映画の平行線 第14回:クレール・ドゥニ『ハイ・ライフ』

毎月公開される新作映画について、映画ライターの月永理絵さんと文筆家の五所純子さんが意見交換していく往復連載。今回は五所さんが、仏の巨匠監督クレール・ドゥニの初となるSF映画『ハイ・ライフ』を取り上げます。

by Junko Gosho
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16 May 2019, 5:50am

2019年4月22日、ストリーミングサイトDOMMUNEで「戸川純の気持ち2019」という番組を見ていた。戸川純が歌う姿を久しぶりに見た。10年ほど前はライブに行っていた。あるステージでは開幕時刻から彼女が登場するまで2時間待たされた。またあるステージでは1時間遅れて出てきた彼女は具合のいい赤い口紅を探していたと言った。口紅でなくマニキュアだったかもしれない。シャネルのがいいとも言っていた。唇か爪に鮮やかな赤が塗られていた。赤に演技をさせていた。番組では先頃発表された「Jun Togawa avec Kei Ookubo」の収録曲が流された。ぼんやり聴いていたわたしはある曲の終わりのほうで身を固くした。ヤプーズ「本能の少女」を戸川純がセルフカヴァーした曲だったのだが、〈私が死んだって世界は変わらないし 生きている意味などいらない 関係ないわ〉という元の歌詞が〈私が死んだって世界は変わらないが 生きている意味ならつくるわ 自分でつくるわ〉と歌い変えられているのに気づいたからだ。かつてはニヒリズムによる切断で実存を支える歌だったものが、生存を意味に接続して延命させる歌に変わっている。少女という孤高の作法が一見すると後退的なしかしまぎれもない更新を遂げているとも感じた。なんて時代に敏感な改変だろう。歌のいま、彼女のいま、いまという感じがすごくする。若かった頃のわたしは「生きている意味」などいらない関係ないださいと思っただろう。表現者の嗅覚による同時代的応答としても、彼女自身の経年変化の表現としても、いずれにせよ戦慄をおぼえる。彼女は年をとった。歌も年をとった。彼女は年をとった歌をその年相応に演じていた。

戸川純の話を続ける。もうひとつ時代の変化を感じさせられる歌詞の変更があった。『プリシラ』(ステファン・エリオット監督、1994)の冒頭でテレンス・スタンプ扮するドラァグクイーンが当て振りするシャーリーンの「I've Never Been to Me」、これに戸川純が驚くべき訳詞を書いて「愛はかげろうのように~プリシラ~」としたのだが、そのなかで彼女は〈シルバーフォックスのコート〉と一度書きつけてから〈まばゆい色のコート〉に書き変えたという。ファーフリーの世界的な流れを汲んだそうだ。とても陳腐な事情、だけど重大な事態。いわゆるポリティカル・コレクトネス、政治的妥当性を考慮した判断で、このような変化は陰に陽に芸術を変えていく。前回に月永さんが書いていた『ふたりの女王 メアリーとエリザベス』における史実を無視した多人種的な配役は政治的妥当性と協調路線を組むことでむしろスペクタクルを生む可能性を示唆していた。これは政治的妥当性の追求による表現の萎縮作用が議論される状況下にあって真新しさを感じさせる出来事であったし、こういった路線の探り方が今後のスタンダードになっていくのだという気もした。必ずしも歓迎して言っているのではない。そして急いで言い加えたいのは、戸川の〈シルバーフォックスのコート〉と〈まばゆい色のコート〉はまったく取り替えがきかないということだ。〈まばゆい色のコート〉は妥当であるが、〈シルバーフォックスのコート〉のほうが詩的に審美的にはるかに正確である。

〈(私は)王様の目に留まり、寵愛を受けて、かしずく侍女はまばゆい色のコートを着せて〉と語り部の女が歌う。この歌詞について、〈まばゆい色のコート〉を着たのはいったい誰かという問いにわたしはぶつかった。後宮に召し抱えられた女が侍女にまばゆい色のコートを与えた、そう思っていた。王から女へ寵愛が、女から侍女へコートが与えられる。歌の時間的な流れとともに贈与も王→女→侍女と移動させると読みとった。けれどしばらくして気づいた。いや違う、侍女が妃に豪奢なコートを着せてやったのだと。単に侍女の職務である。王→女←侍女。そう気づいたものの、わたしはこの歌を初めて聴いたわたしがとった感覚のほうが好きだ。なぜならこの歌はありふれた「私」がそのへんの女をつかまえて語って聞かせる絵空事の話だから。語り部は妃でも姫でも何でもない。〈でも、平凡な人間に唯一許されることは想像することだけだったのよ〉。だから想像してみる。もしもわたしが王位についたなら侍女とまばゆい色のコートを分け合いたい。コートを着て深夜に出かけてまばゆい毛色を確かめながら落ちる星の白さをいっしょに見逃したい。ほんとは王位になどつかなくていいのだけども。

