『トレインスポッティング』作者が語る、禁じられた遊び

『T2トレインスポッティング』の公開を記念し、i-Dは1995年の『タフ』号から、原作者アーヴィン・ウェルシュが故郷のエディンバラやエクスタシー、そして罵り言葉の素晴らしさについて語った記事を紹介する。

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05 april 2017, 10:05am

鼻をつく香りが、わたしとアーヴィン・ウェルシュのあいだに漂う。ヨーロッパ屈指のゆるい薬物取締法が守られ続けているアムステルダムは、ウェルシュのような作家が暮らすにはうってつけの土地だ。世界を転々とした末に辿り着いたボヘミアンやダンサー、薬物中毒者、軽犯罪を犯したものたちが作り出す、先進的なエネルギーに満ちた街。世界中が隠れて楽しんでいる"禁じられた遊び"を、おおっぴらに満喫したいという自由主義者たちが最後に目指す楽園。ウェルシュのような作家にとって、これほど完璧な題材はない。

テーブルを挟んで向かいに座っているクマのような男こそ、現代イギリス文学界でもっとも勢いのある作家だ。1993年、彗星のごとく文学界に登場したウェルシュ。ケミカル系薬物の乱用によって、ひとびとが行き着くところまで行き着いた感があったあの時代、それを美化することなく、情熱をもって愛しつつも徹底的にその世代を否定する文学に挑んだ最初の作家がウェルシュだった。1988年以降のクラブ・カルチャーに少しでも関わったことのあるひとなら、彼の小説を読んで、当時を鮮明に思い出さずにはいられない。洞察と想像が入り混じったその物語に、読者は「この作家は時代の真実を知っている。私たち世代の人間が何者たるかを知っているにちがいない——そして、私たちが生きるこの時代、そしてこの時代に生きている私たちがなぜこんな風になってしまったのかを、なんとか理解しようとしているにちがいない」と思わずにいられない。言うまでもなく、ウェルシュの筆力は素晴らしかった。ハウス音楽に溺れ、ベースラインに酔い、薬を摂取しすぎて意識を失った経験も少なからずあるウェルシュ——優劣などないオープンなあり方と、まったく新しく力強いエネルギーに満ちたハウス音楽のシーンがすべてを変えたのだと、彼は理解していた。ウェルシュの言葉を借りるならば、「一錠飲めば、まったくの別世界がそこに広がる」経験からすべては始まったのだ。

しかし、ウェルシュを"レイヴ作家"などと呼んでしまうのは短絡的すぎる。ウェルシュは、クラバーの日記や、リチャード・アレンことジェームズ・モファットの三流小説の世界を引き合いに出して作品を書くような作家ではない。人間と時代を深く見つめ、克明に描き出すことができる作家なのだ。彼は、自らの経験を登場人物の視点に描き、アルコールやアヘンなど、ドラッグよりもさらに長いあいだ人間と依存関係にあった薬物を描いていた。それが90年代という時代だったのだ——ひとびとが流れ流れて袋小路にたどり着き、絶望のうちに何かを渇望した、悲しき90年代。ウェルシュが描く物語は、抑圧も悲しさも感じさせない(不穏な場面はある。一人称で描かれる物語を読み進めていくうちに、読者は、現実社会では絶対に出会いたくないような連中の頭の中を垣間見ることになる)。ウェルシュは、日常の情景に、邪悪なシュルレアリスムと毒々しいユーモア、スコットランド訛りやスラングに現地の人間だけが聞き取ることのできる微かなニュアンス、そして名手だからこそ描き出すことのできるありふれた展開を織り交ぜ、現実から一歩だけ外へ出た現実を描く。

アーヴィン・ウェルシュは、1958年、エディンバラのリースに生まれた。ミュアハウス地区の中心街から遠く離れた、決して健全とはいえないエリアに育ち、16歳で学校を中退。テレビ修理工の助手として働きはじめるが、仕事に怒りを募らせて辞め、70年代後半にロンドンに移り住む。パンク・バンドを転々とし、引越しを繰り返した。80年代には、エディンバラ地方議会の指導員となって里帰りを果たした。このときに目の当たりにした変化——彼の不在のうちにすっかり様相を変えてしまったエディンバラが、その後のウェルシュにとって重要な意味を持つこととなる。当時、世界の多くの都市はパキスタン産のヘロインに溢れかえっていた。質こそ劣悪だが安価で手に入るとあって、経済政策の置き去りとなって生まれた貧困層の若者たちはこれに飛びついた。エディンバラも例外ではなかった。「大量の失業者が出て、絶望が社会に蔓延し、同じだけヘロインも蔓延した。それまではタバコやアルコールで苦しみを忘れようとしていたひとに、ヘロインという新たな選択肢が与えられた。そして多くはその新たな選択肢を選んだ」。ヘロインにハマっていったひとびとは、皆、普通の人たちだ、とウェルシュは強調する。彼が文学界に登場するまでに、ヘロインはあまりにも一般化し、美化されすぎていた。「文学でのヘロイン中毒者の描かれ方——ウィリアム・バロウズが描いたようもの——はナンセンス」とウェルシュは言う。「あの時代にヘロインに手を出していた連中は、その数年前までピッチャーでビールを飲んでいたような人たちだったんだ」

