「出会ったものに反応していたらこうなった」山口はるみの『HARUMI GALS』が生まれるまで

山口はるみは、日本が大きく成長を遂げた1970年代、広告業界にセンセーションを巻き起こしたイラストレーターだ。彼女の描く女性たちは、今もなお鮮やかで、自由さと輝きを失わない。彼女が出会ったさまざまな人びとのこと、パルコの女性たちをはじめ、描き続けてきた〈女性像〉に込められた想いについてi-Dに語ってくれた。

by Kazumi Asamura Hayashi
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14 August 2020, 6:00am

「特に語れることはありません。なんとなくいただいたお仕事をして現在まで至るのです。」電話をかけ取材をオファーした際、彼女はとても落ち着いてそのように答えた。少し考えさせてほしいと言われ、数日後にインタビューの承諾をしてくれた。彼女は「渋谷の宮下公園の前にあるルノアールに」と場所を指定してくれた。自宅から近いこの喫茶店でいつも打ち合わせをするという。

山口はるみがパルコをはじめ、広告デザインの仕事をしていた1970年代は、まさにイラストレーターの黄金期、広告デザイン業界が大きく成長を遂げている時期でもあった。特に1973年に渋谷にできたパルコの広告ビジュアルは、時代の最先端を表現し、商業施設としてのパルコは美術館や劇場を併設するなど、渋谷を文化の拠点地に仕上げ、また消費文化にも彩を与え続けてきた。

東京芸術大学に合格し油絵を専攻していた彼女だが、広告デザインのイラストレーションを見て、自身の原体験を思い出しその道に進むこととなる。エアブラシで描かれたその女性たちはのちに「はるみギャルズ」と呼ばれた。まさに高度消費社会に突入する前夜、彼女の描く女性像は自由で、自立していて、誰にも迎合しない。そんなはるみガールズに当時の若者たちは夢中になったに違いない。

山口はるみ, HARUMI YAMAGUCHI, HARUMI GALS, PARCO

育った環境、そして絵を描くきっかけ

6人兄弟の末っ子でした。一番上の姉は18歳位離れていました。母は結核にかかりましたが、強い意志を持ち、体を動かすことなく1年の命と言われた命を6年もたせました。

母は鹿児島女子師範に在学中に、父と出会いました。父は地学の専攻をしていて活火山として一番魅力的な桜島に研究の場所を求めたのです。しかし研究だけでは生活ができませんので、鹿児島女子師範の先生をしながら生計を立てていました。そんな父は学校で明治生まれにも関わらずピアノの弾き語りをしていた母を見て、一目で恋に落ち結婚しました。

私は島根県松江市で育ちました。クラシックの大ファンの音楽家族でした。当時は蓄音機でクラシックのいろいろな曲を家族で聞いていました。特に歌物が好きでよく聴きました。姉たちは、コーラスをやっていて、NHK松江局に出演したり、原語でコーラスを歌うようなそんなこともしていました。兄も音楽好きでした、東大に通っていた時に彼は大学の応援歌を作曲したんですよ。

私は島根師範付属小学校、中学校の後に松江高校に入りました。附属小学校では6部コーラスまでやっていました。

中学2年の際に、図工の時間に「油絵を描いてごらん」と担任に言われました。それで気ままにキャンバスに描いていました。なぜかその先生は私だけに声をかけてくださいました。とても不思議です。高校でも油絵を続けていました。金銭面のことがあり、両親からは「大学は国立に」と言われていました。だから一生懸命真面目に勉強しました。勉強をしているときも、夜中に絵が描きたくなる衝動がありました。その気持ちに沿って私は芸大を目指すことを決めました。

芸大の試験までに二週間となった時、東京に出て美術の予備校である美術研究所に行きました。周りを見渡すと、みんな今まで見たことないようなデッサンを描いていました。

私のデッサンは単に白い紙に石膏像を描いてましたが、美術研究所のみんなは、まさに空間に石膏像が存在しているような絵を描いているんですね、ショックを受けました。

でも受験まで時間がないので、描くのは諦めて一番上手い人のものを見ていようと心に決めました。翌日の石膏像のデザイン実技テストで、たまたまその美術研究所で前日に練習した像が同じ角度で置かれていました。現役で入学は難しいと思っていたので、入学できたのは信じられないほどラッキーでした。

