©2018 FRESDEVAL FILMS, WANDA VISIÓN, OBERON CINEMATOGRÀFICA, LES PRODUCTIONS BALTHAZAR, SNOWGLOBE

映画の平行線 第15回:『ペトラは静かに対峙する』

新作映画についての往復連載。今回取り上げるのは、ハイメ・ロサレス監督による怪作サスペンス『ペトラは静かに対峙する』。話題は前回の『ハイ・ライフ』からクレール・ドゥニ映画におけるダンス、そして「父親探し」の物語へ。

by RIE TSUKINAGA
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09 July 2019, 10:49am

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まずはダンスの話から始めたい。五所さんの言うように、『ハイ・ライフ』からはダンスの気配が強く滲み出ていたから。ミア・ゴスの姿に私も『サスペリア』を思い出したし、ジュリエット・ビノシュのあの強烈な自慰シーンはたしかに奇妙な前衛舞踊のように見えた。ドゥニの前作『レット・ザ・サンシャイン・イン』(2017年)でエタ・ジェイムズの「At Last」と共に踊るビノシュもまた強烈だった。恍惚とした表情で目を閉じ、首を傾け、口元にうっとりとした笑みを浮かべながら踊る彼女には不思議な開放感があった。ところでこのシーンでの彼女はたったひとりで踊っていて、その背後に、彼女を怪しげに見つめる男がいたと記憶していたが、よくよく思い出してみると、彼女は途中からこの男とふたりで踊っていたようだ。でもなぜだろう、たとえ男の腕に抱かれていても彼女はたったひとりで踊っていたように思える。誰も彼女に寄り添うことなんてできない。恋愛をめぐるひとりの女性の冒険譚のなかで、ビノシュは一貫して孤独で、どこまでも自由に冒険を追い求めていた。

©2018 PANDORA FILM-ALCATRAZ FILMS
© 2018 PANDORA FILM - ALCATRAZ FILMS

クレール・ドゥニの映画でのダンスシーンの素晴らしさにはいつも驚かされる。たとえば闘鶏映画『死んだってへっちゃらさ』(1989年)で鶏を抱いて踊るアレックス・デスカス。自らが育てた鶏をまるで愛おしい誰かのように腕に抱く彼の姿は、人をぎょっとさせ、不吉な思いに駆り立てもする。『パリ、18区、夜。』(1994年)でカミーユ役を演じたリシャール・クルセはどうだろう。化粧をし、ドレスを着た彼がゲイバーで踊る様子を、無数の男たちが食い入るように見つめている。そこはまるで刑務所のなかのよう。神々しいほどに美しい彼は黒い闇のなかでのみ輝き続ける。そして『美しき仕事』(1999年)のラストシーン、ドニ・ラヴァンの孤独で崇高なダンス。ネオンで飾られたクラブのフロアで、煙草を片手にドニ・ラヴァンが佇んでいる。音楽と共に、彼はふらりと身体を傾け、激しく回転し、跳躍する。あるいは音楽とダンスに満ち溢れた『U.S.Go Home』(1994年)でひとり踊るグレゴワール・コラン。小さな部屋でThe Animalsの「Hey gyp」にあわせて踊る彼の痩せた身体からは、今にも力が爆発し溢れ出しそうだ。

哲学者のジャン=リュック・ナンシーと、振付家のマチルド・モニエによる共著『ダンスについての対話 アリテラシオン』(大西雅一郎、松下彩子訳、現代企画社、2006年)のなかに、クレール・ドゥニが、彼らと共に自作でのダンスシーンについて語った「対話」が収められている(ドゥニは、『10ミニッツ・オールダー』(2002年)で「ジャン=リュック・ナンシーとの対話」を制作し、『侵入者』(2004年)は彼の著書からインスピレーションを受けたと語っている。また2005年には、マチルド・モニエと彼女が率いるダンサーグループの活動を追ったドキュメンタリー作品『マチルドの方へ』を手がけている)。

