「静寂」という音を求めて

映画『In Pursuit of Silence』の映像を見て、静寂と雑音の起源について考えてみてほしい。

by Matthew Whitehouse
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07 November 2016, 8:32am

地平線まで続く大草原、水面に映る1本の木、夜の闇にポツリと浮かぶ路傍のガソリンスタンドと、そこに聞こえる虫の声——映画『In Pursuit of Silence(静寂を求めて)』は、そのタイトルが示すそのままを表した映像数分間で幕を開ける(あるいは「ジョン・ケージが認めた4分33秒」と言ったほうが正確かもしれない)。

私たち人間が静寂や音と持つ関係性、そしてその関係性が私たちの生活に及ぼす影響を探ったこの映画は、水平線の上に広がる空に伸びる飛行機雲や、遠くに自動車のタイヤが道路の表面を滑る音、うるさいほどの静寂があたりを支配する戦没者記念日など、私たちが日常生活で無意識のうちに欲している、ある"バランス"を炙り出している。ナレーションはない。

ニューハンプシャー州出身でイェール大学卒のグレッグ・ヒンディ(Greg Hindy)は、カメラに収めることを念頭に思いついた言葉をノートに書き留めていく以外にはまったくコミュニケーション手段を持たない状態で、1年間を静寂のなかで過ごした。映画は、その途中から始まる。「私が逃れようとしている雑音の根源——それは、現代社会の大きな一部分となっている電子機器とエンターテインメントだった。私はそんな"社会の雑音"の一切から自分を切り離したい」と彼はノートに書いている。「社会の雑音から自分を切り離してきたこの期間に見えたのは、今後私が自分の生活の構成要素として何を選んで許容し、またそれらをどの程度許容するかということ」

「自然にある静寂への回帰」こそが、『In Pursuit of Silence』の核をなすテーマだ。人類が地球上に誕生してから数千年にもわたり人間が安全を確保でき、そして生き延びることができたのは、静寂によるところが大きい、とこの作品は説いている。歴史上もっとも古い神学者たちも「神崇拝の行き着くところは静寂」と考えたとされており、人里離れた僻地に生きるという選択が「厭世的」などと考えられるようになったのは近年に入ってからの風潮なのだ。地球上の生物として、人間として、自然の静寂はとても重要なものと考えられてきたはずなのに——いったい何が変化してしまったのだろう?

変わったのは、もちろん「私たち」だ。人間が変わったのだ。『In Pursuit of Silence』は「機械は私たち人間にすべてを与えてくれたが、人間はその正しい使い方を未だに見出せていない」と説きながら、機械が作り出す雑音がいかにして私たち人間に大きな影響を及ぼしているかを解き明かしてくれている(例えば地下鉄での移動で私たちを取り巻く雑音。それを意識から完全にシャットアウトするには不可能とも思えるほどの集中力を要するそうなのだ)。日本では、静かな森林に身を置くだけで人間の免疫機能は高まるという研究結果が広く認知されているが、渋谷のスクランブル交差点の騒音レベルは82デシベルにまで達し、それが改善される動きはない。「バランスが必要なのだ」と映画は結論づけている。

「物事のあるがままの姿を見るには、立ち止まって一歩下がり、また一歩下がって、さらに離れたところから見つめることも必要なのだ」と、轟音を立てて行き交う車を背後に、ヒンディは書いている。もちろん、完全な静寂などこの世には存在しない。しかし、それを見出そうとする心こそが人間には必要なのだ。

www.pursuitofsilence.com

Credits


Text Matthew Whitehouse
Translation Shinsuke Kuriyama at WORDSBERG Inc.

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