ハーヴェイ・ワインスタインの興隆と失墜 2/2

彼のスキャンダルはなぜ映画界にとって重要な意味を持つのか? 映画評論家・大寺眞輔が、ワインスタインとウディ・アレンの事件からハリウッドにおける「家族」問題を考える。後篇は、映画を覆うメディア環境の変化とその可能性について。

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jan 31 2018, 8:00am

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[秘密]

家族が共有するのは経済的利益ばかりではない。秘密もまた共有する。ここで興味深いのは、ハーヴェイ・ワインスタインによるセクハラや性的暴行がすでにこの時代から映画業界において公然の秘密であったことだ。誰もがワインスタインの悪辣な手口を知りながら、誰一人としてそれを公に告発することができなかった。90年代以降、ワインスタインによる女性への暴行やレイプを告発する記事がジャーナリストたちによって何度も書かれ、その度に闇に葬られてきた事実が現在少しずつ明らかになりつつある。ある場合には、雑誌デスクがワインスタインに都合の悪い記事を握りつぶし、また別の場合には〈ミラマックス〉や〈ワインスタイン・カンパニー〉の法務部が様々な訴訟を取り下げさせてきた。こうしたすべてが一つの家族、一つのシステム、一つのマシーンとして機能してきたのだ。古典的スタジオシステムの崩壊以降、ワインスタインはそれに変わる別の共同体、オルタナティブな家族形態を間違いなく確立した。しかしそれは同時に、古くからハリウッドを支配してきた男性中心主義的体質を温存し、彼らの性的欲望を現実化させる環境を用意し、セクハラや性的暴行といった犯罪を隠蔽するために機能するものでもあったのだ。ここにこそ、この数十年に及ぶ映画業界最大の不都合な真実がある。ワインスタインによる女優たちへの性的暴行が、しばしば華やかな国際映画祭が開催される豪華ホテルの一室、映画祭のバックステージで行われたことはきわめて象徴的な事実だろう。

[家族]

ワインスタインのシステムほど巨大ではなく、また複数の主要メディアを巻き込んだ組織だった宣伝や隠蔽工作が存在したとは言えないにせよ、一方でウディ・アレン周辺にも同じ類型の問題を指摘することができる。つまり、潤沢な予算が用意されているわけではなく、商業的成功もさして見込めない彼の作品に、それでも一作ごとに多数のハリウッド・スターたちが出演したのは、アレンが俳優の演技を重んじる監督であることと同時に、彼の作品に対する芸術的評価が背景にあったからだ。簡単に言うと、評論家たちから極めて高く評価される彼の作品に出演することで、スターたちは自らのキャリアを充実させ、演技に磨きをかけ、俳優としてランクアップし、大きな賞を獲得することを望んだ。

作家的知名度の高い映画監督の作品に出演する俳優たちには、もちろん多かれ少なかれこうした願望があるだろう。だが、アレンのケースが特殊であるのは、著名なスターたちが俳優組合の保証する最低賃金しか支払われないにもかかわらず、彼の作品にこぞって出演した事実である。男性中心主義がいまだ根強くハリウッドで機能し続ける一つの証拠として、男優と女優との間の大きなギャラ格差が取り上げられる事実からも、この問題が決してささやかなエピソードにとどまらないことが分かるだろう。サラリーを度外視してアレン作品に出演することは、すなわち彼の決めるルールに完全に従うことを誓う俳優たちの意思表示であり、経済的理由を超えた象徴的行為でもあるのだ。アレン作品への出演を希望する俳優たちが、彼のプライベートでのトラブルを知りつつ、それを明確に批判できなかったとしても全く不思議ではない。ワインスタイン問題の拡がりを受けて、アレン作品に出演した俳優たちがその選択を今では後悔しているといったメッセージを次々発せざるを得なかったことにも相応の理由がある。彼らは、もはや自分がアレンの家族に属していないことを宣言する必要性を感じているのだ。

