即興性の美学:BODYSONG.インタビュー

18AWシーズンにて初めてショーを発表したファッションブランド、BODYSONG.。会場には1000人以上のオーディエンスが訪れ、会場外の中継も行なうほどに。東京のみならず中国、パリでもブランドへの注目が集まるなか、デザイナーの存在は一切公表されていない。あまりインタビューも受けないという彼に、i-D Japanが独占インタビューを行なった。

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jun 21 2018, 12:40pm

ファッションは往々にして煌びやかな世界として幻想を纏い、その幻想のなかで活躍するファッションデザイナーはスーパースターのような存在だ。近年ファッションブランドの名前を聞けば、そのデザイナーの名前と顔を思い出す連想ゲームがますます盛んになるなかで、顔出しNGを貫き通すシャイなファッションデザイナーがここ東京にいる。

ファッションブランド、BODYSONG.のデザイナー。「普段はインタビューをあまり受けない」という彼とは、3年程の付き合いになるが、ブランドの活動自体は5年以上見てきた。彼の周りには、そうやって公私ともに古くから彼を知るアシスタントやフォトグラファー、スタイリストがいる。言うまでもなくファッションブランドはデザイナーのみで成立するものではなく、デザイナーを信じた表現の集合体によってオリジナリティが引き出される。そうやってBODYSONG.クルー全員が一心同体でブランドを形作ってきた。

ある日、そんなブランドのクルー全員にとって喜ばしいビックニュースが舞い込んでくることとなる。東京ファッションアワード受賞だ。まるでインディーズバンドがメジャーデビューしたときのような驚くべき快挙は、1000人以上のオーディエンスで溢れかえるショー会場の熱気に、さらにエモーショナルな瞬間を作り出した。今日も落ち着いた雰囲気で私の目の前に座る彼と、いつも通りカジュアルな雰囲気で8年ぶりのインタビューを行なった。

― 8年前のインタビューでは「デザイナーより職人を目指していた」と語っているけど、当時職人に対してどのようなイメージを抱いていたの?

服のデザインだけではなく総合的にデザインできる、表現できるっていうイメージを持っていた。このイメージはブランド立ち上げのきっかけにもつながるけど、当時は周りの友人と一緒に空間を使ったインスタレーションや表現を自発的に行なっていたんだよね。だからなおさら服を作るだけのファッションデザイナーに対しては違和感を感じていたんだと思う。今はそうは思わないけど。

―「ファッションデザイナー」に違和感を感じながらも、そもそもファッションの道に進もうと思ったきっかけは?

中学生、高校生の頃にちょうど裏原のムーブメントを体験して、単純にファッションが好きになったことかな。でも、その頃はもちろんデザイナーになりたいという気持ちはまったくなくて、ファッションに関わる仕事がしたいと思ったから服飾学校に入学した。

― 当時の街とカルチャーの関係性はどのようなものだった?

学生時代に遊んでいた街と音楽との関係性はとても深かったように感じる。はじめて体験するようなことも多かったし、初期衝動も多く感じられた。僕が若かったってこともあったかもしれないけど、1世代上の裏原もクラブカルチャーやバンドカルチャー、雑誌と密接だったんだと思う。そういうふうに学生時代に感じた音楽と密接に関わっているカルチャーに、今も無意識ながらも惹かれてるのかもしれない。

― その後、ファッションブランドのかたちを築いていった経緯は?

学生時代に runurunuデザイナー・川辺靖芳、スタイリスト・市野沢祐大、obsess デザイナー・北田哲朗と、卒業後にBALMUNG デザイナー・城下八と出会ったことが大きなきっかけになったと思う。彼らの、服だけにとどまらない、空間全体まで自発的かつ挑戦的に表現している光景が刺激的だった。それで、服を作ること自体に興味が移っていって、デザイン科に編入した。彼らとはまだセレクトショップCANDYが新宿にあった頃からクラブで遊んだり、公私ともに長い付き合い。その頃に、いま一緒にルックを撮影しているフォトグラファー・三宅英正、スタイリスト・小山田孝司にも出会った。付き合いも長いってこともあるし、僕の趣味趣向を感覚的に理解してくれてると思う。

― その同世代のデザイナーと2008年頃から合同展示会「Dinner」を始めるようになる。裏原のように複数人でムーブメントを起こしていくスタイルに近く、ただ展示会を行なうというよりDIYなインスタレーションに近い表現だったよね。

そうだね。同世代のデザイナー4人とひとつの空間に対してそれぞれ服を含めたインスタレーションとして表現してた。そのうち2011年頃には「Dinner」の精神性を引き継ぎながら、「COCCON」と合同展示会の名前を変えて活動し始めた。「Dinner」の頃より、さらにブランドとしての活動を広げたいと思った頃だったから、展示会として成り立つようにはしていたけど、やっぱり最初のうちはDIYやハンドメイドの表現がメインだったかな。

― 当時の東京のファッションシーンは、どのような雰囲気だった?