私がダンスを選んだのはいつも、孤独さを表現するため、登場人物がとても孤独でいる瞬間を表わすためでした。それは一種のモノローグ(独話)の形をとります。ミュージカルコメディのラストは、多くの場合ダンスが入り、人々を結びつけますが、これとは違って、私は、映画の登場人物たちを結びつけようとするときには、けっしてダンスを使いませんでした。このソロダンスは観客に向けられていて、いってみればカメラと化した視線なのです。(『ダンスについての対話 アリテラシオン』より)

©2018 PANDORA FILM-ALCATRAZ FILMS
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クレール・ドゥニはまた、ソロの概念とは「観客の感情移入への孤独な呼びかけ」であるとも言う。だからこそ、ソロダンスの瞬間とは舞台やセットから何もなくなる瞬間に似ていると。たしかに彼女の映画のなかで誰かが踊り始めた瞬間、ドラマや物語はどこかへ消え去り、ただダンスをする身体だけが残される。彼らは自らの身体を世界に開放し、同時に、内なる自己を守るかのようにじっと身体を抱え込む。開放と孤独の融合。本書に書かれたジャン=リュック・ナンシーの言葉にも強く惹かれた。ソロダンスについて考えると、ある表現が頭の中に浮かぶのだと彼は言う。「世界にただひとり」。これこそまさに『ハイ・ライフ』の、いや、クレール・ドゥニの映画におけるダンスシーンすべてを表す言葉ではないか。世界にただひとり。純粋な孤独を引き出し、ひとつの世界をつくりだすために、人々はただ躍りつづける。

『ハイ・ライフ』にはもうひとつのダンスシーンがあった。宇宙船の廊下、換気口の前で、太く長い三つ編みを揺らしながらディブスはひとり身体を揺らしている。男が彼女に近づき、彼女の腰に手を添えようとするが、彼女はその手を拒絶する。自らを開放するためにはダンスが必要で、だが一緒に踊る誰かは必要ない。どこまでも孤独に身体を動かし続けること。そうすればこの抑圧された宇宙空間で本当の自由へと到達できる。それは、自慰ルームで絶頂に達することともどこか似ている。

©2018 FRESDEVAL FILMS, WANDA VISIÓN, OBERON CINEMATOGRÀFICA, LES PRODUCTIONS BALTHAZAR, SNOWGLOBE
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ハイメ・ロサレス監督の『ペトラは静かに対峙する』でもやはり孤独なダンスは登場する。画家のペトラは、ビデオカメラの前でダンスをし、その動画をもとに身体の動きを確認しながら絵に描く。カメラの前で、彼女はひとり両手を振り、身体を揺り動かす。だが、彼女が実際に描いた絵はとてもダンスを参考にしたようには見えない。彼女の絵に描かれた女たちはみな膝を抱えて座り込んでいたり、ベッドに寝そべっていたり、むしろ動かない身体として記録されている。だからだろうか。ペトラの絵は、著名な彫刻家ジャウメから「自分の内にこもった軟弱な絵だ」とこき下ろされる。

ペトラは、自分の作品を制作するためカタルーニャにあるジャウメの邸宅に滞在しにやってくるが、真の目的は別にある。亡き母にひとりで育てられた彼女は、自分の父親がジャウメではないかと疑念を抱き、真実を知るためにここへやってきたのだ。だがジャウメは欲望と権力の塊のような人物で、妻のマリサや一人息子のルカス、家政婦のテレサらも、ジャウメの冷酷さに怯えながら暮らしている。映画は、ペトラの父親探しがもとで引き起こされる家族の悲劇を、時系列をあえて崩した構成で見せていく。父を憎みながらもその支配下から逃れられないルカス。実の兄妹ではないかと悩みながらもルカスに惹かれるペトラ。夫の不貞にはまったく動じないがなぜかペトラを嫌うマリサ。ジャウメは、そんな彼らの不安や憎悪をすべて知りつつ、彼らをもっとも残酷な結末へと導こうと王座で陰謀をめぐらせている。疑惑を孕んだ親子関係。ジャウメによる陰謀とその結末。父殺しという主題。血縁と宿命で結びつけられた彼らの物語は実にギリシャ悲劇的だ。ギリシャ悲劇と言えば、ディブス医師を女王メディアにたとえ、禁忌をはらんだ父と娘の関係を「ギリシャ悲劇的な関係」と監督本人が述べていた『ハイ・ライフ』と思わず関連づけて語りたくなるが、それはまた別の話。

