Vetementsから考える “アンチビューティ”

誰もが簡単に美へアクセスできる今、ひととは違う自分を打ち出すには、“美しくない”ことが唯一の手立てなのかもしれない。ドイツの表現主義からハードコアパンク、そしてVetementsの登場まで、大衆的美しさの基準からは外れた、“ある美”の歴史に迫る。

by Aleks Eror
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07 June 2016, 7:15am

1980年代に撮った自分の写真を見るときには決まって、なんとも言えない恥ずかしさを感じる。いま撮っている写真も、後に振り返るときには、穴があったら入りたくなるにちがいない。なぜなら、現在もてはやされているファッションが、80年代を彷彿とさせるほど醜いからだ。Nikeのハラチが最も人気のシューズになっているとは、ファッションは一体どうなっているのだろう? 極めつけに、つい数年前までモールにたむろするキッズたちだけがクールだと捉えていたファッションをVetementsがオートクチュールの世界にまで持ち込み、評価されているのだ。旧世代などと言われるのを覚悟で言うが……「服って人を美しく見せるためのものじゃないの?」と私は思うのだ。

Vetementsに関して言えば、私はデムナ・ヴァザリア(Demna Gvasalia)の作品がもてはやされるのを理解はできる。卓越したマーケティングと独自性、そして価格によって生み出される高級感、どれをとってもさすがだとは思うが、しかしこうしたものはすべて購買者の望みがあってこその要素であり、服の根本に関わる要素ではない。ヴァザリアの作品には明らかな芸術性があるし、オブジェとしてVetementsの服を眺めればため息も出る。しかし−−これに関しては、誰も、なんぴとも、私を説き伏せることなどできない−−Vetementsの服を着て私が美しく見えるなどということは、天地が逆転してもありえない。

服の趣味は主観的なものだが、それはクオリティやプロポーション、比率といった客観的な要素によって成り立っているものだ。古典建物が見るものを魅了するのは、それが人体のプロポーションを基盤としてデザインされているからで、我々人間のビジョンにフィットするからこそ私たちの目に訴えかけるのだ。そこには人間が本能的に惹かれてしまう黄金比がある。それは、意識の中で後天的に形成された好みやアイデンティティ由来のセンスを超えて、私たちに訴えかけてくるものだ。"フィットする"などという概念を打ち崩すVetementsのシェイプとサイズ感は、当然ながらそのような美的感覚とは相容れない。だからこそのアピール力があるわけだが……ひょっとすると、それこそが私の言いたいことなのかもしれない。醜さこそがこのブランドの魅力なのではないか、と。

"オブジェとしてのVetementsの服には明らかな芸術性がある。しかし−−これに関しては、誰も、なんぴとも、私を説き伏せることなどできない−−Vetementsの服を着て私が美しく見えるなどということは、天地が逆転してもありえない。"

Instagramの#FoodPornから、レタッチが施された広告写真、ストックフォトに見る笑顔の洪水に至るまで、私たちが生きている現代という時代は、"美しい"ビジュアルに溢れている。IKEAで家具を揃えれば、スカンジナビア特有のミニマリズムがどんな小さなアパートでもショールームのような部屋に作り変えてくれる。また、インターネットがもたらした情報の民主化によって誰もが美的センスを簡単に育むことができるようになっている。

かつてはメイクアップアーティストや関係者しか知ることがなかったメイクの専門知識も、いまやZoellaを始めとするビデオブロガーたちによってYouTubeで世界に発信されている。11歳の女の子でも完璧なメイク術をマスターできるのだ。部屋の内装をクールにしたいと思っても、もはやインテリアデザイナーを雇う必要などない。おしゃれなインテリアデザインに特化したブログで十分に事が足りる。VersaceやAlexander Wangといったラグジュアリーブランドの服も、今やH&Mとのコラボレーションで安価になっている。美しい容姿は、もはや難しいものでもなんでもない。今日、それはスタンダードなのだ。

ついには、ハイファッションまでもが、"美"を差し置いて、見栄と独自性に重点を置くようになっている。今という時代は、スティーブ・ジョブス化ともいえるビジュアル文化にあって、人もモノも画一的に美しい(「規範的」という意味において)。そんな世界で周囲から一歩抜きん出るには、もはや周囲に少なからず嫌悪感を抱かせる方法をとるしかないのだ。

"人も物も美しい、目に優しい世の中で、周囲から抜きん出るには、もはや周囲に少なからず嫌悪感を抱かせる方法をとるしかないのだ。"