問題はそればかりではない。ローナン・ファローによると、彼の家族が父ウディ・アレンに対して性的暴行の訴えを公にして以降、アレンの周囲を固める強力なパブリシストたちは毎日のようにあらゆるメディアにメールを送りつけ、大きなプレッシャーを彼らにかけ続けたとのことだ。多数のセラピストや弁護士たちの言葉を引用しつつ、いかにアレンが無垢であり、その家族でもある告発者が精神異常者で個人的復讐心からアレンを陥れようとしているかと彼らはそのメールで繰り返し主張した。こうしたメールにはオープンなCCリストが付されており、ウィル・スミスからメリル・ストリープにいたる著名映画人の名前がそこに記されていたそうだ。したがってメールを受け取ったジャーナリストにとって、アレンの主張に反する立場からの記事を書いた場合、こうしたハリウッドのトップリストに位置する人々とのコンタクトを失うかも知れないという暗黙の脅迫としてもそのメールは機能したとのことである。ここでも、映画業界の濃密な家族的つながりが、その紐帯を脅かす者に対する抑圧や隠蔽のために利用されたわけだ。一般に、映画監督のような作り手が犯した犯罪や性暴力に対しては、映画プロデューサーのそれに比べ同情的な目で見られる場合が多いだろう。しかし、メディアでの評価や評判を基軸とし、それに反する都合の悪い裏側を抑圧し隠蔽しようとする戦略において、両者に大きな違いはないと言える。

[戦略]

インディペンデント映画とは、経済原則から比較的自由に映画を作るための一つの試みである。それは本来、ヒット作を作るという目的に奉仕することなく、質の高い映画を作るために存在するものだ。したがって、インディペンデント映画を作る人間が聖人君子である必要は全くない。これは一見正論であるように見える。しかし実際のところ、私たちは作家映画やアートハウス映画、インディペンデント映画に高い理想やすぐれたメッセージ、高潔な人間性を見たいとしばしば願うものであり、より重要なことには、逆にこうした作品の作り手たちもまた、私たち観客の無根拠な期待をしばしば戦略的に商売に変えている。ワインスタインがはじめて商業的成功を収めたのは、アムネスティ・インターナショナルのPR映画(#1)だった。また、都会生活に潜む様々な罠に落ちた主人公たちが自力で復活しようと努力する姿をウディ・アレンが描くとき、私たちはそこに映画作家の誠実な肖像を見いだそうとするものである。創作者に対する私たちの漠然とした好意や期待を味方に付けることで、彼らの強力なメディア操作や隠蔽工作は最大限に効果を上げる。家族の疚しい秘密は、このようにして守られてきたのである。

[ソーシャルメディア]

だが、ハーヴェイ・ワインスタインが数十年にわたって築き上げてきたこの強力なシステムは、一体なぜ突然機能しなくなったのだろう。その理由として、彼が経営するワインスタイン・カンパニーの低迷やアカデミー賞におけるプレゼンスの低下を指摘する声もある。だがそれは単なる問題の表層に過ぎず、本質はその背後にあると言うべきだ。すなわち、それは時代の変容であり、ワインスタインが作り上げた家族的共同体の崩壊である。Netflixに代表されるVODないしストリーミングサービスの興隆も大きな要因の一つであるが、より広い意味ではインターネットやソーシャルメディア(SNS)の登場を含めたメディア環境の大きな地殻変動が原因だと言うべきだろう。今日、俳優たちや映画人を取り巻くメディア環境は大きく変化している。彼らの多くはTwitterやInstagramなどのSNSを使って自ら情報を発信する。そして、多くのフォロワーたちに取り囲まれ、自分の知名度やイメージを保ち、評価やプレゼンスを向上させる必要に迫られている。

ここで機能するのは、ワインスタインの時代と変わらない評価経済であり評判システムであろう。だが、その評価を下すのはメディアやジャーナリストではなく、彼らの言葉がダイレクトに届けられるファンや他の一般ユーザーだ。かつて、ある場合には様々な誹謗中傷や心ない言葉から自らを保護し、別の場合にはやましい秘密を隠蔽してくれたメディアの緩衝地帯、家族の防護壁は、もはやそこには存在しない。自らが発する言葉という皮膚一枚で接しつつ、彼らは広大な言葉の海、人々の感情の中にたった一人で泳ぎ出さなければならないのだ。不用意な言葉、迂闊な態度を示せば、あっという間に自らが炎上してしまう。時代は変わった。人々が抑圧を感じるのは、もはや権威あるメディアのオピニオンや言論統制に対してではない。

