『ボーダー 二つの世界』アリ・アッバシ監督が語る、映画/文学にできること・できないこと

ギレルモ・デル・トロも絶賛。カンヌ国際映画祭〈ある視点部門〉グランプリを獲得した衝撃作『ボーダー 二つの世界』が10/11より公開される。元々映画には「制限が多い」と感じていた監督が、同名小説を映画化しようと思った理由とは? イランの気鋭アリ・アッバシに話を訊いた。

by Ritsuko Sambe
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07 October 2019, 7:00am

代理出産とホラーを結びつけた『Shelly』で絶賛された新鋭アリ・アッバシ監督。1981年にイランで生まれ、建築を学ぶためにスウェーデンにわたり、建築学の学士号を取得。しかし、その後、デンマーク国立映画学校に入学し、演出を学んだという一風変わった経歴の持ち主だ。『Shelly』は最初の監督・脚本長編作品となるが、2016年のベルリン国際映画祭のパノラマセクションでプレミア上映を果たした。

そんな彼が次の作品に選んだのが、『ぼくのエリ 200歳の少女』の原作者ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストによる新たな衝撃作『ボーダー 二つの世界』(早川書房、山田文ほか訳)だ。

アッバシ監督は、以前のインタビューで、自分は「文学的背景」を持っており、若い時は「映画は単に“大衆”だけのもので(中略)、映画鑑賞とは本当に何もやることがない人たちのための暇つぶしだと思っていた」と語っている。

そこまで文学の優位性を信じていた監督が、なぜ映画の道を選び、なぜ文学作品の映画化に挑んだのか。今回のインタビューでは、監督にとっての映画と文学の関係についてたずねてみた。

アリ・アバッシ, ボーダー
©Meta_Spark&Kärnfilm_AB_2018

『ボーダー 二つの世界』の主人公は、スウェーデンの女性税関職員のティーナ。醜い容貌や、肉体に「正常」でない部分を抱えているために、幼いころから劣等感と孤独に苛まれている。また、人間離れした嗅覚を持ち、違法物を持ちこむ人間の摘発に役立てていたが、それも、社会からの疎外感を和らげるまでには至らない。

ある日、いつもの通り、ティーナの嗅覚が一人の男を危険だと告げる。だが、検査をしても、その男ヴォーレの荷物からは、なにも怪しいものは出てこなかった。ティーナの嗅覚がミスを犯すのは初めてだ。しかも、どこかティーナと似通った容貌のヴォーレに、ティーナは興味を持たずにはいられない。

その後も、ティーナはヴォーレのことが忘れられず、とうとうヴォーレの宿泊先のユースホステルまでわざわざ出向き、自宅の離れを貸そうと申し出る。やがて、彼とティーナの信じがたいつながりが明らかになっていく……。

アリ・アバッシ, ボーダー
©Meta_Spark&Kärnfilm_AB_2018

タイトルが示唆するように、美醜、ジェンダー、貧富、歴史、国籍、そして善悪に至るまで、生半可ではない境界(ボーダー)を観客に突きつけてくる作品だ。

アッバシ監督が、最初にリンドクヴィスト作品と出合ったのは、映画版『ぼくのエリ 200歳の少女』(2008)だ。社会に対する告発としても、新しいヴァンパイア物語としても受け取れるストーリーに引きつけられたアッバシ監督は、現実と幻想の「架け橋を構築」する次なる作品として、小説『ボーダー 二つの世界』に目を留める。

「『ボーダー 二つの世界』は、とても興味を引きつけられる要素を持っていた。と同時に、その要素はまだ完全に生かされていないのではないか、(映画にすることで)もっとインパクトのあるものにできるのではないか、と思ったんだ」

アリ・アバッシ, ボーダー
©Meta_Spark&Kärnfilm_AB_2018

アッバシ監督は常日ごろから、文学に比べ映画のほうがより多くの点で制限が多いと感じていると言う。そして、その制限に対して〈ラブ&ヘイト〉━━愛憎ともいうべき複雑な感情を抱いている、というのだ。

