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イランのエレクトロニカ史50年の波

1979年のイスラム革命以前、イランは東西のカルチャーがぶつかり混じり合う、音楽文化のるつぼだった。革命以降は鎮圧を見たイランの音楽シーンが、最近になりアンダーグラウンドで復興の兆候が見られている。イランでは今なにが起こっているのか?

by Jack Needham
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12 January 2017, 12:19pm

1978年1月7日、イラン革命は勃発した。そして1979年、それまで半世紀にわたりイランを牛耳っていたパーラヴィ朝が崩壊し、イラン・イスラム共和国が成立した。イランを西洋化することに積極的なパーラヴィ朝のもと、60年代後期にはイランにディスコやポップスなどの音楽が流れ込み、伝統的なイラン音楽と融合をみせ、ひとつの音楽シーンにまで発展した。「70年代、イランは国内音楽の発展に力を入れていました。その結果、イラン音楽はドル箱産業となりました」とカスラV(Kasra V)は説明する。カスラは数年前にイギリスへと移住し、現在はNTSラジオで番組を持つミュージシャンで、故郷の南イランの音楽スタイル、バンダリの可能性を模索したEP『The Window』をリリースするなどの活躍を見せている。

イスラム革命前のイランは、東と西の文化が混じり合う文化のるつぼだった。70年代イランには、オープンリーゲイのミュージシャンで政治家学者、テレビ司会者のファラクザド・フェレイドゥン(Farrakhzad Fereydoun)や、5年前にEglo RecordsのコンピレーションによってNow Again Recordsから音源が発売されたクロッシュ・ヤクマイー(Kourosh Yaghmaei)などがメインストリームの音楽界で大きな成功を見せていた。ショーレ(Shohreh)やエビ(Ebi)といったアーティストたちは「大掛かりなオーケストラが用いられるような、スケールの大きいレコードを作っていた」とカスラは、当時のイラン音楽界がサイケデリック・ポップスとフォク、そして中東ロックを融合した、鮮やかな音楽カルチャーを築いていた様子を語る。グーグーシュ(Googoosh)やダリウシュ(Dariush)、ファルハード・メフラード(Farhad Mehrad)など、当時のスター・アーティストたちは、豊かな感情を音楽で表現していたのだそうだ。「感情的すぎる曲もありましたね」と彼は笑う。「最初から最後までクライマックス、というような曲もありました」。ファルハードの「Jomeh」など、政治色のある曲もあったが、当時ヒットした曲のほとんどは西欧の音楽に倣い、愛や別れ、そして単に楽しいひと時を歌ったものだった。

イスラム革命が勃発すると、イラン国内の音楽、アート、パフォーマンスは一斉に規制の対象となった。革命により、イランを「よりイスラム教国らしく」と法律が制定された結果だった。幅広く検閲が行なわれるようになり、イランから西欧の影響が大きく排除された。それまでに活躍していたアーティストたちは、国外へ逃れてキャリアを継続するか、国に残って新たなイラン文化を生きるかの選択を迫られた。イランが生んだ最大のポップスター、グーグーシュは革命以来、イラン国内でのパフォーマンスを一切行なっていない。唯一、2013年と2015年にテヘランでパフォーマンスを行なった歌手シヴァ・ソルーシュ(Shiva Soroush)が例外的な存在だが、現在のイランでは女性歌手がひとりでパフォーマンスを行なうことが法律で禁じられている。女性歌手はグループの一員として歌うか、もしくは男性歌手のバックで歌うかの選択肢しか与えられていない。

アートや音楽における規制は現在まで続いているが、イランでのコンテンポラリー・ミュージックのシーンが死に絶えることはなかった。私たちが一般的にイメージする"クラブ・カルチャー"こそ存在しない(アルコール摂取は違法とされ、またライブは実現が極めて困難な法体制なのだ)ものの、若いエレクトロニック・ミュージシャンやプロデューサーが誕生し、ナイトライフのシーンは存在している。目につく形では存在していないのである。「違法だけれど、イキイキと存在しています」とカスラは、自身がテヘランで体験したクラビング・カルチャーについて話す。「世界のどの地域とも変わりません。人々は踊りたいし、楽しい時間を過ごしたいんです。ときには日常や現実を忘れて踊り明かしたいんです」

