「シネフィル的な価値観から全力で逃げた」:『よこがお』深田晃司監督interview

『淵に立つ』で世界を驚かせた深田晃司による待望の新作『よこがお』が現在公開中。思わぬ裏切り、復讐、激化するメディア報道──。「個をとりまく世界」に関心があるという深田監督が、本作に盛り込んだテーマや創作術、複雑なものを複雑なまま描くことについて語った。

by Shinsuke Ohdera
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22 August 2019, 10:36am

2016年、『淵に立つ』でカンヌ国際映画祭「ある視点」部門審査員賞を受賞し、世界から最も注目される日本の若手映画作家の一人となった深田晃司の新作『よこがお』が公開された。

誘拐事件をきっかけに、自らは何の罪も犯していない平凡な女性が事件への関与を疑われ、思いも寄らない人生の変転を経験する物語だ。ロカルノ国際映画祭に正式出品され、主演の筒井真理子や市川実日子、池松壮亮らの演技も賞賛されている。

深田監督がこのヒューマンサスペンスに込めた意図はどのようなものだろうか。その映画的なバックグラウンドや映画作家としての立ち位置など、大きな視点から話を伺った。

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(c)2019 YOKOGAO FILM PARTNERS & COMME DES CINEMAS

——深田監督からお話を伺うのは初めてなので、基本的なところから質問させてください。監督は子供時代からの映画ファンですか?

深田晃司:父親が大変な映画好きで、3倍モードで録られたVHSビデオが家に600本とかありました。それを見てましたし、映画専門ケーブルチャンネルにも早い時期から入っていてくれたので、中学生時代から沢山見ていました。映画館には小遣いが少なくてあまり行けなかったですね。大学に入ってからは自分でバイトして名画座にもひたすら通いました。その頃、おそらく一番たくさん映画を見ていたと思います。

——映画以外の趣味はどうでしょう?

深田:ゲームやマンガ、小説など一通りはまりました。多趣味だったと思います。ゲームはやりまくってましたね。映画ファンの友達は少なくて話が合わなかったですが、ゲーム好きの友達が沢山いたことも大きかったです。テーブルトークRPGなども友人たちと集まってやってました。テレビゲームも、スーファミやプレステまではやってました。

——深田監督というと、演劇というイメージがありますよね。

深田:自分では演劇詐欺と呼んでます(笑)。2005年に劇団〈青年団〉に入って、今でも現役の演出部所属という扱いです。そこから、自分の作品について良い意味でも悪い意味でも演劇畑の人だからって語られることも多いのですが、実は演劇は今まで一本もやったことがないんです(笑)。もともと重度の映画好きを拗らせていて、山田宏一、淀川長治、蓮實重彦といった人たちの映画評論も熱心に読みました。そこから、こうしたシネフィルにありがちな傾向として、映画以外の他ジャンルを下に見る、とくに演劇を下に見るという傾向がありました。だから、演劇的と言われると何か侮辱された気分になったこともありましたし、正直言って嫌いでしたね。

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深田:ところが、映画美学校を出た後の2004年頃に青年団の芝居を何本か見たところ、これがメチャクチャ面白かった。これまで自分が抱いていた演劇のイメージとは全然違っていました。俳優たちは誰も大声で叫ばないし、本音を語らない。にもかかわらず、彼らが何を感じているか、考えているかが確かに伝わってくる。これは自分が好きだったエリック・ロメールや成瀬巳喜男らの映画とも通じる世界だなと感じました。しかもそれを、現代日本の口語でやっている。その当時一番洗練された形でやってるのが青年団の芝居だったと思ったんです。そこで、留学するような気持ちで入りました。面接時には、演劇やりたいですって言わないと落とされるように思ったので、舞台も演出してみたいですって言ったんですが、その後15年間、結局これまで一本もやってないです(笑)。

——アラン・レネの言葉ですが、映画でも演劇でも会話がとても重要であり、人と人が話しているとき、そのやりとり自体が面白い。そこで何かが伝わったり伝わらなかったりするが、観客にはすれ違いや齟齬も含めたその全体が見えることに面白さがある。それは映画も演劇も全く変わらない。むしろ映画には演劇から学べるところがまだまだ沢山あるのではないかと思います。