文字だけでつづられる小説と違い、映画では、観客に「見せる」必要がある。例えば、ティーナの醜い外見を映像化するなら、目鼻立ちから髪の色や長さ、体型など、すべて具体的に「決めなければならない」。「小説では『太っている』とだけ書いてあるものを、映画では、実際どのくらい太っているか、決めないとならないからね」

それは、醜さというものを定義することに他ならない。当然、さまざまな危険をはらむ。小説では、読み手の想像にゆだね、各自の解釈に任せられるものを、映画では一つに決めなくてはならないことに、アッバシ監督は、多大なフラストレーションを感じると言う。

アリ・アバッシ, ボーダー
©Meta_Spark&Kärnfilm_AB_2018

一方で、こうした「読者にゆだねられているもの━━見えざるものに、形を与えることが、映画という媒体の持つ強さでもあると思うんだ」と監督は語る。それを、アッバシ監督は、「あからさまな明示性」と呼ぶ。

そう思うようになったのには、生まれ育ったイランの環境が影響している、とアッバシ監督は言う。あらゆることが検閲の対象になる(「そう、キスすら!」)イランのカルチャーシーンにうんざりしていた監督は、「すべてを見せる」ことで生まれる力に惹かれるようになる。

キアロスタミやファルハーディら、イラン国内で映画を撮りつづける偉大な先達には敬意を払いつつ、アッバシ監督が心惹かれるのは、ルイス・ブニュエル(息子をルイスと名付けたそう)、シャンタル・アケルマン、ジュゼッペ・パトローニ・グリッフィといった監督たちだ。

「人生の血と肉に距離を置かず、すべてをあけすけに見せてしまう作品に惹かれるんだ。ほら、園子温なんて、低俗と思われるようなことまで、すべてさらけ出してしまうだろう(笑)?」

アリ・アバッシ, ボーダー
©Meta_Spark&Kärnfilm_AB_2018

「ぼくが映画に本当の意味で興味を持つようになったのは、18、19歳くらいだったから、(映画監督としては)かなり遅い方だと思う。ブニュエルやアケルマンのような監督の作品に出合って、これまでの映画に対するイメージががらりと変わった。映画には、とてつもない可能性があるのではないかと思ったんだ」

『ボーダー 二つの世界』には、「ショッキングすぎる」と話題になったシーンがあるが(日本ではノーカット完全版で上映される)、ふたりの性愛を描く“あからさまな”シーンについても、「見るのと、読むのとでは、感じるものに違いがある」とアッバシ監督は言う。

小説では想像するしかなかったものまですべてを映像化し、観客に「見せる」。ここで、観客に突き付けられるのは、究極の他者性だ。小説を読むときと違って、観客は、ぼかしたり、勝手に美化したり、自分の馴染んだものにひきよせて好きに思い描いたりすることは許されない。映画は、どうだ、見てみろ、受け容れられるか、本当に受け容れられるのか、他者というのは、「多様性」というのは、こういうことだぞ、と迫ってくる。

アリ・アバッシ, ボーダー
©Meta_Spark&Kärnfilm_AB_2018

アッバシ監督は、映画に対する「愛=あからさまな明示性」と「憎=解釈・定義の規定」を超えて、映画という媒体の「とてつもない可能性」を引き出したのだ。

インタビューの最後に、「ぼくは『ゴジラ』が好きなんだ、原爆に対する怒りや哀しみといったあらゆる感情を表現している。だから、ただの怪獣映画になってしまっているハリウッド版『GODZILLA』じゃ、だめなんだ」と言っていたアッバシ監督。

次回作は「まだ秘密」だが、二作ほど構想を練っており、ひとつはアメリカ、もうひとつはイランの政治が関係してくることになりそうだと打ち明けてくれた。今後も、映画の力を最大限に引き出し、現実と幻想の「架け橋を構築」していってほしい。

『ボーダー 二つの世界』は、10月11日(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町・ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国ロードショー

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Ali Abbasi