映画の平行線 第9回:『第三世代』『13回の新月がある年に』

月永理絵と五所純子が、毎月公開される新作映画を交互に語り合っていく本連載。今回はドイツの巨匠ファスビンダーによる異色の2作『第三世代』『13回の新月がある年に』を取り上げます。

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04 November 2018, 2:30am

女の出てこない映画はない。けれど女はまだ語り尽くしていない。 “映画の女” を見ながら感じたアレコレを、お喋りのように、戯れ言のように、手紙のように、交わしてみたい。「映画の平行線」は最新映画とともに、映画ライターと文筆家が意見交換していく往復コラムです。


『13回の新月がある年に』は、ある人間の人生最後の五日間の出会いを描き、これらの出会いをもとに、最後の日、つまり五日目、その後の日々を生きないことにしたこの人間の決断が否定されるべきなのか、少なくとも理解できるのか、あるいはもしかすると受け入れられるのか探ろうとするものである。『映画は頭を解放する』(R.W.ファスビンダー著、明石政紀訳、勁草書房)より

さあ好きなだけ語ってください。自分の言葉で。自分の経験を、あるいは自分が知っている誰かの経験を。時間はいくらでもありますから。みんながあなたの語りを聞きますから。

そう促されて、人はどれだけ自分の言葉を語れるだろう。私ならきっと何も言えなくなる。もしくは、誰か、自分の言葉を引き出してくれる相手を望むだろう。何を語ってほしいのか、その問いを投げかけてほしい。会話には慣れても、一人で語ることへの恐怖心は克服できない。話し続けるうちに、自分の声が自分から離れていくような、言いたいことからどんどん離れていくような、そんな恐怖心を私は拭えずにいる。

ジャクソンハイツ

ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ』を見て、人はこれほど自由に語れるのかと驚いた。多様性の街だというジャクソンハイツに暮らす人々の姿を記録したこの映画では、様々な人々が、自分の問題をカメラの前で語ってみせる。レストランで受けた差別行為を告発する女性。再開発により店をたたまざるを得なくなった経緯を説明する店主。「もうこのあたりでそろそろ…」という無言の圧力(もしくは懇願)などものともせず、人々はみな、自分の怒りや不満を語り続ける。なかでも強い印象を残すのは、メキシコから国境を越え、アメリカへ移住した女性だ。おそらく移民たちが抱える問題を共有するための集会で、リーダーらしき人がまずこう発言する。「誰か、自分がどうやってアメリカにやって来たのか語れる人はいますか?」そこで件の女性が立ち上がり、自分の娘が体験した話を語り出す。仲介業者を雇ってメキシコから国境を越えようとしたが、国境警備隊の襲撃を受け、命からがら砂漠へと逃げ込んだ彼女は、同じく逃げおおせた女性とふたりで、砂漠のなかを何日間も彷徨う。水も食べ物もない。ここがどこかもわからない。かろうじて通じた携帯電話だけを頼りに、ふたりは何日間も歩き続ける。そんな過酷な冒険譚を、実際にはその場にいなかったはずの女性が、まるで自分の体験かのように語り続ける。合いの手も頷きも必要ない。自分が聞かされた物語を伝える、ただそれだけのために語り続ける。その姿は現代の語り部のようだった。

ジャクソンハイツ

映画に映された語り部といえば忘れられない映画がある。岡村淳監督の『郷愁は夢のなかで』(1998年初版製作、2001年改訂版製作)。ブラジルに住み、日系ブラジル人たちの映画を数多く手がける岡村監督が、日本から移民したある老人の人生をたどったドキュメンタリー映画。アマゾンにある小さな町で、ひとり掘っ立て小屋のような家で暮らす西さんがいる。岡村監督が西さんに興味を持ったのは、彼が、「浦島太郎」の物語を独自に解釈し、オリジナル版を日々創作し続けているという話を聞いたからだ。これだけ聞くと奇妙な話だが、実際に映画を見てみると、西さんが、国の政策に従いブラジルに移住したものの、全財産を失い、故郷にも帰れずにいる自分の人生を「浦島太郎」という物語に重ね合わせていること。その細部を日々自分なりに変え続けていること。その行為を、ただ自分のためだけに行っていることなどがわかってくる。小屋のなかで、テープレコーダーに向かってオリジナルの「浦島太郎」を朗読する西さんの姿は、見ているだけで震えが止まらなくなる。ほとんど呪文のような声で、西さんは語り続ける。私が語りの持つ異様な力を実感したのは、この映画がきっかけだった気がする。

『ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ』で見せた、メキシコからの移民女性の、聞き手さえ求めていないような堂々とした語りぶり。もちろん彼女があの話をする理由はある。過酷な国境越えの体験を披露することで、不法滞在者と呼ばれる彼らが、いかにしてアメリカへやってきたのかを説明するためだ。命をかけてこの地へやってきた自分たちを国は追い出すのか。そんなことが許されるのかと問いかける役目が彼女にはあり、それは、この映画が暗に示すテーマでもあるのだろう。多様性を破壊する権力への抵抗。でもそんな正当な理由が見えなくなるほどに、彼女の語りはもはや語り部の域に達していて、ワイズマンが見せようとする「アメリカ」の形をすら逸脱する。そして映画が輝くのはむしろ、こうした、あるひとつの大きな物語から逸脱する瞬間だ。彼女の物語は、これから先も語り次がれていくに違いない。そして何度も何度も語られていくうちに、物語は徐々に変容していくはずだ。西さんが死ぬまでつくり続けた「浦島太郎」のように。

『13回の新月がある年に』©2015 STUDIOCANAL GmbH. All Rights reserved.
『13回の新月がある年に』©2015 STUDIOCANAL GmbH. All Rights reserved.

ファスビンダーの映画はいつだって過剰で、大仰な虚構の連続で、誇張された造形や装飾が、心地よい不快さへと誘ってくれる。ファスビンダー映画の魅力は、そうした過剰なイメージにこそあるのだとずっと思っていた。でも今回『13回の新月がある年に』を見直して、彼の作品はむしろ言葉の映画、語りの映画なのではと思った。もちろん物言わぬ映像の連鎖はどれも素晴らしく映画的だ。冒頭、男に金で買われた男娼が、相手の下着の中にゆっくりと手を差しいれる。だが次の瞬間、それが男ではないことに気づき激高する。男娼を買ったのはエルヴィラ。かつて男性から女性に性転換したものの、男がほしくなると男装をして男を買いにくるという。その言葉に、男たちは怒り狂い、エルヴィラに暴行を加える。ほとんど言葉のない冒頭シーンだけで、この映画を傑作だと言いたくなる。

13回の新月がある年に ©2015 STUDIOCANAL GmbH. All Rights reserved.
『13回の新月がある年に』©2015 STUDIOCANAL GmbH. All Rights reserved.

それにもかかわらず、これはやはり言葉の映画なのだ。映画の登場人物たちはみな、聞き手を持たず、一人語りをし続ける。暴行され、同棲していたクリストフにも去られたエルヴィラは、友人のツォラとともに精肉工場へと足を踏み入れる。首を切られ、血を抜かれ、皮を剥がれる牛たちの死体の間を歩きながら、エルヴィラは、かつて自分が精肉業の仕事をしていたときのこと、イレーネとの結婚と娘の誕生までの経緯、クリストフとの出会いについて滔々と語ってきかせる。その語りは、エルヴィラがかつてエルヴィンだった時代に世話をされた修道院のシスター・グドルンに引き継がれる。シスターが語るのは、エルヴィラが忘れてしまった過去の話。エルヴィンという名の少年が、どのようにして母に捨てられ、たった一度の幸福になれるチャンスを奪われたのかについての物語だ。

『第三世代』©2015 STUDIOCANAL GmbH. All Rights reserved.
『第三世代』©2015 STUDIOCANAL GmbH. All Rights reserved.

恍惚とした語りの映画である『13回の新月がある年に』に対して、大義なく活動するテロリストたちの右往左往を描いた『第三世代』は、一切の語りを拒絶する。薬物依存症の若い女イルゼを探しに来た、軍隊帰りのフランツは、自分がイルゼの元を訪ねた理由を話そうとするがうまく話せない。「話そうとするといつも違う話になる」と彼は笑う。登場人物たちみんなの出自も過去も、ここでは何もわからない。誰も自分について説明しようとせず、ただテロ活動という行為のみで人々はつながっている。

『第三世代』©2015 STUDIOCANAL GmbH. All Rights reserved.
『第三世代』©2015 STUDIOCANAL GmbH. All Rights reserved.

自分が性転換するきっかけとなった男アントン・ザイツと再会した後、再びイレーネたちに一緒に暮らしたいと告白したエルヴィラは、しかしそれがもう叶わない夢だと悟る。行き場をなくした彼女は、以前、自分のインタビューをしてくれた記者のもとを訪ね、「今夜、もう一度自分の話を聞いてほしい」と頼む。だが雑誌記者の男は、「話は聞くが、また後日にしよう」と拒絶する。彼には、なぜ今夜でなければいけないのかがわからない。今夜だろうが明日だろうが同じだと信じている。でもエルヴィラにとっては違う。彼女が語るのは今夜でなければいけなかったのだ。

録音されたエルヴィラの声が部屋の中に流れるなか、映画は唐突に終わりを告げる。あまりにも空虚な終わり。エルヴィラが必死で語ろうとした自分の人生の物語を、結局、誰ひとりとして聞いてはくれない。でも実際のところ、誰が、自分の人生をうまく語れるものだろうか。語れないからこそ、人々は語り続けなければいけない。

『13回の新月のある年に』『第三世代』
10月27日(土)〜ユーロスペースにて2作品一挙ロードショー