深田:私が通っていた映画美学校というところはシネフィルが沢山集まる場所で、年間1000本見るとか、ものすごいレベルの映画ファンがいたりします。でも同時に、そのシネフィル的な空間が閉鎖的でタコツボ化している感じはありました。シネフィルたちが言う映画的快楽といったものが、とても閉鎖的なものに見え始めた。例えばブレッソンは、彼の時代の演劇を批判し罵倒しました。でも、その頃から演劇は大きく変わっています。にもかかわらず、演劇を下に見て馬鹿にするという態度だけがその後も更新されず、シネフィルの間で受け継がれてきたのではないかと感じます。今から思うと、こうした態度や枠組みを超えたいという気持ちもあって、演劇の世界に近づいたような気もしています。

——映画的快楽として語られる対象やその語られ方は、いつしかある程度パターン化されました。個人的な趣味と不可分になっている側面があるように感じますし、刺激を欠いた誰かの真似事にしか見えないことも増えてきた気がします。その一方で、人と人が話すことや、そこで人間が考えることの面白さはまだまだ映画で汲み尽くされていないのではないか。

深田:例えば蓮實重彦さんの時代からの映画と映画批評に関する傾向だと思うのですが、映画ではいかに語るかとかアクションとか活劇といった方向にばかりシフトして、何を語るかとか、いわゆるヒューマンな内容、何より作家自身の世界観、社会との地続きな感覚がやや等閑視されてきたように思います。映画業界全体の状況とは違うかも知れませんが、シネフィル周辺ではとても影響力の強いものでした。もちろん、そういった映画観に自分もとても影響を受けてきたのですが、一方でこうした傾向が生み出した閉塞感は大きかったように感じます。映画を見るのは結局は人間で、カメラは世界に向けられている。何にカメラを向けるか、そこにある社会や歴史も含めどう捉えるか、また観客自身の想像力や内面に対しいかにスクリーンを開くか、つまりは心とは何かという問いかけですが、それも当然映画の大切な一部です。

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深田:にもかかわらず、例えばアクションや画面の映画的快楽やジャンル的な快楽、それらの中で抽象化されたエモーションばかりが追求されると、映画が本来語ることのできる複雑さが良くも悪くも単純化されてしまう。複雑なものを複雑なまま見せることができない、というか、見せようとしない。こうした弊害を感じることが、2000年代の日本映画を見ていると非常に多かったですし、不満に思いました。自分が作る映画は、だからこそシネフィル的な価値観から全力で逃げて、そこで欠けていたものを描こうと試みることが多いように思います。

——この話は、そのまま『よこがお』という作品の特徴に通じていきますね。この映画の一つのテーマとしては、ある事件に対してマスメディア的な分かりやすい単純化が消し去ったり押しつぶしてしまう人間や人間関係の複雑さを複雑なまま描こうとした作品だと言うことができますでしょうか?

深田:はい。その一つの括り方にはしっくりきます。

——『よこがお』というタイトルも、そうした意味ですか?

深田:このタイトルについては、最初、新聞に載った主演の筒井さんの横顔がきれいだったことがあり、プロデューサーと盛り上がって、そのまま勢いで『よこがお(仮)』としていました。ただ、脚本を書いていくうちに、横顔というのはちょっと不穏さもあって人の二面性を感じさせるんじゃないかと。それに加えて、やはりタイトルの呪縛というものがあって(笑)、『よこがお(仮)』という仮題で撮影を進めていくと、自分でも明確に意識しない間に気がつくと横顔ばかり撮っていました。その段階で、これはもうこのタイトルでいくしかないな、と。

——現在と過去、そして数年後の物語が描かれますが、とりわけ前半では現在と過去が平行して進み、市子(筒井真理子)の髪色・髪型だけで両者が区別されるなど、シンプルでありながら複雑で興味深い構成になっています。単純な回想形式ではないですね。

深田:単純な回想形式では、物語が死んでしまうと思っています。好きではないです。この作品の場合、現在と過去という二つの時間軸をあたかも等価に描くことで、市子という人物を二重に見せることができるのではないかと考えました。あと、ミラン・クンデラの『冗談』という小説を数年前に読み、『よこがお』の物語はそこからインスパイアされた部分が大きいです。復讐に取り憑かれた主人公の現在の姿と、彼が転落するきっかけとなった二十年前の事件を平行して描くという、あの小説の構成を自分でもやってみたいと思いました。

