狼の潜勢力:アリーチェ・ロルヴァケル『幸福なラザロ』作品評

舞台は社会と隔絶したイタリア中部の小さな村。2018年カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞した話題の傑作『幸福なラザロ』を映画評論家の大寺眞輔がレビュー。イタリアの新鋭監督アリーチェ・ロルヴァケルの才能を見逃すな。

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25 April 2019, 7:37am

21世紀も二つ目の十年紀が終わろうとする現在、少しでもものを考える者であれば、「奇跡」や「美しい」「幸福感」といった言葉を完全な後ろめたさなしに口にすることは難しい。だがそれでもなお、アリーチェ・ロルヴァケルの長編第三作『幸福なラザロ』は奇跡のように美しく、正体不明の幸福感に満ちた、かけがえのない傑作である。

わたしたちは毎日のように新しい映画、新しい音楽、新しい何かに触れ日々の生活を送っている。しかし一世紀以上におよぶ映画史の流れと真っ直ぐに接続し、かつこれまで一度も見たことがない意外性や新鮮さを感じさせてくれる作品と出会うことができる機会などそうそう訪れるものではない。それ自体、まさに奇跡のような体験だと言うべきだろう。

『幸福なラザロ』は、農民たちの素朴な生活と求婚の儀式からはじまる。エルマンノ・オルミの『木靴の樹』などを想起させもする農民たちの描写は、戦後イタリア映画が得意としてきたネオリアリズムの最良の伝統を受け継ぐものだ。私たちは彼らの輝きに満ちた表情を共有し、労苦や貧困に痛みを覚え、そして素朴な歌や言葉を聴くことに大いに喜びを感じる。村の名は「インヴィオラータ」。「汚れなき場所」「無垢な世界」という意味だ。

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©2018 tempesta srl ・ Amka Films Productions・ Ad Vitam Production ・ KNM ・ Pola Pandora RSI ・ Radiotelevisione svizzera・ Arte France Cinema ・ ZDF/ARTE

私たちはここで、世界の片隅に存在する汚れなき村、無垢な人々の存在をスクリーンの外側から覗き見ることに喜びを感じている。だが同時に、そこにはすでにある奇妙さが漂っている。20世紀初頭の田舎の風景にも見えたその村の路肩には、あたかも撮影隊の装備が偶然映り込んだかのような場違いな顔でトラックが横付けされている。監督官ニコラはバイクに乗り、村を散策する領主の息子タンクレディは、まるでパンクロッカーのような格好で登場する。私たちはやがて、それが現在からわずか数十年前のイタリアであることを知る。

汚れなき村インヴィオラータは、世界の片隅で奇跡のように存在していた忘れられた場所ではない。それは、小作制度が廃止され、地主が農民たちの労働を搾取することが法律によって禁じられた現代において、侯爵夫人マルケッサが村人たちを騙すこと、真実を告げないこと、つまりその情報操作の暴力によって人為的に存在させられていた場所だったのだ。Inviolata(インヴィオラータ)、英語ではNot-Violatedという寓意的な名を持つその村は、あらかじめ暴力的に犯されること(Violated)で存在した人工の楽園だったのだ。

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©2018 tempesta srl ・ Amka Films Productions・ Ad Vitam Production ・ KNM ・ Pola Pandora RSI ・ Radiotelevisione svizzera・ Arte France Cinema ・ ZDF/ARTE

こうした矛盾や論理的な捻れは、映画全編を貫く奇妙な一本の導線となる。インヴィオラータは、領主の嘘で成立した虚構の村だ。そして村人たちは、彼女によって搾取されている。だが村人たちもまた、あまりにも無垢な青年ラザロに好き勝手な命令を出し、日々こき使う。マルケッサは言う。人間は獣と同じ。自由にさせれば過酷な現実に直面するだけ。だからこそ領主は村人を搾取し、村人はラザロを搾取する。搾取する者を悪人となじるのはたやすい。だが人間が生きる限り、実際には常に誰かが誰かを搾取し続けるのだ。

マルケッサの予言をなぞるかのように、映画は上映時間のちょうど真ん中ほどで大きな跳躍を果たす。数十年前から現在へ、地方の豊かな田園風景からくすんだ大都市へ。映画は時も場所も色彩も越える。搾取される農民だった彼らは、今では大都会の片隅で盗みや詐欺に手を染めることでかろうじて命をつないでいる。インヴィオラータの暴力から解放されたかつての農民たちは、今では都市の暴力的システムによって相変わらず搾取され続けているのだ。何も変化はない。ただ悪人の首がすげ替えられただけだ。権力への抗議や、進歩による貧困の超克。独占された富の分配と共有。これらはかつて、多くのネオリアリズム作品もその一つの拠り所とした社会主義的な抵抗の御旗であり、解放への夢であり、男性的で力強い物語類型であった。『幸福なラザロ』が私たちに語るのは、こうした革命や進歩を永遠に切望する無垢な夢ではない。だが同時に、ただ権力の前で頭を垂れ絶望に打ちひしがれることでもないだろう。