1969年に創業し、現在も成功をおさめ続けているモデルエージェンシー、Ugly Models社は、まさにその"醜さ"をベースにビジネスモデルを確立した企業だ。そのクライアントリストには、Calvin KleinやDIESEL、『Vogue』誌が名を連ねている。ビジュアルでの美的感覚を超えた領域では、GoCompareがTVコマーシャルでオペラ歌手を起用したのが記憶に新しい。苛立たしさ−−これも醜さの一形式だろう−−で、視聴者に強いインパクトを残している。醜さというものにある程度の魅力が内在していることは明白で、ヴァザリアはこれをよく認識しているのだ−−「Vetementsでは、"美しくないよね。だからこそ良いんだ"っていう精神でものづくりをしている」と本人も語っているのだから。

しかし、彼の言うような視点は、決して真新しいものではない。大衆的な美の価値観を蔑み、それに逆行していると見られることも多いヴァザリアだが、ここ100年を見ても、実に多くの哲学者やアーティストが"美しくないとされるもの"に惹かれてきたようなのだ。ドイツ人哲学家カール・ローゼンクランツは、1853年に「醜さの美」という言葉を生み出している。20世紀の訪れを前に、オスカー・ココシュカやエゴン・シーレなどのウィーン表現主義画家と、彼らに多大な影響を与えた表現主義の父、グスタフ・クリムトが、"絶対的な美"という概念を打ち崩し、"美しさこそが芸術の目的である"という概念にも疑問を投げかけた。

オーストリアに表現主義が生まれたのは、アカデミック美術を代表するハンス・マカルトなどが古典的な美を強く打ち出していた時代だった。表現主義絵画では、病気を患った者や体が変形した者、娼婦や、社会の近代化によって影で生きることを余儀なくされた者などがモデルやテーマとして好まれた。それは、"美しいとされていないもの"に真実を見出すムーブメントだった。そんな新たな美の感覚にあって、当時もてはやされていた芸術は、"家や暖炉周りに飾る、無害で可愛いデコレーションにしかならない、美と真実の隔離地区"とみなされた。表現主義の芸術家たちは、目を背けたくなるような身の回りの現実を描き出す上で、古典的な美の感覚が無意味であると考えたのだ。

"美とは、ただただ口当たりの良いものなのかもしれない。しかし、醜さには、根源的な疑問を持つ人々を惹きつけ、価値観を転覆させる力がある。"

同じことが他のアートの世界でも言える。1980年代のハードコアシーンでは、ブラック・フラッグやマイナー・スレットなどのバンドが、レーガン政権下のヤッピーに、そして過剰生産と耳障りの良さで骨抜きとなった70年代スタジアムロックに、反旗を翻した。彼らは、メロディーも曲の構成も、ミュージシャンであるという意味さえも問い直し、シンプルな3コード進行のパンクを誰よりもハードに、速く演奏することに美を見出した。曲はどれも1分ほどだ。ウォール・オブ・ノイズとでもいうべき、ともすれば耳障りな音楽だった。表現主義の絵画同様、彼らの音楽はその時代を反映していた。メインストリームの美意識への反撃ともとれる彼らの音楽は、歴史的なムーブメントだった。20世紀でもっとも重要なシーンと考えられ、今日の音楽界に与えた影響も計り知れない。

ここに、美を読み解くヒントがある。ときに美は、印象を残すにはあまりに受動的に優しすぎるものなのかもしれない。ひとを癒して満たしてくれる、幸せの源−−反旗をひるがえすでも、既成の価値観を揺すぶるでもなく、美とは、ただただ口当たりの良いものなのかもしれない。それは一般大多数の人間の美的感覚であり、端くれたちのものではない−−それが美というものなのかもしれない。Appleは、そのエンジニア的に完成された美で、今後も世界規模での美の基準を作り出していくだろう。一方で、"醜さ"にある美(特に、人を選ぶ"醜さ"の美)には根源的な疑問を持つ人々を惹きつけ、価値観を転覆させる力がある。"醜さ"には世の中を変え、人々に新たな視点を示し、新たなテイストを生む力がある。そしてそれは、ただ可愛いだけのものよりもずっと魅力的だと思うのだ。

@slandr

Credits


Text Aleks Eror
Photography Jason Lloyd Evans
Translation Shinsuke Kuriyama at WORDSBERG Inc.

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