MOMENT JOON 自伝的小説「三代 兵役、逃亡、夢」完全版 1/6

文藝×i-D Japan。創刊以来86年ぶりの3刷を記録した「文藝」2019年秋季号の特集「韓国・フェミニズム・日本」に掲載され話題となった、ラッパーMOMENT JOONによる自伝的小説「三代 兵役、逃亡、夢」。誌面では未収録だった〈後篇〉も含めた完全版を公開!

by Moment Joon; photos by Syuya Aoki
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18 September 2019, 7:00am

本作は「文藝」2019年秋季号に掲載されました。

俺は韓国人だ。韓国で生まれて、韓国語が母語で、日本語でラップをする。取材で「なぜ日本に来たか」「なぜ日本で音楽をするのか」はよく聞かれるけど、「そもそもなぜ音楽を始めたか」までは聞かれない。
音楽はいつも自分の逃げ場だった。太っていて背も低かった思春期の、体からの逃げ場で、受験に縛られた高校生活からの逃げ場だったし、大学進学が人生の全てだった高校では「要らないもの」にされていた自分のクリエーティビティの発散だった。といっても、当時の自分の音楽はただ精一杯叫んだだけに過ぎず、「大学」という皆が歩いてる道を拒んでまで、音楽を自分の道にする勇気はなかった。
だから俺は逃げた。日本が逃亡先だった。「外人」に期待されるものに乗っかるか裏切るかの問題は、日本に住む全ての外国人の宿命だ。韓国社会からの圧力を後ろにして日本に来たら、ここでは新しい縛りが待っていた。日本は一瞬も俺が外人・韓国人であることを忘れさせない。人間の金範俊(キム・ボムジュン)が音楽を始めた理由より、外人・韓国人のMoment Joonが日本で音楽をやる理由を先に知りたいのは、だからだろう。
日本で音楽をやる理由は、もう逃げる場所が無くなったからだ。俺を縛ってる文化・歴史・目線・環境の全てが、今の自分では解決できないぐらい重くて息苦しいけど、だからと言って十九歳の自分みたいに他の国に逃げられる訳でもない。最後の最後まで追い込まれて自分が知ってる唯一の方法で世界に向けて叫んだら、反応があった。俺の音楽を聴いてくれる人々が居て、俺の動きを見てくれる人々が出来た。自分の声でお金が回るし、声だけじゃ聞けない話が聞きたいから文章で書いてくださいという依頼も入ってきた。逃げる場所が無くなってやり出したことで、もう逃げなくても良いように、状況は、少しずつ変わっている。

でも逃げ切れないものがある。父だ。父は、俺が学生だった時は良い大学に行かない人は人間扱いしない学歴偏重社会の、俺が軍隊にいた時はその暴力的な文化の一部になれない人は見下す男性社会の、俺が二十代後半になった今は歳に合わせた生き方や業績がない人は負け犬に思う、いわゆる「社会」の代弁者だ。学校が、軍隊が、社会が俺に言ってくることは、全て父から何年もかけて言われたことの延長に過ぎない。
貧しい田舎から上京して、中産階級の生活を自分の手で作りあげた父に、「生存」ということはちっぽけな夢やプライド、もしかしたら愛にも優先するものなのかも知れない。これが組織のルールと文化に逆らうとその生存すら出来ない時代を生きてきた父の人生観だ。俺は、「生存」より「自分らしく生きる」ことに憧れていたにもかかわらず、残念ながら自分の世界観は父から継承されたものと大して変わってない。
父の世界観も、きっと祖父から受け継いだものだろう。北朝鮮出身で、ちゃんとした教育も受けず、屠畜で八人家族の生活を背負わなければならなかった祖父。パイロットになりたかった父の夢は、俺の音楽への夢とは違って結構早めに「生存」に居場所を譲っていた。父は、悔しくなかっただろうか。自分の環境を、少しも憎まなかっただろうか。「共産主義者の息子」と言われるたび、祖父の歴史から逃げられないことに、一度も絶望しなかっただろうか。

以上の全てを背負って、今の俺は生きている。日本・韓国・逃亡・夢・歴史・生活・愛・憎しみ、全てが混ざり合って何が何なのかよく分からないまま。いつか父にこれを読ませる日が来るだろうか。父は、これを読んだら何を思うだろうか。家族の歴史を安く売ったと俺を非難するだろうか。それとも、また逃げてると言うだろうか。全てを背負う覚悟をした今も、俺は何かに追われている気がする。逃げないと決めたのにまだ追われているなんて、一体どういうことだ。