学校では油絵科を専攻したのですが、キャンバス代金がすごく高かったのでアルバイトを始めました。ペンキ塗りとか男の人がやるような仕事をたくさんこなしていきました。そのうち、男性用の靴下の模様のデザインをするようになりました。そうしたらその靴下の売れ行きが俄然良くなったんですね。靴下製造機の機能をマスターし、今までとは違う配色やデザインをしたのが理由だったのかな。そのうち腕が上がって、「就職したら?」とまで言われましたが、私の興味はデパートの広告に向いていました。山城隆一先生の作っていた高島屋のデザインがすごく好きでした。そしてアートディレクションやデザインにすごく興味を持つようになりました。叔父が日本橋の高島屋の企画室長をしていたので、なんとなく就職について聞いてみたんですが、「来年は四年生大学の新卒の女子は取る予定はないんだ」と言われました。その代わりこれから素晴らしくなる西武百貨店の宣伝部デザインルームに、と紹介してもらい四年の秋から通うようになりました。

油絵を専攻していた大学時代、なぜ広告デザインの道に?

二つ大きな転機があったと思います。

私の油絵のクラスってすごい面々が揃っていたんですね。高松次郎、中西夏之、のちにニューペインティングを日本で初めてやった方々や、工藤哲巳氏がいたり、画廊の主人たちも後にすごいクラスだったねと唸るほどのパンチの効いたクラスでした。でも私ははみ出して、デパートの広告などに興味を持ったんです。日本宣伝美術会の展覧会が夏にあるんですが、友達がそれに誘ってくれたんです。その時大賞をとった和田誠さんの「夜のマルグリット」、その作品を一目で大好きになりました。

私は当時、デュビュッフェのぐちゃっとした絵が好きだったんですね。

和田さんのポスターを見たときに、昔はこのようなお洒落なものが大好きで、素直に描いていたなあって思い出したんです。大きなデザイン展に行ったのは初めてで、その中に自分の昔を思い出せるような感覚が蘇りました。

もう一つは、銀座を歩いているときに、向こうから『真夜中のカウボーイ』のなかの画像みたいな男性二人組が歩いてくるのに出くわしたんですね。よく見ると四年間一度も笑顔をみせたことのない、おっかないクラスメートと、当時の日本一の美術評論家でした。思いっきりの笑顔で話すクラスメートの姿を見たら、すごくいやなモノを感じてしまったんですね、田舎から出てきた純な女の子でしたから!これも自分にとって、方向転換をするきっかけになった出来事でした。

西武デパートに入ってからは広告のイラストの仕事をしました。

そしてやがて、パルコから仕事の依頼を受けたんです。

山口はるみ, HARUMI YAMAGUCHI, HARUMI GALS, PARCO

念願の広告業界に飛び込んでから

小池一子さんとは年齢も一緒です。彼女はアドセンターにいらしたんですが、現代十和田美術館を作った方です。すごい方です。彼女は抜群に頭が良くって、素晴らしい感覚の持ち主。今でも一番敬愛しているのが小池さんです。

石岡瑛子さんは、同じ芸大時代から素晴らしい才能があったし、業界に入られてからも素晴らしい活躍でした。パルコでこの女3人組で広告制作をできたのはすごい経験でした。

パルコを作られた増田通二さんとは一緒にゴルフをやるような仲にもなりましたが、仕事になると話は別でした。当時私は、「これがだめなら私やめます」なんてことも何度かありましたよ。

本当は、数々の苦労があってそれをはねのけて今までやってきたんだなんて話があればもっと面白いんでしょうけど、私は出会った人に恵まれてここまで来た感じです。とてもラッキーだったんですね。