『ふたりの女王 メアリーとエリザベス』はファッションとヘアスタイルを見ている間に124分が過ぎたようなもので、配役と同じように史実的にはありえない趣向が凝らされていた。プールポワンやタイツが排されデニムを基調とする男たちのスタイリングは、ゴールドラッシュの土掘りや通勤ラッシュの満員電車を思い出したりして、かえって襟元のフリルが小気味よい。ドレスはルネサンス期からバロック期のフォルムに忠実ながらくどくどとした装飾性がなく、レースや刺繍や貴金属のあしらいにもシャープさがある。五連のシルバーフープにゴールドのティアドロップという左右違えたピアス使いは歴史上の人物の肖像から着想されたものらしいがまさにいま流行中のスタイルでもあり、前述した多人種の配役という現代的要請からなる作劇もあいまって、コスチューム・プレイ(コスプレではない)の倒錯がおもしろくなる。

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『ふたりの女王 メアリーとエリザベス』

いちいち威嚇的で強そうな髪型もよかった。プードルのような巻き毛のトップにコテで波打たせた毛をサイドから垂らしたり、ハート型というか子宮の形態模写みたいに盛られた髪だったり、ホタテの貝殻を頭頂に突き刺したようなスタイルだったり。サラブレットの毛色に沿えばメアリーが栗毛でエリザベスが鹿毛といった色調で、そういえばブロンドヘアの女がひとりも出てこなかったと記憶する。セクシュアルな記号性を微妙に避けながら、でも男から女王への求愛場面では女の髪型がおとなしくなっていたのは気のせいか。

婿探しをしている女王メアリーがちょっと気のある男を宮廷に呼ぶ。メアリーは侍女たちとお揃いの白い素朴なドレスに着替えて輪になり「誰が本物の女王でしょう?」と男に当てさせる。月永さんが触れていた女王当てゲームの場面をわたしもよく覚えている。そして月永さんの書いたものを読んで目から鱗が落ちた。女王という地位は権力闘争によって移ろいやすいものであり、それを熟知したメアリーだから自分と侍女たちとを交換可能なn子の集合として提示して見せた、いわば歴史物の諸行無常をあらわした場面であるとともに、男たちに囲まれて戦う女同士の連帯の場面であった、というのが月永さんの解釈だ。たしかにこの場面で光は女王にも侍女にもひとしく注がれていた。画面内に占める量もおよそ平等だった。女王だけが輝いたり大きく見えたりという設計はされていない。月永さんの言うとおりだ。けれどわたしはメアリーが女王であることを手放して見ることができなかった。単にそれまでのストーリーから「本物の女王」を知っていたからでない。その場面の中にわずかに決定的なメアリーの目つきや仕草があったような気がするのだが、記憶がおぼろだ。

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『ふたりの女王 メアリーとエリザベス』

メアリーを傲慢な奴だとわたしは思った。悪趣味なゲームだと鼻をつまんだ。侍女たちはみな女王と同じメアリーという名で呼ばれ、いつでも影武者を務められるように備えていた。もとより侍女たちが偽メアリーの集合であるという事実の前で、女王が婿選びに乗じてお戯れにn子に化けようとするなんて階級に無頓着でデリカシーのない為政者だと思った。侍女とコートを分け合うように見える分たちが悪い。階級を超えた親密さが女王の私的空間では描かれていたし、あるいは天皇が国民になれないようにn子になれない女王の悲哀もまたあろうが、でもメアリーはかなり神経の図太い政治家である。ふたりの女王の間にひとかけらの友情があったらという想像力は魅力的な偽史を生み、メアリーが男たちを出し抜く政治的手腕には痛快さもあるが、わたしはメアリーを叛史的な人物とまでは思えなかったということかもしれない。なにより女王当てゲームで指差し役をさせられるなんてたまったものじゃない。俺を巻き込むな、あんたらだけで勝手にやってろ、と思うのだった。馬鹿社長の余興に付き合わされたコンパニオンみたいで、男権中心を女権中心に反転させただけの座興に見えてしまって、とっとと温泉に浸かって帰りたかった。

クレール・ドゥニ『ハイ・ライフ』でもコスチュームが目を引いた。SF映画の宇宙服といえば目に艶々しく白が輝くのが定番だが、本作の宇宙服はやや黄色がかった白と黄土色の地に青緑のラインがアクセントとしてほどこされ、ヴィンテージのユニフォームのような落ち着きがある。傷んだゆで卵のような、病んだ眼球のような、灼けた障子紙のような、まばゆくない白。宇宙服だけでなく作品全体に緻密なカラーコレクションがほどこされていて、ホワイトニングされクレンジングされロンダリングされゆく現在世界と逆行するタイムカプセルをつくったみたいな琥珀の世界。白い流線型でなく直方体の木箱のような宇宙船もいい。この船が向かっているのが宇宙だろうが古代だろうが未来だろうが驚かない。実際にいくつかのディストピア的な局面の後に原初的なところに進んでいく映画だ。
「パパ、パパ」と呼びかける赤ん坊と応える男、父子家庭の光景から始まる。舞台は太陽系から遠く離れた宇宙船、かつて同乗していた乗組員は囚人。彼ら彼女らはブラックホールのエネルギー開発プロジェクトと信じて参加したが、その実は地球追放の旅。島流しならぬ宙流し、緩慢な死刑執行である。そういえばブラックホールの撮影成功というニュース画像を見たとき、地球にいたわたしは本作の最後にある上下の瞼が開いていくような赤い光を思い出した。宇宙の囚人たちは地球から送られてくる無作為な映像に曖昧な視線をよこしていた。