「日本は寒くないかい?」
仁川(インチョン)はマイナス一度まで下がったそうだ。中国からの黄砂も酷いらしい。
「飯はちゃんと食ってるか? 入社一年目のやつがひょろひょろして元気ないと上司に可愛がってもらえないぞ」
入社なんかしてない。飯をちゃんと食べてない部分は事実だけど。
「ちゃんと食べてますよ。名刺の写真送ったけど見れた?」
ずっと前から新しい会社の名刺が見たいと言われて、もう逃げられなくなったからネットで画像を拾って捏ちあげた名刺。通ってない会社の存在しないオフィスの住所。これで父は安心するだろうか。
「見れた見れた。会社員なんか絶対になれないって言ってたけど、何とか出来てるんじゃないか。それでビザも取れたし」
もう一年以上電話するたびに同じ内容の話だ。そのたびに本当のことが言いたくなる。言えないけど。
「音楽がやりたいっちゅう、バカな話を聞かなくなって俺と母さんは何よりよ。そもそもそのラップってのはまともな音楽じゃないのさ。お前は背が低いから人の前に立つなんて──」
「別にどうでもいい話でしょ、もうやめたって言ったし」
音楽はやめてない、就職なんかしてないと素直に言ったら、父とは一生話せなくなるかも知れない。それでも何でこんなに言いたいのか。「家族だからいつも本当のことを言わなきゃ」みたいな、僕の彼女が言いそうな倫理的な理由があるわけでもない。もしかしたら、内心一生話せなくなってほしいのかも知れない。歪んだ復讐心で、父の世界をぶっ壊したいのかも知れない。
「それなら安心よ。で、どうした? 何でいきなり軍隊の話なんだ? 軍隊話、逆に嫌いだったんじゃなかったか」
息を吸い込む。
「あの──」
止めちゃいけない。
「父さんが軍隊にいた時に──」
聞かなきゃいけない。
「父さんのせいで誰か死んだって話、なんだったの?」

北朝鮮にいた祖父が徴兵で連れていかれたのは一九五〇年の春だった。若者たちを戦線に送るソ連製のトラックが村に入る前に、祖父は村の他の男たちと急いで山に逃げた。生まれたばっかりの子供(父には腹違いの兄になる)と妻を家に残して、祖父は共産党の目をかい潜って二日間も洞窟に隠れていたそうだ。数日後に銃を持った兵士たちに捕まって捕虜みたいにトラックに乗せられた祖父に、妻と子供に別れの挨拶をする時間はあっただろうか。父と父の兄弟たちは北の腹違いの兄の名前ぐらいは知っているようだが、祖父は亡くなるまで北に残る妻と子供の話は極力避けていた。

その後、一九五〇年六月二五日に朝鮮戦争は始まったが、祖父にとって戦争というのはまだ肌では感じられない距離にあった。開戦直後、驚くほどの速さで南進した北朝鮮軍によって韓国の領土は次々と占領され、祖父が駐屯したのは戦線からは遠い朝鮮半島西南部の平和な村だった。戦どころか、それまで銃も一度も発砲していなかった祖父は、もうすぐ戦争が終わって故郷に帰れると仲間たちと期待していたそうだ。
朝鮮半島の北の端っこ、シベリアから極寒の風が吹いてくる鴨緑(アムロク)江沿いの小さい村の出身の祖父は、その夏、南の暑さにやられて初めて熱中症になった。でも体調を治した後は生まれて初めて海魚が食べられて嬉しかったそうだ。銃を持ったとはいえまだ戦争がどんなものか分からなかった北の青年たちは、占領軍みたいに住民たちから食料を徴収するのが申し訳なく、自ら住民たちの農作業を手伝っていたそうだ。まだ人民裁判も、パルチザンも、血で血を洗う左右の仕返しも知らなかった祖父の平穏な夏は、一九五〇年九月一五日にマッカーサー率いる米軍が韓国の仁川に上陸して終わった。長い逃亡の始まりだった。