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——髪色でつなげると、映画後半では髪を緑に染めた市子が湖に入っていく幻想なのか現実なのか分からない場面もありました。

深田:あの場面は、実は撮影段階ではリアルな流れを作っていました。市子が美容院を再び訪れ、そこでたまたま見た雑誌モデルの髪が緑だったことから緑にしてくださいと頼むのです。そして湖にオープンカーで向かうという流れですね。ただ、あまりに律儀すぎて面白くないと思ったので、編集段階でばっさりカットして、あれは現実にああした時間が市子にあったのだと考えてもらっても良いし、すべて幻想だと考えてもらっても良いという扱いにしました。

——湖の後、辰男を刑務所に迎えに行く場面ではすでに市子の髪は黒に戻ってますね。湖の場面だけが緑で、市子は湖のなかに入っていく。普通に解釈すると、あれは浄化のイメージだと観客はとらえると思います。

深田:ええ。そうですね。

——こうやって流れから切り出しちゃうと記号的になってしまいますが、他にも、例えば復讐に取り憑かれた現在の市子は赤いコートを着ている。一方、過去の彼女は白いコートを着ていた。ところが車に赤いペンキをかけられ、それが手に着くことでコートも赤くなってしまう。こうした赤などの色の使い方は、明らかに彼女の心理状態とパラレルです。色彩を通じた映画の語りや展開もあったように思います。

深田:あれは100人のお客さんのなかで1人でも気づいてもらえればいいやって感じで撮りました。映画のリアルというものは、街中にビデオカメラをポンと置いて回せばそれだけで撮れるわけではありません。虚構のなかのリアルを作るというのが自分は好きですね。たとえば宮崎駿も、主人公の服色の変化だけでその置かれた立場や状況が表現されていると言われます。観客には一切説明されないんですが、視覚表現だけで色々理解できるものがある。こうした手法が好きですね。

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——市子が髪色を変える映画冒頭の美容院の場面では、ガラス扉の向こうから彼女が入ってくるという描写も印象的です。大きなガラス窓や扉が、この作品ではモチーフとして繰り返されていました。

深田:これは映画的に好きな表現という部分だと思いますが、フレーム内フレームというのが単純に気持ち良いと、中学生の頃からずっと考えていました。ヨーロッパ映画などで扉がいくつも連なった空間を人が歩いている。たったそれだけで、なんでこんなに気持ちいいのだろうと思っていました。

——窓の場面では、基本的に外か中に誰か人がいて向こう側の世界を覗き見る形になっています。誘拐の被害者となるサキが喫茶店の窓を外から叩き、辰男のターゲットになる場面が代表的ですね。ところが、終盤では誰もいない空き家の中から、まるで空き家そのものの視線であるかのように外にいる市子たちを見るという異様なショットがありました。

深田:あれは、過去と現在の時間の隔たりのようなものだと考えています。窓というモチーフでは考えていなかったですが、今聞いてなるほどなと思いました。自分にとって映画における窓の原体験というと、ビクトル・エリセの『エル・スール』なんですね。あの作品では、娘が喫茶店にいると父親が外に立っていてガラス窓を叩く。それが単純に気持ちいいというのもありますが、窓というものを一つ挟むことでそこが劇的な空間になり、奥行きが生まれます。窓を挟むことで娘の時間と父親の時間が分離され、それぞれ孤独な存在であることも見える。別々の時間が重層的に重なって見えると思うんです。『よこがお』でも、同じ効果を狙った部分があると思います。

——この作品では、市子と基子(市川実日子)の関係が最も中心にあるように感じます。市子はある事実を隠すことで、訪問看護先の家族に対しやましさを持つようになる。一方、彼女の弱さに荷担した基子は、市子に対して愛情を秘めており、そこには別のやましさがある。二人のやましさは共犯関係のように事態を悪化させたように見えるし、基子の感情的爆発が市子を窮地に追い詰めていくことから、基子は市子のやましさが他者に投影された存在であるようにも見える。監督は、この二人についてどのようにお考えですか?

