『異端の鳥』監督が語る、発禁書を映画化した理由

2019年のヴェネツィア国際映画祭において、『ジョーカー』以上に話題を集めた『異端の鳥』。原作にある過激な暴力シーンや獣姦シーンを再現してまで伝えたかった本作のメッセージとは? ヴァーツラフ・マルホウル監督にきいた。

by Ritsuko Sambe
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06 October 2020, 11:00pm

1965年の発表直後からセンセーションを巻き起こし、数々のバッシングにさらされつつも、タイム誌の〈1923年以降の英語小説百選〉に選ばれるなど不動のベストセラーの地位を保つイェジー・コシンスキの小説『ペインティッド・バート』。その映画化となれば、どうしたって注目を集めずにはいられない。

映画化権獲得から11年を経て、監督ヴァーツラフ・マルホウルが出した答えが、169分、全編白黒35mmフィルム、スラヴィック・エスペラント語による長編映画『異端の鳥』だ。この映画は、ヴェネツィア国際映画祭で10分のスタンディングオベーションを受け、ユニセフ賞を受賞、批評家たちの絶賛を浴びた。一方で、映画祭上映中に退場者が「続出」するという、原作のスキャンダラスな面を彷彿させる事件も起きた。

『異端の鳥』の舞台は、第二次世界大戦中の「東欧のどこか」。一人の少年がホロコーストを逃れるため、田舎の老婆のもとに預けられる。しかし、老婆が病死し、家が火事で焼け落ちたことから、少年のサバイバルの旅が始まる。

金髪に白い肌を持つ周囲の人々とちがい、黒い髪と瞳、オリーブ色の肌を持った少年は、行く先々で異端視され、過酷な仕打ちを受けることになる。また、少年は、それまで両親に守られ住んでいた都会とはちがう、後進的で生活苦にあえぐ人々の暮らしや生き様を目にする。

呪い師、異常に嫉妬深い粉屋、小鳥を捕まえて売っている男、「低能」で自ら村の男の慰み者になっている女、司祭、少年を性のはけ口にする少女、ソ連の狙撃兵――多種多様な人々と関わるうちに、少年の無垢(イノセンス)は否応なしに奪われていく……。

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コシンスキの原作を映画化するにあたり、マルホウル監督は、物語に「真実味」を与えることを重視したという。監督の言う「真実味」とは何なのか、それはどうやって達成されたのか。インタビューから、監督の芸術観が浮かびあがる。

マルホウル監督は、ジャン=クロード・カリエール〔注:フランスの脚本家、著述家〕の「読み終わった後、本は窓から投げ捨て、心に残っていることを書く。それが鍵となる」という言葉をひいて、これこそが小説を映画化するときの正しいやり方だと言っている。それについて聞いてみた。

「実際に本は投げ捨てなかったけどね(笑)。何度も読み直したよ。でも、心に残っていることこそが鍵になるというのは本当だ。そして、すばらしいのは、一人ひとりが(同じ原作の物語から)ちがう鍵を得るということなんだ」

監督の「鍵」は何だったのだろうか。

例えば、原作小説の冒頭、「ぼくはマルタの家に住み、両親が迎えに来てくれるのではないかと毎日のように待ちわびていた」という一文(西成彦訳 松籟社)。「これは非常に重要な情報だ」と監督は言う。監督にとっての「鍵」のひとつだ。しかし、少年の両親を慕う気持ちや寂しさを映画で表現する場合、文章で綴られる小説とはちがう方法を取らなければならない。

そのとき、少年にセリフを言わせたり説明的なナレーションをつけたりするのは、「愚かしい方法だ」と監督は言う。実際、映画では、曇り空の下、少年が両親へのメッセージを川に流す、というシーンでそれを表現している。セリフやナレーションはもちろん、音楽すら一切使われていない。

「だって、(悲しいことがあったときに悲しい音楽が)現実に流れてくるわけじゃないだろう? 天から降ってくるわけじゃないしね(笑)。映画の中で、兵隊の吹くハーモニカなどは、実際にそのときに存在した音楽だからいいんだ。でも、単に(少年の)感情を強調するために音楽を使うなんて、余計だ」

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「音楽を使わないのと同じで、白黒フィルムで撮影したのも、映画に真実味を与えるための『手段』なんだ。白黒のほうがアーティスティックになって評価されるから、とかそんな理由ではもちろんないよ。あくまでわたし個人の考えだが、カラーだと、観客はわたしが望んでいない余計なものまで観てしまうかもしれない。白黒のほうが、観客の想像の働く余地が広くなり、感情を深く揺り動かすことができるんだ」