父が入隊したのは一九八三年の春だった。家族の中で初めて一人で上京してソウルで大学に通っていた父は、わざわざ送りに来る必要もないと親に言い切って、入隊日にただ一人で訓練所に入ったらしい。いきなり軍服と銃を渡された祖父の場合とは違って、父にとって軍服や銃は見知らぬものではなかった。それは彼がそれまで受けてきた教育の一部だった。
父は一九六二年に生まれた。その一年前に、当時陸軍少将だった朴正熙(パクチョンヒ)が、戦前の日本の二・二六事件をモデルにクーデタを起こして、民主政府を倒して「共産主義から国を守る」ための軍政を敷き始めた。軍政が終わって大統領になった朴正熙の肖像画が揚げられている教室で、小学生の父は戦前の日本の教育勅語に似た「国民教育憲章」を覚えさせられた。数年後、野党側の政治家たちが活躍することに危機を感じた朴正熙は、明治維新を参考に「十月維新」を展開して、韓国を兵営国家に変えた。太平洋戦争の時にあった学校教練が韓国で復活して、全国の高校では予備軍の将校たちが「先生」の腕章をして生徒たちに軍事教育を行った。週に二回、制服から安っぽい迷彩服に着替えて、男は基本教練と銃剣術を、女は救急処置などを教えられた。暴力と体罰、迷彩服と木銃が父の高校生活だった。
一九七九年、朴正熙が暗殺されると、またクーデタを起こして権力を手に入れた新軍部は、韓国の兵営国家化を更に強めた。学校教練は大学にまで拡大された。そして「三清(サムチョン)教育隊」という強制収容所が作られて、令状もなしで民間人を逮捕して収容した。前科者・ホームレス・非正規労務者・宗教人・ジャーナリスト・政治家・大学生や高校生まで、新軍部の目に「まともじゃないやつ」と映る人間は誰でも三清に連れていかれた。父が大学で付き合っていた友達も、学生運動が原因で連れていかれた。道徳と常識は沈黙を強いられ、軍と暴力が社会の首を掴んでいた時代に、父は入隊した。

僕が入隊したのは二〇一二年四月二日だった。通っていた大阪大学の教務課に休学届けを出して、寮の部屋を解約し、友達のワンルームに荷物を移して韓国への帰国を待っていた三週間。残った期間、日本で何をすれば良いか分からないまま、時間は過ぎていた。好きだったラーメンも、カルビーのポテチも、口に入ったのかどうか分からないぐらい無感覚な時間だった。泣きながら僕を見送る人も、待ってると言ってくれる人もいない国。それでも十九歳からの僕を定義する国。飛行機が関西空港の滑走路から離れて日本を後にするその瞬間までも、いや、仁川に着いて実家に向かう車の中でも、まるで全てが他人事みたいな感覚だった。自分なりの強気だったのか、それとも全てを否定するための防衛本能だったのか、分からない。
入隊が他人事じゃなくなったのは、入隊する前の週、家族との食事の時だった。お母さんの質問に無意識に【そう、そう】と日本語で答えてしまった時、父は怒りか心配か良く分からない表情で溜め息をつきながら「お前、それで入隊したらそのまま食われちゃうぞ」と言い放った。それまでは夏休みとかに実家に帰って時々日本語が出ても、一度も何も言われなかった。留学ですっかり忘れていた父からの圧力が、あるいは韓国社会の圧力か──僕の体の中で蘇ってきた。背中を圧迫する何かを感じながら、僕は鏡の前で自分でバリカンで髪を剃った。
入隊する前に父から助言か警告のようなものを何回も聞いたけど、良く覚えていない。生理的に父の説教を受け付けるのは無理だった。ただ聞いてるふりをしていた。父の説教は、韓国社会を先に経験している男としての彼の権威を改めて確立する一方、いつも親をがっかりさせるばっかりの男らしくない逃亡留学生の僕が今いる位置をもう一度はっきりさせる。息子に対する愛情と、その息子を自分が望む方向に引っ張りたい父の欲望がゴチャゴチャになっていた。だが、たとえ父のアドバイスを真面目に聞いたとしても、その時点では、僕が入隊してから経験したことに対して心の準備なんかが出来たはずがない。

四月二日、まだ地面に雪が残っていた寒い春、家族と別れて僕は訓練所に入った。同じ年代の若者たち皆が、私服は着ているけれど同じ髪型をしていた。僕もそこに並んで、皆と同じ顔と髪型をしていた。教官の指示に従って兵舎に向かう時、ちらっと母の顔が見えたが、前に進む行列が速すぎて何か言うことも出来ず、ただ手を振った。
兵舎のホールの床に座って、一人ずつ名前が呼ばれたら前に出て一列に並んだ。列に並んだ順番どおりに各部屋、いや、内務班に入った。中では教官が僕らを待っていて、全員揃ったのを確認した教官が内務班のドアを閉じて説明を始めた。これからは君たちは名前ではなく各自の番号で呼ばれる、と。僕の番号は166番だった。左の胸に166と書いてある訓練用の軍服に着替えて、入隊時に着ていた私服と靴は教官から渡された箱に入れて、箱の上に166番と書いた。教官が大きい声で「166番!」と僕を呼んだ時に、僕は「は、はい!」と日本語で答えてしまった。それが僕の四週間の訓練の始まりだった。

