Photography Shawn Mortensen for i-D's The Saturday Night Issue, December 1994.

追悼:キース・フリント 1994年、ブレイク直前のTHE PRODIGY インタビュー

去る3月4日、THE PRODIGYのフロントマン、キース・フリントが亡くなった。i-Dのアーカイブから、「Firestarter」リリース前のTHE PRODIGYのバックステージ・インタビューを振り返る。

by Kodwo Eshun; translated by Nozomi Otaki
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12 April 2019, 9:44am

Photography Shawn Mortensen for i-D's The Saturday Night Issue, December 1994.

ベタで陽気なレイヴの定番ソング「Charly」で、突如としてヒットチャートに乱入したTHE PRODIGY。それ以降ヒット曲やベストセラーアルバムを連発し、マーキュリー賞にもノミネートされた。しかし意外かもしれないが、エセックス出身の彼らの本当の狙いは、ハードコアミュージックのアドレナリンをほとばしらせるスリルを、スタジアムロックに取り入れることらしい。

キース・フリントがウォーミングアップをしている。大きな顔に半閉きの瞳がぎょろぎょろと動くさまは、なぜかブライアン・ジョーンズを想起させる。彼がレイヴァーとして生まれ変わったら、まさにこんな感じかもしれいない。キースはステッチとツギハギだらけのボロボロのタータンチェックシャツを着ている。彼は肩回りはオーバーサイズだがウエストはタイトな、同じ柄のジャケットを引っ張り出した。それにくたびれた膝丈パンツを合わせた彼は、まるで1984年のウェストウッドに足を踏み入れたディケンズおたくのようだ。首には重そうな黒いベルトを3重に巻いている。3日前につけたばかりの鼻ピアスを指で弄びながら、キースはふざけ半分でマキシム・リアリティ(キーティまたはキース・パーマー)を鏡の前から押しやり、黒のアイライナーを引いた。マキシムがまとっている実用的なフロックコートは、彼が動くたびに甲高い音を立てた。闇夜に光るトラの瞳のようなコンタクトレンズをはめると、彼は邪悪で無敵な気分になるという。マキシムはリロイ・ソーンヒルの横をすりぬけ、ストレッチを始めた。リロイはその場で軽くジョギングしている。黒いバギーパンツの膝部分にはボコボコした特大パッドがついていて、腕立て伏せを始めた彼の細い脚にまとわりついた。

今回のツアーで前座を務めるDJ Physicsは、無表情で静かに座っている。ギタリストのリチャード・ラッセルが部屋に入ってきて、室内を行ったり来たりしている。今日はブラックプールで行われるTHE PRODIGYの〈Music For The Jilted Generation〉ツアー初日。リチャードはまだ自分の演奏とリアムの曲の相性をはかりかねているらしい。混沌とした楽屋の喧騒から離れた場所に、リアムは座っていた。彼は内向的で物静かな人物だ。数々のヒットシングルをはじめ、1991年のデビューアルバム『Experience』、全英アルバムチャートで1位を獲得し、マーキュリー賞にもノミネートされた1994年の『Music For The Jilted Generation』など、多くの名盤を生み出してきたにもかかわらず、彼には浮ついたところがまったくない。両腕に彫られたふたつタトゥーは、それぞれケルト文化のモチーフとTHE ORBのアルバム『Pomme Fritz』のロゴに由来するもので、今はブラウンのオーバーサイズTシャツの袖に隠れている。彼は、難しい顔つきでレコードの入ったパースペックス製ボックスを持ち上げた。中身を注意深く数え、もういち度数え、3回数えると、彼は箱の蓋を閉めて立ち上がった。リアムはマキシムの腕に触れ、笑いかけると、THE PRODIGYのダンサーたちを引き連れて去っていく。あとに残されたのは、静まり返った楽屋、機材、箱、ビール缶、散らばった服。警備員のいかり肩に力が入る。誰かがドアを開け放つ。冷蔵庫のモーター音のような、ナイトクラブを埋め尽くす観客のざわめきが、檻に入れられた動物のごとく飛び跳ね、THE PRODIGYを奮い立たせる。オンステージだ。