山口はるみ, HARUMI YAMAGUCHI, HARUMI GALS, PARCO

常に、国籍不明の女性のイラストを描いてきました。

国籍不明というのは、女全般に当てはまるんです。日本人の女優さんとかに似ていたら、引きずられるイメージがあってよくないと思ったのです。そういう表現をするためには、国籍不明が一番いいと思ったんです。

宇野亜喜良さんには20代の頃から仲良くしていただきました。そしたら「はるみさんの描く女性は全くセクシーなものが足りないよね」と言われたんです。もちろんパルコの仕事なんかはお洋服を着せているとはいえ。

そう指摘されて、自分でも、そうだなと思いました。

当時、田中一光さんが「one week one show」っていう展覧会を企画されたんです。200人くらい出展したんじゃないかな。そのときに三枝成彰さんが「new music media」というアイディアを出され、この「one week one show」の関係者全員にB全ポスターを自費で作ってもらい、その作品を一堂に会して展覧会をするってことを決められたんです。

山口はるみ, HARUMI YAMAGUCHI, HARUMI GALS, PARCO

そのときに私は、何の束縛もない作品作りをするために、アメリカのプレイボーイ誌などを見ていたんです。女の人がTシャツを着てグラブを構えている写真を見つけたんです。そこからインスピレーションを得て、裸の女の子がちっちゃいパンティーだけつけて、ボクシングのグラブで構えているイラストを描いたんです。それまでは、洋服を着た女性しか描いていなかったから、とてもパンチの効いたイラストとしてみなさんに見てもらえ、ここから仕事につながりました。マンズワインの仕事もここから。そしてそれも評判を呼んで、パルコでの広告も肌を露出するようなイラストになりました。これがはるみギャルズと呼ばれるイラストの誕生でした。

転機って絶対にあります。自分が能動的にちょっとこっちにずれると、どどどって全てが動くって感じでしたよね。自由なテーマで描いた「new music media」のポスター1枚で私に求められるイメージがすごく変わりました。

山口はるみ, HARUMI YAMAGUCHI, HARUMI GALS, PARCO

私は1980年から渋谷に住んでいます。ここに来る前も近いエリアに住んでいました。

90年代ごろのことですが、ルーズソックスを履いている女子高生が長く流行っていましたよね。あるときルーズソックスじゃない子を見かけて、「何でルーズソックスやめたの?」って聞いたんですよ、そしたら彼女が「学校で禁止になりました」って言うのを聞いて少しがっかりしました。私たちがもっと活きのいい頃は、ファッションリーダーになる女の子は、人に言われてやめたりするものでなく、自分でリードしていったのに。と思い、女の子の発言に少しがっかりしたんです。

私が西武のデザインルームにいた時、女性の先輩たちは、会社の規定でみんな紺色の制服を着ていたんです。綺麗な紺色だったらよかったんだけど、緑を混ぜた紺色だったのがいやで。だから正社員にならずに、制服を着なくて良い嘱託として勤めることにしました。

私だけ、ヘンテコなパンツ履いたり、斜めにダブっとしたセーターを着たり、勝手な格好でデザインルームの入り口でフラフープをしたりしてました。事務の男の人には「山口その格好は何だ」なんて言われてましたが、上司には可愛がってもらっていたので好きにさせてもらっていました。私のデスクがちょうど食堂に行くときにみんなから見える場所にあったんだけど、みんな私をジロジロ見ていきました。でも一切気にせずに、平気で描いていましたね。私は、かなり反抗的な悪い子だったんです、その頃は!

山口はるみ, HARUMI YAMAGUCHI, HARUMI GALS, PARCO

自分の方向性を考えてみると、出会ったものに反応していたらこうなった、という感覚です。

今は時代も変わり、たくさんのイラストレーター候補の競争の中で、仕事を勝ち取るという形になっていると思います。才能や根性がある人が生き残る。好きなことを仕事にできることが一番ですね。

そしてもしそのようなものに出会えたならば、とにかく自分を出し尽くしてください。

Credit


Text Kazumi Asamura Hayashi

Images courtesy of Harumi Yamaguchi

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