朝鮮戦争開戦直後に南の釜山(プサン)に逃避していた初代韓国大統領の李承晩(りしょうばん)は、釜山まで陥落されることに備えて日本の山口県に亡命政府を立てる計画をGHQに提案した。全国各地からの避難民が集まって釜山は文字通りの修羅場になった。もうすぐアカのやつらに国が乗っ取られるという絶望が都市を覆っていた。しかし、それでもまだ諦めずに戦っていた人々もいた。恐ろしい勢いで南進を続けていた北朝鮮軍は、釜山から約百キロ離れた洛東江付近で韓国軍の激しい抵抗にあって、進撃は止まった。中高生たちまで戦線に向かった。祖父たちの希望とは違って戦争は終わらずに戦線は固着したが、祖父と仲間たちはまだ北朝鮮の勝利を信じていた。開戦直後の北朝鮮軍の連勝が強く印象に残っていた北の青年たちは、状況を楽観視していた。もうすぐ故郷に帰れると。その戦争が三年も続くとは、誰も予想できなかった。

一九五〇年九月、米軍と韓国軍を中心とした国連軍が神戸や横浜などから出発し、韓国の仁川へ向かった。マッカーサーは、首都のソウルに近い戦略的要地の仁川を奪還することで、不意を打って北朝鮮軍の腰を折り、戦況をひっくり返せると信じていた。九月一五日、米海軍の沿岸砲撃の後に二万五千人の国連軍が上陸し、仁川は陥落した。大韓民国を救ったと言われる仁川上陸作戦だった。祖父の戦争が始まったのもその作戦からだった。

莫大な物資と兵力を持った仁川の国連軍を止めるために、洛東江付近の北朝鮮軍の主力部隊は急いでソウルに撤退し、その後ろを韓国軍が猛烈に追撃した。朝鮮半島の南の端っこに駐屯していた祖父の部隊は、このままだと韓国軍と米軍に完全に囲まれるという、全滅の危機に瀕した。平壌からの指示も命令もなく、兵士たちは動揺した。逃げ道が完全に断たれる前に北に逃げきらないと皆死ぬ。飯も食わずに、寝ることも出来ずに数百人の北の青年たちは急いで北へ向かった 。
何日間かの必死の強行軍の後、祖父の部隊はやっとソウルにたどり着いた。祖父はソウルにさえ着けば平壌へ向かう汽車に乗って簡単に北朝鮮に戻れると思ってたそうだ。しかし、祖父の部隊がソウルに着いた時点では、もはや国連軍の進攻が始まっていた。祖父の頭の上に米軍機が現れ、機銃掃射の弾丸が兵士たちに飛んできた。初めて目の前で人が殺された衝撃を感じる暇もなく、次は米軍の迫撃砲弾が飛んできた。祖父の部隊はまた走り出した。銃を持った人間の姿の敵ではなく、戦闘機と砲弾が祖父と仲間たちを殺した。後に僕が生まれることになるソウル北部の蘆原付近に祖父の部隊が着いた時は、最初三百人弱だった部隊員のうち、数十人しか残っていなかった。