「生活が破綻しそうでも、ステージに上がればそんなの関係ない」。カバンと瓶で埋め尽くされたベンチに深く腰掛けたキースは、ジュールズ・ホランドのようにゆったりとした口調で話す。「ステージから降りたあとも一発ヤれる余裕があるなら、それは良いライブじゃなかったってことだ」と彼はニヤリと笑う。「前は、何回かライブをやるごとにその場全体のエネルギーだけでイってた」。最後の90分、リアムの重厚なサウンドの嵐がキースの腹を直撃し続け、彼はステージに膝をついた。リロイとマキシムは、サル1匹がやっと入るほどの大きさのグラスファイバーボックスにキースを閉じこめ、彼が苦しげに顔を歪めるのを笑って眺めていた。『Experience』の最後のトラックが「Death Of The Prodigy Dancers(THE PRODIGYダンサーの死)」なのも納得だ。「ステージでは何でもありだ」とキースはいう。「クラブで床に転がってたって、誰にも相手にされない。でもどういうわけかステージなら許される。若い頃は初めて経験することばかりだ。THE JAMやゲイリー・ニューマンのレコードを買う。「Going Underground」を演奏する。全力を尽くさなきゃいけない。でもむしゃくしゃすればものを殴りたくなる」。彼はベンチを強く叩いた。「フロアが揺れて、オヤジが叫ぶ。興奮は最高潮だ。曲が始まると、俺はこれが大好きなんだってことを、とにかくみんなに伝えたくなる。みんなを興奮の渦に巻きこむんだ」

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THE PRODIGYのダンサーたちは、踊るというよりゆらゆらと揺れているだけだ。彼らはリアムのシンセサイザーから繰り出されるどう猛なキックやスタブサウンド、ベルギー製ベースの邪悪な旋律に引き裂かれたかと思えば、突然音楽に動きを止められたかのように凍りつき、互いを凝視する。また、初期のガバのようにインダストリアルなサウンドが響き、激しく震えるノイズがミックスのあいだじゅう絶え間なく続くこともある。するとキースはヘッドバンギングを始め、マキシムはステージを徘徊する。「Poison」はキースの子守唄だ。〈俺は毒を持ってる/俺は薬を持ってる(I've got the poison, I've got the remedy)〉というリフレインは、彼のオーディエンスへの挑戦であり、彼らを惑わせる究極の選択でもある。

リアムはステージで仲間たちを痛めつけるが、ステージを降りれば守られる側だ。25歳のキースとリロイ、27歳のマキシムに対し、リアムはまだたったの22歳だ。彼は『Music for the Jilted Generation』のTシャツにスケートパンツという普段着に着替えると、刈りこんだ頭にOakleyのサングラスをのせた。シルバーのアームバンド、両手のシルバーリングが空を切る。THE PRODIGYのメンバーたちは、リアムの思考を自らのなかに落としこみ、反芻する。彼の考えを正しく理解しているのか不安に思っているようにすら感じられる。「僕たちはハードダンスミュージックをやってるハードダンスバンド。曲をつくってるのは僕だから、ある意味僕はソリストともいえる。でも、支えてくれるメンバーがいなければTHE PRODIGYは存在しなかった」。リアムはよく比較されるアーティストにも言及した。「PEARL JAMなんかはライブ中突っ立ってるだけだけど、THE BEASTIE BOYSは本物のショーで魅せる。エネルギーに満ちてるんだ。僕たちもそう。今の僕たちはもうレイヴグループとはいえない。そもそもレイヴシーン自体もう存在しない。バラバラになって、それぞれ別のシーンになった」。だが、リアムがそれを気にする様子はない。「インディシーンにいるほうが落ち着くんだ。SENSERとかRAGE AGAINST THE MACHINEとか、そういうバンドが好きだから」