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『ハイ・ライフ』

ジュリエット・ビノシュが君臨している。ビノシュ演じるディブスは囚人でありながら医師として他の囚人たちを被験体に生殖実験にいそしんでおり、おやつのようなサプリメントを褒美に男性の体から精液を射出させては、睡眠剤で眠らせた女性の膣にスポイトで精液を注入する。囚人たちはディブスに完全に管理され隷属状態にある。囚人どうしの性行為は禁じられ各々が自慰部屋にこもって事をいたすのだが、人間よりひとまわり大きい銀色の性具だけがやけにメタリックに光っていた。しだいに明らかになるのはディブスの腹の傷跡で、彼女はかつて夫と子を殺し、みずからの腹を刃物でえぐったために生殖機能を失った。その代償行為のように強迫的な使命感に駆られている彼女は宇宙船で新しい生命を誕生させることに躍起になっている。

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『ハイ・ライフ』

ドゥニとビノシュとの間でどのような会話がなされたのか気になるが、怪演かつ怪場面として忘れがたいのがディブスの自慰行為で、暗い密室で背面から撮られてビノシュの筋肉と背骨が強靭に揺れていた。吊り輪をつかんでいるせいか新種の体操競技にも見えたし、鞍馬の上で繰り広げられる前衛舞踊にも見えた。ミア・ゴスが本作に出演しているため『サスペリア』(ルカ・グァダニーノ、2018)のダンスを思い出すなどするが、みずからの息の根を止めるほど捻れる自縛的な身体とちがい、ディブスの動きは傲岸なほど生に執着した自罪的な身体で、嫌気が差すほど不穏な解放感があった。(ミア・ゴスのほうは無重力の微笑みと圧縮の鼻血のコントラストが頭から離れない。) さらに思い出すのは本作と並行して撮られたという『レット・ザ・サンシャイン・イン』(クレール・ドゥニ、2017)で、こちらは五十代女性の恋愛する様子がロラン・バルトの原作『恋愛のディスクール』さながら断章形式で描かれ、ビノシュ百景ともいうべき恋愛模様の数々は一日の出来事のようでも十年の集積のようでもあり、断章を入れ替えてもまったく問題なく成立する。『レット・ザ・サンシャイン・イン』はひとりの人間における恋愛の様態だけをハードコアに抜き出した作品だった。一方の『ハイ・ライフ』のビノシュは性の姿態をエクストリームに演じている。まずもって『レット・ザ・サンシャイン・イン』のミニスカートにロングブーツに胸元を大きくはだけたビノシュの姿は目新しく、保守的なファッションにますます磨きをかける日本では余分に奔放に見えてしまうが、『ハイ・ライフ』はもはやスタイルにおさまらない。看護服にロングヘアをたなびかせたディブスは台詞にあるとおり魔女のムードだが、子殺しの罪でいまなお恐れ憎まれ苦しむ王女メディアに極端な回復策をあたえた後日譚のようでもあり、すると不死であることを決然と断念して落とし前をつけた女王に見えてくる。突き抜けたメディアの姿を、全能的な母性への否定とも、女性嫌悪の迎撃とも、他者を蹂躙した自己救済とも、何と呼べばよいのかまだわからない。

父と娘が残されて始まる。父を演じるロバート・パティンソンの顔にはいつも苦慮が滲み、娘ジェシー・ロスの顔はもちろん初々しい。地球の諸条件をコンパクトに移した容器に、他生物の干渉を受けすぎないシェルターに、循環をつづける土に、儀式をおこなう洞窟に、遠い文明の受像機に、ふたりはここで身を寄せ合って新しい創世記をつくっていくのだが、宇宙船が荒れ果てるほど見る者の足元に近づいてくる。まばゆくない白は母乳や精液や人体から排出される体液の白さを際立たせるためだったのだろう。


ハイ・ライフ
ヒューマントラストシネマ渋谷、ユナイテッド・シネマ豊洲ほか全国で公開中。

「映画の平行線」とは?
女の出てこない映画はない。けれど女はまだ語り尽くしていない。 “映画の女” を見ながら感じたアレコレを、お喋りのように、戯れ言のように、手紙のように、交わしてみたい。「映画の平行線」は最新映画とともに、映画ライター・月永理絵と文筆家・五所純子が意見交換していく往復コラムです。