アレン作品に出演することが、アレンのルールに従うことをしばしば意味していたのと同じように、SNSで発信する者はSNSのルールに従わなければならない。そしてそのルールとは、決して人々の本音をそのまま表すものではない。SNSとは、誰もが強制されることなく自発的に自分の価値観を発信するためのものだが、だからといってそこに書き付けられる言葉が必ずしも本当の気持ちや感情を表しているとは限らないのだ。むしろ、本音が書かれているという建前によって機能する場所、擬態の場所だと表現すべきかもしれない。そして、本音であれ擬態であれ、時にリベラルであり、時に政治的に正しく、時に貧困問題に心を痛めるSNSの全体的空気に敏感であることが、そこではなにより強く求められる。それは正義の過剰を生み出しやすい場所だろうか。そうかもしれない。いずれにせよ、ワインスタインのセクハラに代表されるように、共同体の秘密を守り通すことがそのまま構成員全体の利益につながるといったシステムは、もはやそこでは機能していない。

[変容]

誰もが声を上げ、発信することのできるSNS時代は、ワインスタインらによる長年の悪辣な行動や犯罪をついに明るみに出すことに大きな力を与えた。これは間違いなく巨大な前進である。だが同時に、常に世間の顔色を窺って自らの言動に配慮しなければならないオープンな環境は、映画製作のようなもの作りにとって決して理想的環境であるとも言えない。一般に、創作者はしばしば弱みや秘密、ないしは鬱屈した暗い感情を抱える存在である場合も多いからだ。スタジオシステムやワインスタイン・システムのような家族的共同体とその防護壁を懐かしむ声が上がるのも仕方ないことかもしれない。しかし一方、時代の変容の中で、映画業界もまた現在のソーシャルメディア的環境を間違いなく自らのために利用しているのである。

例えば、インディペンデント映画にとって主要な資金調達手段の一つにまで成長したクラウドファンディングがそうだ。こうした方法を使って人々が映画製作への協力を呼びかけるとき、それは単純に出来の良い映画を作るための資金提供をアピールしているだけとは決して言えない。つまり、クラウドファンディングにおいては、呼びかけを行う者のメッセージ性や誠意、あるいは人間力を担保にすることがしばしば行われるからだ。簡単に言えば、この人は信頼できるという期待や安心感を振りまくことで、多くの場合、人々はクラウドファンディングを通じてより多くの映画製作資金を集めることが可能となる。現在の映画製作者もまた、こうしたSNS時代の評価システムの中で生きているのだ。

であるとするならば、私たちは新しい時代の中で自らに都合の良い部分だけを利用するというわけにもいかない。時代は変わった。映画もまたその中で生きていくしかないのだ。ワインスタインらのスキャンダルが明らかにしたのは、現在の映画を取り巻く時代の変容、環境の変容、メディアの変容であり、それに応じた映画人の変容であり、その中で自らもまた変わって行かざるを得ないという事実の再確認であったのではないだろうか。

[新しい美学]

一方、映画業界そのものと深く結びついてきた男性中心主義的な体質は、実のところ、歴史的にその中で形成されてきた映画美学そのものにも深い影を落としているとする指摘もある。ローラ・マルヴィの「視覚的快楽と物語映画」(#2)は、こうしたベーシックな映画美学、ないし映画の原理に結びつく男性中心主義を分析した先駆的研究の一つである。私たちは長い歴史の中で醸成されてきたシステムの中で、無意識のうちに若いグラマラスな美女のみをカメラの前に据え、性的対象化し、彼女を美しく撮るための照明やカメラの位置を注意深く構築し、パターン化し、そして一方、監督やカメラマンには男性ばかりを採用してきたと同論文では指摘されている。事実、アカデミー賞の長い歴史において、女性撮影監督がオスカー候補となったことはこれまで一度もなかった。

ところが、ワインスタイン事件後初めてのアカデミー賞となる2018年の今回、ついに『マッドバウンド 哀しき友情』によって女性撮影監督レイチェル・モリソンが候補としてあげられたのだ。これは、ハリウッド、そして映画界全体が本当の意味で変化していく予兆となるだろうか。映画の原理主義が男性中心主義と結びつくことをよしとした時代は、すでに終わりつつあるように思う。映画は時代と共に変化するべきものであり、それはネガティブな意味ばかりではなく、ポジティブな意味でも受け止められるべきだ。私たちの知らなかった全く新しい映画の美学、新しい映画の感性が、私たちの歩む先に待っていることを願ってやまない。

#1
『The Secret Policeman's Other Ball』(ジュリアン・テンプル, 1982)
#2
「Visual Pleasure and Narrative Cinema」(Laura Mulvey, 1975)
邦訳「視覚的快楽と物語映画」(斉藤綾子訳「imago」1992/11所収)