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ヘロインの蔓延から間もなくしてHIV感染とAIDS発症の嵐がエディンバラを襲った。「スコットランドにいた友達の多くがHIVに感染した。幼馴染たちがことごとく体調を崩していくのを見て、『なんでこんなことに?』と考えると、怒りに震えた。そこで、小説を書くことでその現実に対処しようと思った。それが『トレインスポッティング』だった」。『トレインスポッティング』を構成する独白の数々——言葉を紡ぎ出している登場人物たちは、実にイキイキとしている。共感こそしにくい登場人物ばかりだが、ウェルシュは彼らを先入観で測ることも、物語の中で彼らを裁くこともしない。ヘロインも自分自身も憎んでいるマーク・レントン、喧嘩に明け暮れるベグビー、そしてセックスのためだけに生きるシック・ボーイ——自暴自棄とも解釈できる破天荒な生き様を見せる彼らだが、その物語には絶望の淵に歓びのようなものが浮き上がる。AIDSの脅威に麻痺したひとびとの怒りと不信こそが、ウェルシュを執筆へと駆り立てた。しかし、80年代の終わりにエクスタシーの流行によってもたらされた活気にも、彼は大きく触発されたようだ。ひとびとに陽気な活力がよみがえる様子は、イギリス炭鉱ストライキの終焉以来の光景だったという。「突如、街に活気が戻ってきたんだ。どんなことでも可能に感じられた。ドラッグの影響があったからこそそう感じたという一面もあっただろうけど——エクスタシーは精神を活性化してくれるドラッグだからね。でも、それだけじゃなく、体制に従うことを善しとした80年代のヤッピー文化に踏みにじられ、抑圧されていたひとたちの、パンク的エネルギーが突如として噴火したようだった」

まだ未完の『トレインスポッティング』の一部が、スコットランドの文学誌に掲載されると、ウェルシュのもとには多くの激励の声とともに、興味津々の質問が相次いだ。君は誰なんだ?出身はどこ?この小説の続きは?「しばらくは躊躇したんだ。小説家なんて、自分の中で起こっていることがすべてであるかのように自己満足で文章を書く、なよなよしたやつがなるもんだと思ってたから。僕が書いていたのはある文化的事象のひとつの側面。そうしたことを書くのが仕事として成り立つとは思えなかった。でも、もっと書いてくれと背中を押されて、書いたんだ。そして、書くたびに雑誌で掲載された。完成した手書きの原稿を出版社に送ってみたら、それがそのまま出版された。『俺が書く本なんて、数人の友達が読むくらいで、その後は本棚で埃をかぶって忘れ去られていくんだろう』と思ってた」

しかし、そうはならなかった。1993年に出版されると『トレインスポッティング』は、新聞や主要文芸誌でも絶賛を浴びることとなった。彼は「90年代スコットランド版セリーヌ」「注目の新人作家」などと讚えられるようになり、まるで外来種の昆虫でも観察するように、アーヴィン・ウェルシュという作家の実像を探るメディアが後を絶たなかった。ウェルシュはインタビューのなかで『トレインスポッティング』初版の装丁のような虚空のまなざしでカメラを見つめ返し、「俺は文化における臨時労働者のようなもの」と素早い切り返しをみせた。「『元ヤク中が体験談を書いた、あの本だろ。もう消えてくれよ』なんて言われるとイラつく」とも話していた。彼は、ドラッグがサブカルチャー世界特有のものではなく、当たり前に日常のなかにある存在だと説き、自身が神格化されることも分類分けされることも拒んだ。

『トレインスポッティング』が出版された翌年、ウェルシュはブラック・コメディの掌篇を集めた『アシッド・ハウス』を発表した。「都市部の現実をリアリスティックに描くのではなく、もっとシュルレアルで幻想的なことがやりたいと思った。4-5週間で一気に書き上げた」とウェルシュは言う。実験的な形式や構成、言語を用いて仕上げられたこの作品だが、そのシャープな語り口には、従来のイギリス文学に登場する英雄たちに引けを取らないほど豊かで幻想的な内面が、労働者階級の若者たちのうちにも存在するのだというウェルシュの考えが見事に表されていた。「小説でスコットランドの労働者階級が描かれるとき、必ず用いられるイメージ——それをぶち壊したかった。人間の言葉を話すリスや赤ちゃんに変わってしまう大人、住宅建設計画が進む地域に降り立つUFOといった設定は面白いと思った。社会をさらに現実的に描いて『トレインスポッティング2』を作るんじゃなく、現代を舞台にファンタジーやロマンス、犯罪小説といったジャンルを織り交ぜながら、遊び心のある作品を書いてみたかったんだ」

