かないものにしていくこと。つまり絵画の原初的な欲望に対して、ここまで精密な絵画は存在しないだろうという思いが、ダゲレオタイプ始め初期の写真には溢れているように感じました。
もちろん、日常で生きる自然な人間の姿とは大きくかけ離れています。それは映画でもまさに同じで、日常的な自然さは何もないのですが、では不自然なものを作っているのかというとそうでもない。日常とは別のある種の自然さを求めているのです。すごく変なことをやっているにも関わらず、当然そこにあるべきものとしてじっと見つめている。こうした映画のありようが、まさに絵画的だと思うのです。
こんな姿勢でいることは絶対あり得ないのに、絵画の中ではこんな世界が確かにあると見せている。カメラの反対側にいる人間は、絶対こういう世界が存在すると確信して凝視しているわけです。僕にとって、これはほとんど映画を作ることと同じです。もちろん一方で、映画とは、もっと別な形のもの、自然なものだと主張する人たちもいます。ヌーヴェルヴァーグなどはまさにそうした思いから街にカメラを持ち出したわけですが、やはりそこで撮られているものは、じっと見ている視線と、視線によって捉えられたものとの関係で成立している。この部分は変わりないと僕は思います。

大寺:共通するのは、撮る者の欲望によって対象を凝視しつつ、装置やメディアを使って、本当の姿や魂みたいなものを相手から引き出すことができるという信念みたいなものでしょうか?
黒沢:良く言えば信念、ほとんど狂気かもしれません。演劇とか別の表現だと、カメラなしでそういうことが行われるのかもしれませんが、カメラという奇妙な機械がその間にポンと置かれることで、カメラのこちら側に凡人がいたとしてもわりと簡単に、幻想や信念や狂気が成立してしまう。カメラというのはつくづく不思議な機械だと思います。

大寺:ある意味で宗教的装置のような?
黒沢:そうですね。見ている私の視線の代わりですが、この視線はもはや私のものではなく、別の何かの視線なのだということをカメラは象徴しているかもしれません。スマホなどとは違って奇妙な形をした、ただ映像を収めるだけのこの不思議な機械は、何か特殊な人間関係を作り出してしまうのでしょう。今、僕はその機械に頼って映画監督という商売をやっています。カメラがないと全く商売が成り立たない。だから、僕もその幻想のなかで仕事をしています。

『ダゲレオタイプの女』:黒沢清監督インタビュー<後編>はこちら

Credits


Text Shinsuke Ohdera
Assistance Masayuki Ueda
Photography for Portrait Kenta Sawada

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