collage by Atsuko Nishiyama

「ソフトボイルド・マニフェスト」C.I.P. Books主宰・西山敦子

「声を上げることの持つ強さを信じながら、ときに沈黙せざるをえない状況があるのをいつも意識すること」。インディペンデント出版レーベル〈C.I.P. Books〉主宰の西山敦子による“ソフトボイルド宣言”。

by Atsuko Nishiyama
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30 May 2019, 9:25am

collage by Atsuko Nishiyama

「マニフェスト」なんてタイトルをつけてしまったけど、そんなふうに読まれるものとしてはかなり頼りない文章になりそうだ。強い言葉は出てこない。

昨年の夏、自分の運営するC.I.P. Booksという出版プロジェクトの今後の指針となる標語のようなものを思いついた。「ソフトボイルド・イズ・ザ・ニュー・ハードボイルド(SOFT BOILED IS THE NEW HARD BOILED)」というのがそのフレーズ。革新的な価値の転換を意図するようなものではないにせよ、意味のない言葉遊びでもない。私は大まじめだ。

ハードボイルドには文字どおり「固ゆでの」というほかに「ドライな」とか「現実的な」とか、小説などの文体や内容を形容する「感情を排した、簡潔な事実を描写する」などの意味が含まれる。言葉の拡大解釈になるかもしれないけれど、揺らがない毅然とした強さを内側から作り上げている、というイメージも私は持っている。

例えば、カーソン・マッカラーズの短編小説『あんなふうに』の語り手である13歳の少女。「あたし」と名乗るこの語り手には、5歳上の仲の良い「姉貴」がいる。最近ボーイフレンドができた姉貴は最初こそ楽しそうだったものの、ある夜を境にひどく悲しげでおとなびた、無気力な存在になってしまう。姉貴のこの変化に誘われるように、語り手は出産で命を落とした叔母を思い出し、口紅だとかストッキングだとかを急に話題にし始めた仲間たちに違和感を覚える。異性愛関係やそれが基盤となった社会のなかで大人の女性になっていくことに「あたし」は激しく不穏なものを感じて怯え、無性に腹をたてている。そして泣きながら姉貴をぶってしまいたいような衝動を抱えつつ、「あたしはほかの誰にも負けないくらい無愛想(hardboiled)だ」と頑なに宣言するのだ。この態度は、社会が別の形で彼女に課す抑圧の表れだ。ひどくとり乱した自分を無理に内に押し込めさせる。

そこで思い出すのは田中美津『いのちの女たちへ』のなかのエピソード。足の悪いリブ仲間の女性の「落ちつきぶり」が気にかかる、と書かれていた。「痛み」を通してものごとを自分のものとして把握する彼女の、「とり乱しの少なさが不思議だった」と田中は言う。一緒に電車に乗っても、彼女は周囲から送られる視線などものともしない。「あたしは彼女の落ちつきの中に、彼女をとり乱させないこの社会の抑圧を逆倒影に、視る。彼女の生き難さをそこに、視る。とり乱しては生きていけない、というそのことこそ、まさしく何よりも、この社会が彼女に加えている抑圧の本質を物語っているではないか。とり乱させない抑圧は、最も巧妙で質が悪い。」

社会的な抑圧を受けやすい立場にあって、あらゆる理由で——自分を守るためだけでなく、むしろ他者のために、正しさを貫くためにも——ハードボイルドであることを選んだ、あるいはそうせざるをえなかった経験を持つ人はたくさんいるだろう。かつて日常のなかでの性差別に対して「そんなのどこ吹く風、という態度で相手にしない」「自分個人の能力の高さで文句を言わせない」というようなことを言っていた知人たちを思う。そんなふうに「できる」というのは、すごいことだ。これまでには、そうやって開けてきた道もたくさんあるのかもしれない。それでも私は「できない」場合のことを考えてみたい。地面に掘られた穴のなかから、ほかの人たちの立っている地点を見上げるような心境のこと。誰からも見えていないのでは、と焦る。「どうせ」と「それでも」に引き裂かれ、ジタバタしてオロオロしてメソメソする。ソフトボイルド。けれどそれは同時に「とり乱させない抑圧」を課されることに抗う姿勢ともなりうるはずなのだ。

私が運営する出版プロジェクトから最初に刊行したのはケイト・ザンブレノの『ヒロインズ』という本だった。有名な男性作家たちの妻や愛人やミューズだったことによって自身は思うように書けず、ときに精神を病んでしまった女性たちに気持ちを重ねるようにしながら、語りは進んでいく。著者のザンブレノは過去に生きた女性たちと交信するように彼女たちを身近に感じ、その筆致には怒りと悲しみがこもる。ときに心は荒れ狂い、ときに無力感に襲われて何も書けなくなってしまう。ザンブレノは、男性中心主義的な主流文学の歴史に批判を加え、同時にそのような文学史に名前を残せたか否かを基準として書き手や作品を評価すること自体を無効化していく。書きたいと思いながらなにひとつ書くことさえ叶わず、書いても気づかれることなく終わった人たちもまた、歴史に埋もれた書き手たちであると絶えず読者に意識させることによって。痛々しくソフトボイルドな(アンチ・)ヒロインたちを入れ替わり立ち替わり何人も登場させることで、彼女たちには「できなかった」ということが持つ意味の大きさをも立ち上がらせていく試みといえよう。

文筆家でパフォーマーのヨハナ・ヘドヴァは(ほかのいくつかの本と共に)『ヒロインズ』をインスピレーション源にあげながら“Sick Woman Theory”という文章を発表している。病気と怠惰と無為という「およそ反ヒーロー的な特質を用いて、大きな論を展開する」企てだ。ヘドヴァは持病に苦しみ、無気力に苛まれ、例えば人種差別に反対する抗議行動のため街に出て声を上げたくとも病身で叶わないなど、引き裂かれるような自身の経験を書く。「抑圧的な体制——特に昨今のネオリベ的で白人優位な、帝国主義的資本主義のはびこる、シスヘテロ家父長制——に繊細に反応する私たちの精神と肉体。(略)私たちを〈病気〉にしているのは、実は世界そのものなのだ。」私たちの身体は傷つきやすさによってその存在を定義される。世界はこの事実を基盤として作り直されるべきだ、とヘドヴァは宣言する。

ソフトボイルドであること。とり乱すこと、震えてしまうこと。声を上げることの持つ強さを信じながら、ときに沈黙せざるをえない状況があるのをいつも意識すること。どうしても定まらないこと、矛盾を抱えること。これから先もしばらくはそれを標榜し、そこにある力を文学のなかに探っていこうと思っている。


この記事は『i-D Japan No.7』ヒーロー号から転載しました。