文化盗用のボーダーラインはどこにある?

発表→炎上→撤回でネット上の話題をさらったキム・カーダシアンのKIMONO騒動。その焦点となった「文化の盗用」は、現代を生きる私たちが直面する非常に複雑な概念だ。そのボーダーラインはどこにあるのだろうか。

by MAKOTO KIKUCHI
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02 July 2019, 11:27am

キム・カーダシアンが炎上している。きっかけは6月25日に発表された、キムがプロデュースした矯正下着ブランド〈KIMONO〉だ。名前が発表されると同時にSNSでは、文化の盗用だという指摘が寄せられた。キム・カーダシアン本人のInstagram投稿には現在4万件を超えるコメントがついており、その多くが「着物」という日本の伝統衣服を名前を下着ブランドにつけたことへの批判だった。

怒りは世界に浸透中。英ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館は公式インスタで「#KimOhNo」というハッシュタグをつけて批判。京都市長の門川大門氏は、6月28日に同市の公式サイト上でキム宛の声明を出している。また日本のお笑いタレント渡辺直美は、件の投稿に「いいね」をつけたことでファンから批判を受け、謝罪文を出す事態にまで発展した。

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この商品を「Kimono」の名前で商標登録の申請を行なっていたキムだが、彼女に寄せられた数々の意見を受けて、7月1日にブランド名を撤回することを発表。今後は、新名称でブランドを展開すると宣言した。

一連の騒動で問題とされている「文化の盗用」は、英語圏でcultural appropriationとされるものであり、「盗用」というよりも「私有化」と言ったほうが感覚的には近い。「Kimono」の商標登録をするという行為は、日本語での「着物」という言葉を私有化する意味合いでも解釈できることから「文化の盗用」として批判を受けるのもうなずける。

ところで、この「文化の盗用」という概念は、基準が非常に曖昧で、白黒はっきりつけるのが難しい。そのことに、私はいつも頭を悩ませている。

アリアナ・グランデが「七輪」と書かれた漢字のタトゥーを入れたことで、「文化の盗用である」と批判を受けたことは記憶に新しい。しかし実際問題、日本在住の日本人の多くは、外国人が漢字のタトゥーを施すことになんら疑問を持たない。アリアナ・グランデのタトゥーが話題になったのは「文化の盗用」の問題ではなく、日本語で調理用の炉を指す言葉を世界の歌姫がタトゥーとして入れたという事実を面白く感じたからだ。

いまの日本において、日本人は民族的に圧倒的マジョリティだ。だからキム・カーダシアンが自身のプロデュースした補正下着を"Kimono"と呼んだところで、「着物」という言葉が指す意味は変わらない。しかし、もし自分が外国に住む日系人だったらどうだろうか? クラスメイトや職場の同僚にほぼ間違いなく知られているキム・カーダシアンに比べて、日本の伝統衣服である「着物」の認知度はしれているだろう。言葉の印象は容易に塗り替えられ、"Kimono"が「補正下着の名前をした民族衣装」くらいの位置づけになってしまうかもしれない。

これまで日本は、文化を「盗用される側」として取りあげられることが多かった。今回のKIMONO騒動にしろ、アリアナ・グランデのタトゥーにしろ、例を挙げればキリがない。しかしながら日本人である私たちも「盗用する側」になり得る。渋谷のハロウィーンでよく見かける他の民族に扮したコスプレを不快に感じる外国人は多いし、日本人が髪型をコーンロウにすることを「文化の盗用」と呼ぶ人も少なくない。気付かないうちに、文化を盗用している場合も往々にしてあるのだ。

数ヶ月前、私は母のクローゼットから見つけたヴィンテージのスカーフを頭に巻いて出かけようとしていた。出かける前にふと鏡をみて「これはムスリムの人に対する文化の盗用なのだろうか」という疑問が頭をよぎった。

ポリティカルな意味で「正しく」あることを個人レベルで意識することはほとんどないが、自分の行いが誰かにとっての侮辱と捉えられることへの恐れは常に抱いている。鏡を見て考えれば考えるほど、スカーフを巻いた頭で外を歩くのがなんとなく忍びないような気持ちになってきた。その日スカーフを巻いたときのインスピレーションは、あくまで「真知子巻き」だったのだけれど。

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Text Makoto Kikuchi