「SENSERはマジで最高だ」とHELMETのバンドTシャツを着たキースも同意する。他のメンバーも頷いた。「僕たちがやりたいのはストリートミュージック」とリアムは断言する。そんな彼の言葉を聞いて、私は1991年の夏、サウスロンドンの倉庫でみた光景を思い出した。薄暗いセットで笑いながらふざけ合うTHE PRODIGYのメンバーたち。彼らは初めてのミュージックビデオのリハーサルの真っ最中で、興奮を隠しきれない様子だ。頭上のバルコニーからのぞきこむと、内巻きボブのリアムのシルエットが小さくみえる。彼の顔には、BBCのアニメ『Charley Says』に登場する猫のキャラクター、チャーリーにそっくりなオレンジの頰ひげが生えていた。「プレイバック!」と誰かが叫ぶと、欠伸のような、何かを訴えるような猫の鳴き声が、再び早送りで再生された。その音はセットじゅうに響き渡り、学生時代に戻ったかのようなTHE PRODIGYを包みこむ。エセックス州ブレーントリーの騒がしい仲間に囲まれた彼らは、サーカスかカーニバルのようなお揃いのセットアップを身につけていた。

この〈どこかへ出かけるときは必ずママにいうこと(always tell your mummy before you go off somewhere)〉というサンプリング音源は、レールの頂上にいるジェットコースターのように、なかなか次に進もうとしなかった。私たちはこの日、この声を2027回は聴いたに違いない。そしてめまいを起こしかけた私たちが外に出た直後、当時のダンスミュージックシーンは一変したのだ。この曲「Charly」ほど、大きなジェネレーションギャップを引き起こしたレコードはないだろう。当時〈成熟した〉ブリティッシュ・ハウスミュージック業界の構築を目指していた1988年世代にとって、「Charly」は時代の真逆を行くものだった。米国人にバカにされる、という声もあった。しかし、1991年のレイヴシーンにおいて、「Charly」は間違いなく若者のアンセムだった。

当時の米国ポップカルチャーは、リアムとまったく同じ志向だった。つまり『ゆかいなブレディー家』や『パートリッジ・ファミリー』など懐かしのドラマを取り上げ、「Charly」と同様にみんなが知っているテレビ番組をフィーチャーしたのだ。おぼろげだが誰もが覚えているはずの記憶に触れることで、リアムは私たちが思春期を迎える前、つまり各々の好みが形成され、同調圧力を感じるようになる前、ひたすら〈母〉なるテレビの画面に釘付けになっていた子ども時代をよみがえらせた。「Charly」に合わせて踊ると、私たちはかつて夢中になったものを思い出し、アイデンティティが形成される前、あらゆる情報が流れこんできたあの頃へと戻る。フランスの精神分析学者ジャック・ラカンなら、「Charly」を〈聴覚の鏡像段階〉と称したはずだ。攻撃性、羞恥心を解き放つこの曲は、まさにラカンの鏡像段階そのものといえるだろう。

「『Charly』がこんなに流行ったのは、みんなだけじゃなく僕にとっても予想外だった」とリアムは当時を振り返る。ただ、この曲の大ヒットは彼の青春の一幕に過ぎず、彼が伝えたいことは他にある。「この曲はヒットさせたくてつくったわけじゃない。『Roobarb and Custard(訳注:英国のアニメ『Roobarb』をサンプリングしたSHAFTの曲)』のレコードが出たときのことは今でもよく覚えてる」と彼はうんざりした様子で続ける。「あれをつくったヤツのひとりが僕のところに来て、『俺たちもお前らみたいにがっぽり儲けてやる』っていったんだ。なんて失礼なヤツだって思った。僕は金儲けがしたくて『Charly』をつくったわけじゃない。ただつくりたいからつくったんだ」。金儲けやチャート入りがさも恐ろしいことのような口ぶりだ。数々のヒット作を世に送り出してきたからこそ、リアムはチャートを重視していない。ユーロトラッシュポップを嫌う彼が求めるのは、〈本物であること〉と〈本気〉だ。