色々なジャンルがクロスオーバーしていたと思う。たぶん「ジャンル」ってことすらもなくなってきた時代だったんじゃないかな。

― 2011年頃に「COCCON」としてセレクトショップ「FAKE」で行ったインスタレーション会場の一角に無数のシンセサイザーが置いてあったことを覚えてる。アトリエにある膨大なCDの量からも、ファッションと同じくらい音楽も好きなはずだけど、音楽の仕事で表現をしようとは思わなかったの?

何かを初めて実行することに対しては、意外と手順をちゃんと踏みたいタイプなんだよね。洋服は自分で着たり学校で学んできたから、ゆるやかなブランドスタートだったにせよ、ちゃんとやり通せると思ってた。だけど、音楽の場合だとリスペクトが強すぎたということもあって、そんな感覚的に目指せる勢いはなかったかも。

― コレクションを重ねるごとに型数も規模も拡大してきてるにも関わらず、自発的な服作りのスタイルは昔と変わらず一貫してるよね。どのように自分のオリジナリティを残そうとしてる?

ブランドの規模的にすべて自分の手で作ることはできなくなったけど、いまでもサンプルは自分の手で作ることもあるよ。サンプルを作る過程として、工場から届いたものを自分で再構築したりもする。いまになって感じることだけど、そういうふうに何かつくってるときの感覚が手癖のようにブランドを立ち上げた当時のテイストとリンクしているように感じるときがある。

― ブランドコンセプトでもある「インプロビゼーション(即興)」に影響したものは?

ブランドの名前にも由来するけど、映画『bodysong』からの影響は大きい。2003年にサイモン・パンメル監督が制作した自主映画で、1時間程の上映時間に約20秒間の無数の映像が細切れにリミックスされている。レディオヘッドのギターリスト、ジョナサン・グリーンウッドが制作したサウンドトラックも素晴らしい。ゆるやかな音楽のなか、「生」と「死」につながっている映像を連続して見せてるんだけど、その即興性やコラージュ的感覚に魅力を感じて、当時ミクシィネームも「bodysong」にしてた(笑)。

―コレクション制作するときも、映画『bodysong』のとおり様々なものを複合的に混ぜていくの?

そうだね。毎シーズンひとつのものにインスパイアされるというより、色々なものを総合的に取り入れているから、ひとつのキーワードであらわすことは難しい。インスパイアされた様々な資料は、すべて自分の携帯とパソコンのなかに入れてるから、ムードボードとかも特になにもない。フォトグラファーやスタイリスト、コラボレーターなどブランドを客観視してくれている人たちとの会話のなかで、テーマがぼんやり浮かんでくることも多いかも。

― それら即興性は、ファッション特有の鮮度にも関わってくると思う。BODYSONG.にとってのファッションとは?

考えてみたけど、BODYSONG.にとってファッションが何なのか定義できない。僕はとにかく収集癖があるから、ファッションは僕にとって欲望の一部って感じなのかも。

― 初めてパリで展示会を開いて学んだことは?

今回のパリの展示会で、ブランドの内面を説明する大切さを身にしみて感じたから、今後は言葉でもブランドをしっかり伝えられたらと思った。当たり前だけど、日本で通用していることが、現地の異なるルール上では成果につながらない。例えば日本で若手デザイナーの場合、バイヤーが展示会で興味を持ってくれれば1シーズン目で取り扱ってくれる可能性もあるけど、パリの場合は3シーズンくらい見てからようやく信頼を置いてくれる。そうやって各国のルールや価値観を分かりながら、自分らしい活動を広げていきたいと感じた良い経験になったと思う。

― 今後の目標は?

SS19シーズンも東京ファッションアワードの支援で2回目のパリでの展示会を行なうので、少しでも気に留めてもらえるように努力したいと考えている。少しずつでも広げていくっていうのが今後の目標だね。