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©2018 tempesta srl ・ Amka Films Productions・ Ad Vitam Production ・ KNM ・ Pola Pandora RSI ・ Radiotelevisione svizzera・ Arte France Cinema ・ ZDF/ARTE

『幸福なラザロ』が私たちに見せる希望、その軽やかで不思議な幸福感。それを言葉で説明するのはとても難しい。少なくともロジカルなものではない。いや、それはそもそも実効的な力なのだろうか。こうした不思議な存在、得体の知れない力の源は、決して強調されることこそないものの、映画冒頭から私たちの前にすでに十分に示されていた。それは例えば、領主の横暴に不平を抱いた農民たちが歯の間から漏らすシュッという息の音であり、息の集積が生み出すつむじ風のようなものだ。つむじ風は何も変えない。何も生み出さない。監督官ニコラのバイクを止める力さえない。だが、それは確実にそこに存在する。さらに言えば、そこに美しく存在する。その美しさは、愚かなタンクレディの狭い心にさえ何か痕跡を残すほどのものだ。

この作品の英語題は、「Happy as Lazzaro(ラザロのように幸せ)」とされている。共同体の誰からも馬鹿にされ、利用され、それでも誰も憎まず微笑みを絶やさないラザロが幸せに見えるのは分かる。それは「村の馬鹿者」のキャラクター系譜に属している。だが「ラザロのように幸せ」とはどういうことだろう。その幸せは、ラザロではない私たちにとって一体どういう意味を持つのか。

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©2018 tempesta srl ・ Amka Films Productions・ Ad Vitam Production ・ KNM ・ Pola Pandora RSI ・ Radiotelevisione svizzera・ Arte France Cinema ・ ZDF/ARTE

彼は領主から搾取される村人たちからさらに搾取される。言わば、権力者と被支配者たち全員の汚れを一身に引き受ける存在だ。それはもちろん聖人ラザロのイメージを踏まえたものであり、さらにはキリスト的な復活の象徴性を帯びているとも言えるだろう。だが彼は、人類の罪を贖ったりはしない。最も虐げられた存在である彼が、人類全体の汚れを浄化する死と復活の宗教的ダイナミズムを駆動させることはないのだ。この作品の青年ラザロは、もう少し微妙で曖昧な微笑みを湛えている。軽やかで美しい力を帯びている。その神秘性は、どこか狼に似ている。

狼は、青年ラザロと共にこの作品のもう一匹の、あるいはもう一人の主要なキャラクターだ。それは映画の冒頭から村人たちの語りの中に登場する。大切な家畜である鶏を奪い取る厄災として怖れられているのだ。映画中盤では、インヴィオラータを出て行く村人たちを上空からまるで神のように見下ろす不思議な女性の語りの中に登場し、警察のヘリコプターとなり、電話の声となり、飢えた一匹狼となり、聖人に付き従う忠実な友となり、悪魔のように怖れられ、監督官を走らせ、ラザロを崖から突き落とし、そして再び彼を目覚めさせる。彼はすべての声となり、どこにでも入り込み、どんなものにも姿を変える。映画終盤では、都市の金融システムを司る銀行内部にさえ現れるだろう。そして彼は銀行を抜け出し、車の渋滞をすり抜け、どこか外に向かって走り去る。

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©2018 tempesta srl ・ Amka Films Productions・ Ad Vitam Production ・ KNM ・ Pola Pandora RSI ・ Radiotelevisione svizzera・ Arte France Cinema ・ ZDF/ARTE

彼は何も変えず、何も救わず、誰の罪も贖わない。だが同時に、誰も彼を止めることはできず、禁じることもできない。それはまるで、教会の中で聞くことが許されなかったオルガンの音色のようだ。権力は人を閉め出すことができるだろう。殺すこともできるに違いない。しかし、消えて行く音楽、走り去って行く狼を止めることはできない。狼も音楽も去って行く。ここではないどこかへ向けて。あらゆる虐げられた者たちと共に去って行く。

幸福なラザロ
4月19日(金)よりBunkamuraル・シネマ他全国順次ロードショー


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