こんにちのハウス、テクノ、ジャングル、アンビエントシーンが、ジャンルこそ違えど、一様に〈知性〉と〈進歩〉を目指し始めたのは、「Charly」が広めたチープなウイルスへの反動だ、という意見もあるかもしれない。若いアーティストたちは、このような流れに乗らずにはいられない。「Roobarb and Custard」をリリースしたSHAFTも、今では楽曲制作に真摯に取り組んでいる。リアムも、「Charly」から間髪入れず、THE ART OF NOISEによる「Instruments of Darkness」のトランスリミックスを制作した。ハードコアが前衛的なジャングルとして生まれ変わった今も、リアムは、ポップで短い「Everybody In The Place」、チャートを席巻した力強い「Fire」、宇宙空間へ飛び出していくかのような名曲「Out Of Space」、アップテンポでグルーヴ感溢れる「Wind It Up」など、ヒットに次ぐヒットを発表し続けた。

シングル制作を続ける傍ら、リアムはJESUS JONES、CJボーランド、THE DUST BROTHESなどとともに、リミックスによって流行を取り入れる試みも行い、様々な音楽誌で絶賛された。THE PRODIGYには、CJボーランドの重低音も、THE DUST BROTHESのような学生向けの音楽も、JESUS JONES的な要素も必要ないのでは、と私はリアムに伝えた。リアムは微笑んだが、それを否定した。彼は本当に謙虚だ。自慢や傲慢が当たり前のインディシーンにすっかり染まっていてもおかしくないというのに。「僕はシャイとはいわないけど、慎重なんだ」と彼はいい、疲れ切ったマキシムからコーラの缶を受け取ってひと口飲んだ。「初対面のひとと打ち解けるにはかなり時間がかかる。みんな簡単に他人を信用しすぎだと思う。学生時代から僕を知ってる連中も、僕をスター扱いする。バカバカしい。僕たちは誰も、自分がスターだなんて思ってないのに」。彼は座り心地の悪そうな椅子に深く沈みこんだ。「アルバムチャートで1位をとったって聞いて、数週間経ってからやっと実感が湧いた。シングルで1位をとるのは、別に誇れるようなことじゃない。ただチャートを見れば順位はわかる。でもアルバムは…」。彼は何かに圧倒されたかのように一瞬口をつぐんだ。「ピンク・フロイドとかレッド・ツェッペリンのような大物バンドと同じなんだから、アルバムで1位をとるのはすごいことだ」

リアムはマーキュリー賞についてこう語る。「ほんとくだらない。賞そのもののことだよ。あんなものに意味なんてない。受賞なんてしないだろうと思ってた」。マーキュリー賞は、インディシーンで奮闘するダンスミュージックをメインストリームへと押し上げたわけではない。今回明らかになったのは、シングルではなくアルバムこそ本物だ、ということだ。同賞は、リミックスやコンピレーションを完全に無視している。雑誌より本が格上とされるように、これは普遍性、芸術的表現を称える賞だ。THE PRODIGYがノミネートされたのは、レイヴが家で堂々と聴ける〈まっとうな〉音楽に成長したとみなされたからにすぎない。何とも上から目線な態度だが、リアムも部分的には同意する。「『Experience』のサウンドは、今では少し時代遅れだと思う。『Music For The Jilted Generation』にはもっと攻撃的なエッジを加えた」。『Music For The Jilted Generation』こそ真の名盤だ。見開きのスリーブに入った2枚組で、フルート(「3 Kilos」は名曲だ)やギターを使ったスローなトラックが収められている。