深田:あの二人は共依存の関係に近いかなと考えています。本来、訪問看護師が相手先家族にあそこまで関わることはタブーであり、ありえないことです。ただ、実は市子の側にも基子を妹のように考えていたという事情がありました。そのあたりは、脚本では書いてましたが完成した映画からは省きました。

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深田:基子にそそのかされなければ、市子はもっと早く真実を明かし、事件はずっと小さく終わっていた可能性もあります。しかし基子は市子に対して親しみ以上の感情、恋愛かも知れない感情を抱いており、だからそれを隠してほしかった。自分のそばに残ってほしかった。市子としても、それを言い訳につい本当のことを言わずにすませてしまった。こうした共依存関係があったからこそ、市子の人生が大きく変容した後、彼女は基子につまらない復讐を果たすことだけを支えに生きることになったのだと思います。

——市子と基子が公園で話す場面では、背後にある街灯のせいで基子の顔に暗く影が落ちており、よく見えないのが印象的でした。

深田:あれはつげ義春の漫画などでも良く見かける、昔から好きな表現で、『歓待』の頃から何度も脚本に書いていました。ただ、なかなか条件が揃わなくて成立せず、今回初めてちゃんとやれた感じです。誰かの顔がよく見えないことで、いきなり場面に不穏な空気が流れたり、二人の関係性に謎が生まれたりします。あの場面では、他人の心はブラックボックスだという意味で、映画に余白が生まれる効果を狙っています。撮影や照明などのスタッフには小津安二郎の『浮草』を見てもらって、これをやりたいんですと伝えました。『浮草』には、二人の人間の切り返しの中で一方の顔が暗くて全く見えないというとてもアバンギャルドな描写があるんですよ。

——基子が何を考えているか分からない不穏さは、この作品の転換点となる重要な場面に繋がっていきます。それは横断歩道の場面です。ここで基子は市子が結婚することを知り、その後、一方的な恋ごころが裏切られたという怒りからマスコミに密告することになります。その場面で、基子は赤に変わりそうな横断歩道を渡るのですが、市子は渡らない。これはとても象徴的だったと思います。信号が赤に変わりそうなとき、市子は渡らない側の人間である。

深田:そうですね。彼女はブレーキをかけるタイプの人間だと思います。自分は結構渡っちゃったりするんですけど。あの場面では、二人の性格の違いを際立たせることと、あと二人の間に距離を作ることを考えました。その前にある動物園の場面で二人を最も親密に近づけた後、ここで一気に遠ざけることで、その後の結婚の話へと繋がっていく感じです。

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——横断歩道の場面は終盤でもう一度繰り返されます。このとき、二人の境遇はほぼ真逆に入れ替わっています。赤信号で渡らないのが市民社会のルールであるとすると、市子は本来その内部で生きており、外に出たいと思わないタイプの人間だと思います。一方、基子はそこまでルールに縛られてきたようには見えない。赤に変わりそうな横断歩道でも平気で渡る。ところが運命の皮肉で、市子はそれまでの生活を失い、市民社会のなかに留まることさえ苦労する。基子の方は、今では逆に市子の仕事だった看護師をしている。彼女のポジションを奪ったようにも見えます。

深田:市子にとっては、変化すること自体が苦痛だったのですが、でも本人が望もうが望むまいが人は常に変化に晒されてしまう。彼女も例外ではなかった。それに対し、基子はそもそもニートのような生活を続けてきた「持たざる者」です。彼女の方が変化を望んでいたと言えるでしょう。たとえば市子を手に入れたいとか、そうした部分を含め変化を受け入れる素地が彼女にはあったのかもしれません。

——深田監督個人として、この二人に対するパーソナルな距離感ってどんな感じでしょうか?

