2020年に考える、今後10年のカルチャーを救う方法

緊縮財政によって文化が追いやられた2010年代の英国。しかし、そこには文化復活の兆しはある、と英ジャーナリストのナタリー・オラーは言う。ポイントは、コミュニティの再建と活性化。

by Nathalie Olah
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02 April 2020, 7:04am

テン年代が終わりに近づくなか、あらゆるコメンテーターがこの時代を〈失われた10年〉と呼んだ。伸び悩む賃金、高等教育機関への進学率の低下、問題だらけの国民医療制度(NHS)など、英国政府の緊縮財政によって多くの弊害が生まれた結果、テン年代は社会に不満や不安が蔓延した時代として、歴史に刻まれることになるだろう。

文化的アウトプットも、社会の停滞からは逃れられなかった。通常、年代というものは、ポップミュージック、ファッション、映画、文学作品によって定義されるが、テン年代は、明確な一貫性やアイデンティティを欠いた時代だった。

この時代の重要性について考えてみても、後世に影響を与えたり、長きにわたって文化的重要性を有するような突出した出来事、ジャンル、トレンドはほとんどない。筆者の著書『Steal as much as you can』でも論じたが、これは文化を生み出す責任を担う業界が中流層の消費者の興味関心だけに注目し、少数派である私立校出身の人材ばかりを雇ったことが理由のひとつに挙げられる。

従って、映画、テレビ番組、音楽が映す現実は歪められ、その内容は、私たちの多くが実際に直面する葛藤とは似ても似つかないものになってしまった。

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Photography Ashley Verse

しかし、このルールには例外もある。例えば、メインストリームに進出を果たしたグライムは、今や英国のポップカルチャーに欠かせないジャンルとなった。主要メディアはしきりにグライムをインクルーシビティの証として利用したがるが、同ジャンルのメインストリーム進出が想像を絶するような障壁や困難に直面したそもそもの原因は、黒人や労働者階級の声を排除してきたメディアの風土にある。

ディジー・ラスカルがマーキュリー賞を受賞した2003年から、スケプタが同賞を受賞した2016年まで、実に13年が経過したにもかかわらず、メディアはつい3年前までグライムを頑なに〈新興〉ジャンルと呼び続けていた。

ロンドンのレコードレーベル〈PC Music〉など、真の意味でのメインストリーム進出を果たし、新たなポップミュージックやファッションのジャンルを生み出す可能性のあった一時的なムーブメントもあるにはあるが、結局はコア層であるアートスクール卒業生以外のオーディエンスの心を掴むことはなかった。

数多のストリートウェアやスケートブランドも生まれ、雑誌やウェブサイトは、こちらがうんざりするほどそれらを〈オルタナティブ・カルチャー〉として売り込んできた。しかし、その多くが営利目的である限り、文化として不十分な点は多い。

そのいっぽうで、カンバーバッチかぶれやホームカウンティ(イングランド南東部、ロンドン周辺の地域)・アクセントで喋る柔らかな髪のコメディアンなど、メディアを席巻しているパブリックスクール出身者についても、バランスを見直す必要がある。

このような風潮について、バイアスや差別の問題に向き合うことなく論じようとする人びとは、ある共通の敵を責めたがる。インターネットだ。彼らは「サブカルチャーは死んだ」、そして「インターネットの登場によってトレンドや真のムーブメントは過去の物となり、既存のシステムの外でメインストリームの注目を獲得することは不可能になった」と主張する。

いっぽう、「インターネットによって時間の概念が無きものにされた、ボタンを押すだけでどの時代のリファレンスにも即座にアクセスできることで時の流れが歪められ、〈時代〉というものは不可分で永続的になった」という声もある。

さらに、「新自由主義的な政治や経済によって、私たちの現実の認識は必然的な出来事の連続に矮小化されてしまった」とする向きもある。

しかし、左派の復活についてはどう説明できるだろう。このムーブメントはいかにして草の根レベルで始まり、インターネットによって発展し、絶望や不安に満ちた風潮に、はっきりとノーを突きつけたのだろうか。

テン年代を象徴するものがあるとすれば、このインターネット発のムーブメントに他ならない。1980年代のマーガレット・サッチャー政権以来、社会、ひいては文化はもはや存在しない、と私たちは耳がタコになるほど聞かせられてきた。この文言の本当の意味を考えることが重要だ。

これを読んでいるあなたは、文化や娯楽は正常な社会にとって不可欠な要素だと考えているかもしれない。しかし、人生の大半を労働に費やさなければいけないのだとしたら、いったい他に何があるというのだろう。

衰退の一途をたどる社会で、サッチャー元首相が推し進めた緊縮財政をはじめとする政策は、あらゆる文化的表現の可能性を奪ってきた。体験やアイデンティティを共有できない社会では、文化的表現は決して生まれることはないのだ。

それ以来、私たちは自由主義経済へと移行する社会のなかで、より信頼の置ける文化を求め、あらゆる困難に立ち向かいながら、必死に現実を生き抜いてきた。誰もが文章を書いたり、音楽や作品を創ろうと奮闘しながら、5つの仕事を掛け持ちしたり、経済的に困窮している。結果として、大きな打撃を受けたのが文化的表現だ。

「それは不幸だが〈必然〉だった」と捉えるのが、サッチャリズム支持者の考えだ。文明が消えた後も残り、私たちが博物館を訪れたり、古典文学を手に取るたびに享受する文化的表現などは不要なものだ、と彼らはいう。

経済的な苦しみは、本来なら存在しなくても良いものだ。大学に通い、経済の金融化や市場化に代わる概念に触れた非常に多くの若者が、すでにその事実に気づいている。数人のリーダー的存在の助けもあり、彼らは〈必然性〉のレトリックを見直すことができるようになった。

そのレトリックとは、緊縮財政は〈帳尻合わせ〉に必要不可欠であり、私たちの運命を握るのは規制や共同所有ではなく技術の進歩だと主張し、プライベートジェットに乗りながら気候変動に絶望してワーワー騒ぎ立てる、というものだ。

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Photography Nadine Persaud

数十年もの間、金融業界やそこで暴利を貪る人びとを責任逃れさせてきたサッチャリズム。その鉄壁に入った最初の亀裂が、コービン運動(※反貧困、反緊縮を打ち出したジェレミー・コービンを英労働党党首へと押し上げた、SNSを駆使する新たな市民参加型政治運動)だった。

次の世代には、今のような中身のない、不誠実な文化風土を味わってほしくない。クラブや音楽シーン、ファッションが、私たちが毎晩だらだらと眺めているスクリーンには決して現れないような社会の辺縁で再び生まれ、未来の世代がそれを存分に楽しめることを願っている。

社会というものは確かに存在する。この先も続く気候変動との闘いのなかで、そのことを忘れてはならない。なぜなら気候変動の解決には、まず富と資源の平等な分配が必須であり、この考えこそがこの先10年の重要な活動の基盤となるからだ。

私たちは後期資本主義の地獄に終止符を打ち、コミュニティを再建、活性化させなければならない。そのためには、私たちの日々の体験をリアルに映し出す文化の生産が不可欠なのだ。

This article originally appeared on i-D UK.

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