「ニルヴァーナのアルバムのスローなトラックを何曲か聴くと気分が落ち着く。そういう曲はもっと集中して聴くようになる。それこそ僕が目指すものだ。こんな賞にノミネートされた理由は、政治的なことかもしれない。でも、このアルバムでクリミナル・ジャスティス・ビル(訳注:いわゆるレイヴ禁止法案)に反対したかったわけじゃない。このジャケットのアイデアはずっと前からあった。それにどちらかといえば、この絵は政府の主張を認めてる。若者がみんなダンスシーンのせいで堕落したっていいたいんだろ、確かにあんたのいう通りだ、って」。これには、リアムが米国ツアー中に出会った〈カレッジ・ラジオ(訳注:大学生が運営、放送するラジオ局。大学生が注目する音楽をいち早く紹介するメディアとして影響力を増し、1980年代の米国ロックシーンに大きく貢献した)〉のオルタナティブを求める風潮が影響している。「向こうの学生たちはCYPRESS HILLもTHE PRODIGYもギターバンドも聴く。もっとオープンなんだ。この国のインディシーンみたいに」。たしかに『Music For The Jilted Generation』のサウンドは、よりヘヴィでメタリックだ。トラックのタイトルこそ「Speedway(スピードウェイ)」や「Break And Enter(不法侵入)」だが、『Experience』収録曲よりもテンポは遅い。彼の新たな試みは、「The Narcotic Suite」でそれとなく示され、続いて「3 Kilos」の大麻による幻聴のような細切れのブレイクビーツ、「Claustrophobic Skies」のLSDが引き起こす妄想のような刺激的なサウンドという全3曲で表現されている。

シングルを重視する別のエセックス出身シンセポップバンド、DEPECHE MODEのように、本来ならTHE PRODIGYもスタジアムロックの路線に向かうはずだ。しかし、メンバーたちはこの指摘を否定した。DEPECHE MODEはバジルドン出身で、この町では「みんなロンドン出身みたいにふるまう」という。いっぽうブレーントリーは「もっと落ち着いていて、田舎町に近い」そうだ。アルバムタイトルの〈Jilted Generation(見捨てられた世代)〉が言及するのは、誰からの助けもなく何とか暮らしを立てていかなければならないことへの苛立ち、疎外感にさいなまれていた青春時代かもしれない。ハートフォードやロムフォードなどの周辺都市、衛星都市、地方都市では、〈Moving Shadow〉所属バンドからORBITALまで、あらゆるアーティストがライブを開催している。こういう場所こそが、前述のレイヴ禁止法案の対象なのだ。THE PRODIGYの4人が出会ったのは、ブレーントリーのナイトクラブ〈The Barn〉。RENEGADE SOUNDWAVE、MEAT BEAT MANIFESTO、GENASIDE II、SILVER BULLETなどが活躍したレイヴの聖地だ。当時、キースはイスラエルから帰国したばかりだった。リロイは電気技師として生計を立てていた。リアムは家でテープをつくり、『Metropolitan』というフリーマガジンのレイアウトやロックTシャツのデザインを手がけながら、CUT 2 KILLのようなヒップホップDJを目指していたが、鳴かず飛ばずの状態だった。英国のラップとは違い、ハードコアにはルールも伝統の重みも存在しない。「11歳のときに両親が離婚して、僕はふたりのあいだを行き来して暮らしてた」とリアムは幼少期を振り返る。「姉とはすごく仲が良かった。僕たちが活動を始めた当時は、まだ父と住んでいた。部屋で「Charly』」や「Experience」の収録曲をつくってたんだけど、父に怒られたから引っ越さなきゃいけなくなって。今では僕を誇りに思ってくれてるし、曲もちゃんと聴いて気に入ってくれた。母は気に入ってはくれたみたいだけど、そこまでではないかな…」。他のメンバーたちは忙しなく動き回っている。オーディエンスのざわめきは徐々に収まっていった。リアムは金属のケースと文字盤が2つついたSTORMの腕時計をみつめた。「スノボをやるとき便利なんだ」。彼はニヤリと笑い、サングラスをずり下げてあたりを見回す。レイヴは今やロックになり、ロックはスノーボード、モトクロス、スケートと同じく、アドレナリンをみなぎらせるスポーツとなった。そのシーンの奥底で、もっとも熱く、勢いよく燃えているのが、THE PRODIGY。彼らの音楽、エネルギー、情熱だ。

This article originally appeared on i-D UK.

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