イランのエレクトロニック・ミュージックには、生々しく荒削りな感覚がある。国が制定している法律をかいくぐりなら自分の音楽を人々に聴いてもらおうとすれば、そうなるのだ。既存のイベント会場は"夜の興業"の開催に付随するリスクを恐れて場所借しを拒むため、ミュージシャンやプロデューサーたちは家でパーティを開かざるを得ない。「すべては内輪で行なわれます。パーティはすべてひとの家で開かれるんですよ」とカスラは話す。「しかし、私が実際に行ったそんなパーティのいくつかは、イギリスにあるどのクラブよりも大規模でしたよ。400人以上が参加するパーティもありました。そういった大規模なパーティも、すべてメールやメッセージでオーガナイズされていましたね」

そのようなパーティは厳しい法のもと、どうやって許されてきたのだろうか?「許されてなどいません」とカスラは即答する。「ロンドンでは、例えばテレビの音が大きすぎれば隣人は激怒して通報などしますよね。でもテヘランでは、住人ひとりひとりに、より多くのスペースが与えられています。隣人と仲良くしてさえいれば、多少の音では通報などされません。テヘランは大都市ですが、エリアによってはパーティを開催しても問題には発展しない。パーティをオーガナイズする際には、そういうエリアや場所を選んで開催しているんです」

イランでは政府の文化庁が承認した"公式"の音楽でなければレコーディングは許されないし、ライブ・パフォーマンスも行なうことができない。しかし近年では、政府はよりリベラルになり、規制は緩和されつつある。「聞いたところによると、最近ではアンビエントやテクノといった音楽を作ったり演奏したりしても問題にならない傾向が強まっているそうです。歌詞がないからでしょうかね」とカスラは言う。もちろん、エレクトロニック・ミュージックは検閲対象となってはいるものの、イランにおいて他のジャンルの音楽よりははるかに政府の許容範囲に近い位置づけのようだ。

歌詞がない音楽は、文化庁からの承認を得やすい。そして、エレクトロニック・ミュージックは他のジャンルに比べて日常生活の一部になりやすい。「イラン国民のほとんどがテレビを衛星放送で観ています」と彼は説明する。「『National Geographic』はクラフトワークやヴァンゲリスの音楽をよく使っていましたし、ジャン・ミシェル・ジャールの『Oxygen』は、イランで開催されたテクノロジー展でテーマ音楽として使われていました。そういった音楽を、私たちは日常的に聴いて育っているわけです」

近年、イラン人アーティストたちは音楽系プラットフォームで世界とつながり、それに伴って際立った才能で世界の注目を浴びるプロデューサーも誕生している。SoteSiavash Aminiなど、実験的なサウンドを打ち出すプロデューサーが注目を集め、イランという国のレイヴ事情を追った長編ドキュメンタリー映画『Raving Iran』が公開されるなど、イラン発のエレクトロニカはもはや隠れたシーンではなくなってきているようにすら思える。しかしながら--この映画は「テヘランのふたりのイラン人DJがエレクトロニック・ミュージックの世界で道を切り開こうと、レサージー・フェスティバル(Lethargy Festival)に出演するためスイスに向かう」というストーリーで、イランという国でエレクトロニック・ミュージシャンたちが直面する問題を浮き彫りにしているものの、「エレクトロニカがイラン国内において抹消された」という物語で語られている。しかし、それだけが事実ではない。イランのエレクトロニカ・シーンは、アンダーグラウンドで脈々と生き続けてきたのだ。

カスラがテヘランにいたとき、インターネットの速度は耐え難いほどに遅かったという。「100MBのファイルをダウンロードするのに8 - 9時間かかった」と彼は言う。しかし、現在はBeatportやResident Advisorといったウェブサイトが国内でアクセス可能となっており、また海賊テープ文化がMP3に取って代わられ--世界各国と同じ状態がイランにもあるのだ。

イランでは日々素晴らしい音楽が生まれ、それらが日の目を見て成功を収め始めている。新しいシーンというものは、それがどこに生まれるどのようなシーンであっても、成熟するのに時間がかかるものだ。しかし規制が薄れ、人々が実験的音楽を作り進めることで、音楽はいずれ、必ず新たな領域に達する--それはDIY精神のみが成し得るものであり、献身の精神があるからこそ生み出せるものだ。

Credits


Text Jack Needham
Translation Shinsuke Kuriyama at WORDSBERG Inc.

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