ウェルシュ自身は作家生活を拒み続けていたが、『アシッド・ハウス』の発表で、彼は名実ともに"作家アーヴィン・ウェルシュ"となった。「注目されるのは変な心地だった。僕自身も生活も全く変わっていないのに、すべてがひっくり返ってしまったような感じ。以前と変わらず、クラブに行けばドラッグもやるしね。でも今は、エディンバラのパブでさえも、見ず知らずのひとが寄ってきて、『いい本だった』だの『くだらねえ小説』だのって言うんだ。僕の作品を知らないひとがこの世に存在しないかのようだよ。エクスタシーにハマった、ただのバカでしかない僕が、カルト的な存在として扱われるなんて、不思議としか言いようがない」

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とはいえ、小説家であるということは、悪いことばかりではないだろう。「フィクションの素晴らしいところは、振り返ることで自分の半生を正当化できるという点にある。無駄なことはなかったと言えるわけだからね。半生を振り返って、『あのときあんなにドラッグをやるんじゃなかった』とか『あいつらと堕落していくべきじゃなかった』とか『あんな仕事はすぐにやめるべきだった』とか『あんなやつと付き合うんじゃなかった』ってひとは考えるよね。でも小説では、そうした経験を素材として使うことができる。パブで退屈極まりない男につかまって、面白くもなんともない話に付き合わされているときでも、『これすらも無駄にはならないんだ』と正当化できる。どんな経験も救われる。救いようがないほどに無益なこと——たとえばオランダの昼ドラを朝から晩まで観てしまったりしたときでも、『次に書く本のためのアイデア探し』と考えることができるんだよ」

ウェルシュの最新作『マラボゥストーク』は、病院のベッドで昏睡状態にある元フーリガン男性の物語だ。暴力と絶望に満ちた半生の記憶を振り払うように、昏睡状態の主人公は、植民地支配から解放された南アフリカで悪の鳥を探す冒険家として、空想の世界に生きる。しかし、病院の職員によってほどこされる浣腸材や注射、家族がベッド脇で流すシャーリー・バッシーの名曲集をきっかけに、過酷な現実体験の記憶が主人公の心によみがえる。これに心を乱される主人公——空想の世界にもほころびが生じ、眠っていた彼の潜在意識が彼を揺り動かしはじめる。

この小説は、熱にうなされて見る悪夢のようだ。壊滅的な力を持つドラッグを摂取した後に体験する、脂汗が止まらず眠れない、この世の終わりのような夜を追体験しているような気分になる。そのダークな夢の世界は、小説家アラスター・グレイが『1982, Janine』で描いた警備システム会社職員の男性主人公の内面を彷彿とさせる。救いようのない人生の、最後の最後でたどり着いた気づき——魂の救済が訪れるには遅すぎる、という結末だ。『マラボゥストーク』には、ウェルシュが身をもって知る文化的社会背景の記憶が見え隠れする。70年代に不況が訪れると、多くのスコットランド人は、イギリスが世界に持っていた植民地のいずれかに移住して安定した生活を送る夢を見た——しかし、工業大国イギリスの体制的衰退にともない、ひとびとの生活水準は悪化していった。そのスコットランドの絶望のうちに育ったウェルシュの記憶が、作中には垣間見える。そして、海外への移住すらも、希望が絶望へと変わる要素として描かれている。作中で、主人公はアパルトヘイト政治が続くヨハネスブルクをエディンバラの政治になぞらえて眺める。エディンバラだけではない——貧民街を作って貧困層の市民をそこに押し込め、ひとびとのささいな楽しみですら犯罪として取り締まるという社会構造は、世界各国の都市に多く見られる。ウェルシュはそれを、アパルトヘイトと同じ構造だと言っているのだ。「白人社会のヨハネスブルクで、原住民の黒人が受ける差別——エディンバラでは、俺たちが南アフリカの黒人と同じ立場。ミュアハウスやウェスター・ヘイルズ、二ドリーといった劣悪な居住区——市街地から遠く離れ、生活に最低限必要なものだけが与えられた、もはや"収容所"と化した地域で、一生を終えることを運命づけられている。誰もやりたくないようなクズの仕事をさせられ、夜には、友達と外でたむろしているだけで警官に侮辱される」。もっとも憎むべきキャラクターすら、燃えたぎる生命力を感じさせる——スリルあふれる作品だ。

アシッドの夢を言葉で活写し続けるウェルシュが次に向かうは、いったいどこなのだろう?昨年から、アーヴィンはアムステルダムに暮らしている。イギリスのテレビ局Channel 4のために脚本を2本手がけており、また、音楽家のアンドリュー・ウェザーオールとともにオーディオ版『トレインスポッティング』の制作を計画している。しかし、ウェルシュはいつまでアムステルダムに滞在するか分からないという。人気が落ち着けば、またほかの場所へと流れていくのかもしれない——彼が生み出したキャラクターたちのように、ベルリンだろうがニューヨークだろうが、ロンドンだろうがサンフランシスコだろうが、シドニーであろうが、"どこに流れ着いて暮らしていてもおかしくない"と思わせる雰囲気が、ウェルシュにはある。音楽シーンが活発でいいリミックスがある場所なら、彼はどこにでもいくだろう。

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Credits


Text Matthew Colin
Photography Mark Alesky
Translation Shinsuke Kuriyama at WORDSBERG Inc.