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言うならばこれは“本当の父親探しゲーム”あるいは“真実探しゲーム”についての映画だ。このゲームを主題にした映画を見るたびに、私はどこか奇妙な気持ちになる。当たり前だが、映画ではたいてい親子を演じる俳優たちの間にはなんの血のつながりもなく、となればもちろん身体的特徴が似ているはずもない。クローズアップのある映画の場合、演劇とは異なり、そこに映された人々が「映画のためにつくられた家族」であることが、彼らの顔の違いによってわかってしまうと『キングス&クイーン』(2004年)公開の際にアルノー・デプレシャンが語っていたが、たしかに映画の登場人物たちの顔を並べてみようと、身体を見比べてみようと、身体的相似点はけっして見つからない。だからここでは言葉だけが唯一絶対の力を持つ。「あなたが私の本当の父親です」という子による断定。もしくは「あの子の本当の父親はあなたです」という母の宣言。「お前は俺の息子だ」という父の告白もある。そのなかでもっとも力を持つのは母だろう。映画のなかで、「誰の子供かなんて、産んだ私にはよくわかってる」という女が告白すれば誰もが言葉を失い黙り込む。だがその説得力がどこから来るのか不思議でもある。それにしても、映像は真実を写し取る力を持っているはずなのに、このもっとも重要な真実を言葉でしか描き得ないというのは皮肉な話だ。その言葉は信じるに値するのか? そもそも言葉でしか証明できないものをどうやって信じるのか?

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画家であるペトラも、写真家のルカスも、目で見たことを信用せず、耳で聞いたことだけを盲目的に信じてしまう。ジャウメは逆だ。すべてを見つめ、どうすれば彼らを破滅させられるのか策略を練る。だからこそ彼は彫刻家として巨額の富を得、王座に君臨できたのだ。結局、ペトラもルカスも、誰もがジャウメの絶対的な言葉の力にひれ伏すしかない。だが言葉によって塗り替えられた真実は、また別の言葉によって簡単に塗り替えられる。母が必死で止めたにもかかわらず自らこのゲームに参加してしまったペトラは、こうして悲劇の連鎖を引き起こしてしまう。そういえばペトラ役を演じたバルバラ・レニーは、アスガー・ファルハディ監督の『誰もがそれを知っている』(2018年)にも出演しているが、こちらもまた“本当の父親探しゲーム”の映画だった。ハビエル・バルデムの妻役を演じたバルバラ・レニーは、誰もがたったひとつの“真実”に振り回されるなか、彼女だけがゲームへの参加を拒み、たった一言によって塗り替えられていく日常から逃げ出していく。

『ペトラは静かに対峙する』は、カメラによって語られる映画でもある。『幸福なラザロ』(アリーチェ・ロルヴァケル、2018年)の撮影を手掛けたエレーヌ・ルヴァールによるカメラワークが、映画に不穏さを与えている。カメラは、もうひとりの登場人物として誰よりも雄弁に物語を語る。誰もいない部屋を丁寧に映しては、人々が話している間も自由に部屋のなかを移動しつづけ、かと思えば誰もいない空間でぴたりと止まる。その動きはまったく物語と同期していないし、人物に寄り添ってもいない。いったいカメラは何を見つけようとしているのか。まだ語られていない物語があるというのか。私たちが目にしたもの以上の何かがそこに隠されているのか。カメラの動きそのものが、新たな疑念を生み出し、画面に緊張感を張り巡らせる。ロサレス監督はこの不穏な視線を「天使の視線」と語っている。身体を揺れ動かすことをやめたペトラに変わって、この不穏な天使だけが孤独なダンスを続けている。そうして“真実”とは別の何かを見ようとしている。

ペトラは静かに対峙する』は新宿武蔵野館、アップリンク吉祥寺ほか全国順次公開

「映画の平行線」とは?
女の出てこない映画はない。けれど女はまだ語り尽くしていない。 “映画の女” を見ながら感じたアレコレを、お喋りのように、戯れ言のように、手紙のように、交わしてみたい。「映画の平行線」は最新映画とともに、映画ライター・月永理絵と文筆家・五所純子が意見交換していく往復コラムです。