僕が父の軍隊服務について知ってることはごく断片的だ。史料などを使ってある程度は検証が出来る祖父の話と比べて、父の軍隊生活の話は全て父本人の言葉以外からは確認出来ない。
僕が知っていることは以下の通りだ。一九八三年の春に入隊、第103補充隊で身体検査を受けて第27歩兵師団に配属。勤務先は華川(ファチョン)で、二百四十八キロにわたる鉄柵が設けられている休戦線沿いで父は服務した。
父の部隊は一年間は周りに民家とかもある普通の田舎に建てられた兵舎で生活するが、その後六ヶ月間は鉄柵勤務に入る。鉄柵勤務とは、数キロメートルの鉄柵の見回り・警戒・整備などを含む勤務で、鉄柵勤務に従事する部隊は社会から完全に孤立された前哨基地に移動して生活する。外部との連絡手段は、電話は無し、手紙は月に一回もらえるかどうか。その六ヶ月間は外出・外泊も無し。
平日と休日の区分も、昼と夜の区分もなく、どんな時間帯・気候・状況であっても自分の出番になると鉄柵の見回りを始める。二人か三人が一組になって前哨基地を出発し、鉄柵を点検しながら徒歩で約一時間離れた哨所(ポスト)へ向かう。そこで警戒態勢のまま北朝鮮と韓国の間の無人地帯の軍事境界線(DMZ)を監視する。それが五時間、長い場合は六時間も。尾根筋にあるポストまでの厳しい道を、夏なら最高三十九度、冬はマイナス十七度にまで下がる気温に耐えながら二日で三回往復するスケジュール。基地に戻ってきたら死体みたいに倒れて寝るしかないと思っても、色んな整備作業に呼ばれがちで、そのような生活を六ヶ月間、二度もやりこなしたと、父はいつも僕にアピールしてきた。僕が物心ついてから二十数年にわたって飽きるぐらい何回も聞かされた話だ。
父が僕に軍隊の話をする時は、僕に伝えたいある種のメッセージがあることに小さい時から気づいていた。父の物語は、きっとそのメッセージのために再構築されたはずだ。
死ぬほど厳しかったとか、寒かったとか、痛みをどうやって耐えたかとか。でも僕が知りたいのはそういう話じゃない。いつも父の軍隊の話を聞くたび疑問に思ったけど、父の話には、何かが欠けている。上官も、同期も、先輩・後輩の話もない。ただ父一人の苦労話だけだ。父の軍隊の経験談には、他の人が出てこない。

訓練所ではいろんな人々に出会った。外国から来たのは僕一人だったが、みんな全国の色んな所から集まってて、それまでの人生もそれぞれだった。大学を休学して入隊したやつ、コンビニで働いてたやつ、ニートだったやつ、畑を耕してたやつ、もう結婚してるやつまで。四週間という短い期間だったが、毎日何時間も一緒に過ごして厳しい訓練を受ける間に僕らは親しくなっていった。
日本から帰ったばっかりで時々出てきた日本語も、いつの間にか同期たちが一緒に連呼する「流行り」みたいなものになっていて、無意識に【はい!】とか【くっそ】が出てくると、同期の友達がそれを真似した。他の日本語も教えてくれよ、など、訓練と訓練の間のほんの少しの休みで、僕らは出来るだけいっぱいお互いについて聞いて、それまでの人生について話し合った。まるでここに連れて来られたのは自分一人じゃないと、皆は必死で孤独と戦っていた。同期たちのお陰で、行軍も、射撃ももう怖くなくなっていた。
基本訓練期間の半ば過ぎぐらいに、初めて家族に電話が出来る日があった。何台かの電話ブースの後ろに皆が長く列に並んで、わずか三、四分しか許されていない短い通話を待ちながらワクワクしていた。通話が始まって数分後、一人、二人と泣き始めた。そのあと何人か、そしてそのあとまた何人かが。家族と電話が出来たやつらは全員泣きながら内務班に戻って、気づいたら訓練兵の全員が泣きわめいていた。早めに通話が出来て先に内務班に戻っていた僕は、泣きながら次々と戻ってくる同期たちを自分でも泣いてたくせに慰めた。家族の大切さに改めて気づいて皆が感情的になってる最中、誰かが「これって催涙ガス訓練よりも泣けるんじゃないか」と冗談を言って内務班の皆が爆笑した。いつも厳しかった教官たちもその日は一緒に笑ってくれた。同じ徴集兵の身分で、きっと僕らの顔から数ヶ月前の自分たちが見えたのだろう。

途中遅れたり、倒れたりもしたけど、とりあえず無事に最後の行軍訓練まで済ませた訓練兵たちは、自分の配属先の発表を待っていた。全国各地から集まって、また全国各地に散らされる僕ら。バカなやつも酷い奴もいたけど、喉が渇いたらお互いの水筒を貸し合って、腹が減ったら余った乾パンを分かち合って食べられるやつらだった。配属先発表後に軍用駅でそれぞれの配属先へ向かう列車に乗って、窓から手を振りながら後でFacebookやEメールで連絡しようと僕らは叫んでいた。
僕の配属先は江原道(カンウォンド)の楊口(ヤング)の第二師団。厳しい訓練と酷寒で有名な部隊で、その駐屯地は何年か前までは道路が整備されてなくて船で入るしかなかった僻地。楊口について酷い噂が多すぎて少し心配していたが、同期何人かと一緒に向かってることで少し安心した。
父からのアドバイスはもうとっくに忘れていた。日本から来たけど、皆とは少し違うけど、それは元々皆違うに決まってるんじゃないか。逆に面白いやつらが集まってたからこそ厳しい訓練も耐えることができた。釜山出身の同期が車内で販売するお菓子を買って渡してくれた。こいつらと一緒ならこの先も何とか出来る。僕は油断していた。