マルホウル監督が、観客の感情を誘導する音楽や、情報過多になりがちなカラー映像を、真実味を損なう「余計なもの」と考えているのがわかる。

そう考えると、映画の言語として、スラヴィック・エスペラント語という、実際に使用している人のほとんどいない人工言語を採用した理由もうなずける。これは、「東欧のどこか」で起こった物語だ。もし実在するどこか特定の国の言語を使えば、余計な情報が加わることになり、さまざまな憶測や見当違いの関連付けや解釈を呼び込むかもしれない。

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過剰な演出や余計な情報は「真実味を失わせる」として徹底的に排除する一方で、映画には、原作にないシーンも出てくる。

例えば、少年の面倒を見てくれていた男が首を吊るシーン。梁からぶら下がっている男を見つけた少年は、男を助けられないとわかると、脚に抱きついて体重をかけ、男の苦しみを早く終わらせてやろうとする。このシーンにももちろん、セリフやナレーションはない。だが、そこからは、少年の精一杯の愛情や、男の苦しみへの共感が読み取れ、胸をつく。

「そうなんだ。ほかにも、原作にはないシーンはたくさんある。エンディングもちがうしね。映画には登場させなかったキャラクターもいるし、原作では二人だったキャラクターを、一人の人間として描いてもいる。大切なのは、原作のストーリーやキャラクターをただそのまま再現することじゃない。観客が映画を見終わった後、本を読んだときと同じように感じることなんだ。これはなにも『異端の鳥』だけの話じゃない。原作のある映画を撮る際に、必ず言えることなんだ」

登場人物の外見をそっくりそのまま真似たり、物語中の出来事をただ忠実に再現したりしても、「真実味」は生まれない。「これは実話に基づいている」と主張することも、「真実味」とは関係ない。監督の考える「真実味」は、そういった表面的なことではなく、原作を読んだときと同じような感情――監督の「鍵」――を観客の中に呼び覚ますためのものなのだ。

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映画を見たとき、すぐに思い出したのが、アゴタ・クリストフの『悪童日記』だった。マルホウル監督もアゴタ・クリストフの原作には感銘を受けたそうだが、映画には「失望した」と言う。ナチス将校の性癖を表わすシーンや娘の獣姦シーンがカットされていたからだ。「あれでは、なぜ(登場人物のひとりの)娘が死ぬことになったか、本当には、わからない。だから、観客の感情を揺さぶることはできないんだ。あの映画を観て、わたしは本当に撮りたいものを撮らなければ、と思ったんだ。怖れてはならないと」

結果、『異端の鳥』では、原作にある獣姦シーンやレイプのシーンも描かれた。そのために「途中退場事件」も起きたわけだが(監督自身は「実際には数人出ていっただけなのに、メディアが大げさに書き立てた」と話している)、しかし、そういったシーンがなければ、なぜ少年が無垢を失い、暴力と残酷さの世界へ落ちていってしまうのか、その転落に真実味がなくなってしまうだろう。

「最初、少年は残酷さなど知らない、無垢ないい子として登場する。だが、地獄へ転落してしまう。それは悲劇だ。だが、もっと大きな悲劇は、それに彼自身が気づいていないことだ。彼は単に周りの大人の振る舞いを見て、それを真似しているだけなんだ。それが普通だと思ってしまう。これでいいんだ、と。これほど恐ろしいことはない」

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「映画の少年は、あらゆる子どもの象徴なんだ。苦しみ、殺され、虐待されている子どもたちの。わたしはユニセフで働いていたから、そういった子どもたちを実際に目にしてきた。この映画にはいろいろなメッセージがあるが、もっとも大切なのは『二度とこういうことを起こすな』ということだ。残念ながら、今もこういった状況は続いている。だが、この映画を見た人が、それを知って、彼らを救おうと思ってくれれば、この映画を撮った意味がある」

別のインタビューでは、「『異端の鳥』は戦争映画でもホロコースト映画でもなく、時代を超越した普遍的な物語だ」とも述べている。タイトルの『異端の鳥』(原作タイトル『ペインティッド・バード=色を塗られた鳥』)は、物語内のエピソードから取られている。ペンキを塗られた小鳥が、仲間の群れにもどろうと空へ舞いあがっていくと、仲間たちはその小鳥を異端者とみなし、つつき殺してしまう。

原作の上っ面ではなく、心に残ったもの――「鍵」を表現することを目指したマルホウル監督の『異端の鳥』は、コシンスキの原作から「真実味」を取り出し、時代を超えた普遍的な作品としてよみがえらせたと言えるだろう。

『異端の鳥』

2020年10月9日(金)よりTOHOシネマズ シャンテ他全国ロードショー

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