深田:さっきは不穏さという表現を使いましたが、実は基子の嫉妬心や感情は個人的にすごく理解できます。マスコミにリークしちゃうのも、彼女に初めから計画性があったわけじゃなく、感情が高ぶってついやってしまった感じですよね。後で後悔する部分を含め、自分としては親近感が湧く存在です。ある意味、市子以上に人間らしいキャラクターとして感じられるように思います。

——ラストシーンの解釈は観客に委ねられているように思いますが、画面や音響の印象からは、やはり後悔や無念さの方が強いのかなという気もしました。

深田:ここの解釈は本当に人それぞれで、見た方の判断に委ねたいと思っています。全く意見が違っているのが面白いですね。自分としては、あれはやはり諸行無常というか、運命が変転するなかで、色んな思いや後悔の積み重ねがあったとしても、結局のところ人はそれぞれの時間の流れの中に生きていかざるを得ないという気持ちで描いたように思います。

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——諸行無常というのも、ある意味で市民社会内部の考え方だと思います。この世は残酷であり、すべては変化し続ける。そうした社会への批判や悲しみ、諦念を含みつつ、やはり自分はその内部にいる。そこで生まれてくる感慨ではないでしょうか。私自身もこうした考え方をすることが多いですが、『よこがお』全体の印象を含め、深田監督にはそうした傾向が強いのかなと思いました。その前提に立ったとき、この作品で市民社会に対置される存在として動物というモチーフがあるのではないかと思いました。一つは、市子が夢の中で犬の真似をする場面。そしてもう一つは、動物園の場面です。犬は人間のようには考えない。彼らの理屈で吠えたいときに吠える。動物園のサイもまた、彼らの理屈で勝手に勃起する。でも、例えばそれを人間の家族が見ると、子供の前で少し気まずかったりする。そこで、私たちが生きる市民社会の理屈が露呈します。

深田:市民社会と動物との対置というのは、今聞きながらなるほどと思いました。人間とは何かと考えたとき、半分は社会的存在ですが、残りの半分はやはり動物なんだろうと思います。人間はやはり動物の延長でしかない。そうしたとき、物語のドラマツルギーで善人が報われ悪人が罰を受けるという考え方は、どうにも人間的だし人工的でしかない。あるいは、恋愛にロマンチックな感情を抱くのも完全に人間的な発想で、私たちはそこにすごく縛られている。こうした人間的物語を一度動物的観点から見直すと、覆されるものが沢山あると思います。

——復讐のみが生きがいとなった市子は犬になる夢を見ますが、彼女自身は「犬の夢を見る人間」「犬になる恐れを抱く人間」であり、「犬そのものとなる人間」ではないと思いました。犬や動物的なものと接することで、亀裂や揺らぎが人間の側に生まれる。彼女はあくまでそちらの側の人ではないか。『よこがお』から少し離れ、大きな問題の区分けとしてお聞きしたいのですが、深田監督はこうした人間社会の側の問題に、より大きな興味を持つ方ではないでしょうか。

深田:例えば人生が無常であるとか、生きることの意味は何かとか、死ぬことが怖いとか、こういう気持ちは人間にとってすごく大きな問題だと思います。一方、大抵の動物は基本的に人間と同じようには死を認識しているわけではないと言われます。時間的感覚として概念としての死を意識するのは人間の特性であり、それを持つことで様々な人間的概念や思考が生まれる。人生に意味を見出そうとするし、その意味を喪失すれば精神の危機に晒される。人間が動物的感覚から離れたことで得たものがあれば、逆に失ったものも沢山あると思います。

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深田:人間の得た「知恵」は先天性の病のように人間に恐怖と不安をもたらしている、とも感じます。しかし、人間が動物に戻れるかというと、これもまた不可能である。だから人間が人間として生きていくなかで、人間とは何かという問題を明確に描くためには、やはりその外部にあるもの、動物や自然についても描くべきなのだろうと自分は考えていますね。

——芸術や映画を作るって、ある意味で動物になる瞬間が存在するじゃないですか。信号が赤なのに横断歩道を渡っちゃう。人間としての自分の死を生きるとか、自分が他者になるとか。こうした側面があるように思います。それに対し、深田監督はそうした他者と触れ合う人間社会の側にむしろ重心がある方なのかな、と。

深田:なるほど。自分が描きたいと思っているのは、たぶん動物になっている人間そのものではなく、そうした人を含めた全体なのだろうと思いました。そこには動物になれない、あるいはなりたくない、なろうと考えもしない人たちがたくさんいて、そうしたすべてをひっくるめた世界全体を見せたいのだと思います。動物になっている人間だけにフォーカスを合わせると、見えなくなってしまうものがこの世界には沢山ある。だから、個を描くときもそれと同じぐらい個をとりまく世界の方に自分は関心を持っているように思いますね。

映画『よこがお』全国公開中

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