国連軍のソウル進攻から祖父は何とか逃げられたのだが、部隊はほぼ壊滅に近い状態になっていた。数十人の兵士の中にはケガした者はもちろん、爆撃の修羅場で自分の武器を忘れてしまって手ぶらのままの者もいた。開戦からずっと兵士たちを指揮していた中隊長を含めて将校たちは全員死亡したか行方不明。残ったのはわずか数人の下士官と、共産党からの政治将校。
政治将校とはロシア革命後のソ連が作った特殊な軍隊階級で、共産主義理念に充分に染まっていない指揮官たちを監視するための共産党の統制システムだった。熱烈な共産主義者で党の理念と方針を直接代弁する存在として、政治将校は専門軍人の指揮官にも負けない大きな権限を持っていた。戦争を始めるために仕方なく満州国軍・日本軍・中国紅軍・国府軍など様々な出身の軍経験者を起用せざるを得なかった北朝鮮軍も、政治将校システムを導入してイデオロギー的に怪しい指揮官たちを監視していた。
祖父の部隊の政治将校は部隊員の間でロシア語の「コミサール」と呼ばれて、長年満州やソ連で抗日運動をしていた名望のある共産革命家の息子だった。中央党から派遣された若いコミサールは、満軍出身の部隊長に思想改造が充分に出来ていないと事毎に対立したそうだ。指揮が出来る他の将校たちが死んで、唯一将校の階級を持っていたコミサールが部隊の責任者になったが、開戦前に軍門に入ったことのない彼にちゃんとした指揮が出来る訳がない。道案内は読図ができる下士官に任せて、敗残兵たちは逞しくない指揮官と後ろから追っかけてくる敵を恐れながら歩き続けた。

食料も弾薬も少ない。初めての戦いでは敵が見えず、逃げるばっかりだった。ブーツには穴が空いて、追いかけてくる敵にいつやられるかも分からない。コミサールは米軍から共和国の心臓部を守るために平壌へ向かうべきだと主張したが、下士官たちは敵の優先目標の平壌に行くのは自殺行為だと思い、敵が入りにくい山岳地帯を通って平壌よりも更に北に行って再集結すべきだといって対立していた。兵士たちの間で逃げる方がましだという話が回りはじめた。
夜、事件が発生した。休憩中に誰かが逃げてしまったのだ。皆の目をかい潜ってグループから離れて逃げ出した脱走兵は山を走り降りたら「クソ赤の犬ども! 地獄に落ちちまえ!」と叫んだ。「あいつ、逃げてるぞ」と兵士たちが騒ぐと、コミサールは怒りで顔が真っ赤になったままトカレフ拳銃を森の方へ乱射した。感情的で軍事的な見識が欠けているその行動を目撃して、兵士たちは小さい声でコミサールの悪口を言った。いきなり発砲しやがって、敵にバレたらどうすんだ、バカ。昨夜の乱射に部隊員の皆が不満を持っていたのだが、コミサールはその次の朝からずっと拳銃を手に持っていたので誰も文句は言えなかった。ロシア語のあだ名で「テテ拳銃」と呼ばれたトカレフ拳銃には、安全装置がない。
コミサールは、これからは常時全員一列で移動して、もしお前の後ろのやつが逃げたら、お前をその場で処刑すると宣言した。兵士たちはお互いを疑い始めた。祖父も疑っていた。このまま北に向かい続けて、生き残れるだろうか。

《2/6に続く》

MOMENT JOON(モーメント・ジューン)
韓国ソウル生まれ。移民者ラッパー。ロサンゼルス、ニュージーランド、ソウル育ち。2010年大阪大学の留学生として来日。2010年以降、日本にスミながら独特の言語感覚と日本社会に対する目線を音楽にしている。2012年に徴兵のため韓国に帰国したが、2014年除隊し日本に戻り、楽曲「Fight
Club」を発表。日本語ラップシーンに旋風を巻き起こす。アルバム「Immigration EP」が発売中。

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