川久保玲の寡黙、ギャルソンの雄弁

寡黙であることで有名な川久保玲。Comme des Garcons作品と彼女自身のスタイルは、言葉以上に彼女の世界観を如実に物語っている。

by Zio Baritaux
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15 May 2017, 10:00am

Rei Kawakubo (Japanese, born 1942) for Comme des Garçons (Japanese, founded 1969); Courtesy of Comme des Garçons. Photograph by © Paolo Roversi

東京にComme des Garconsを立ち上げた1969年から、川久保玲は自身についてほとんど語ることなく現在に至っている。珍しく語ったとしても、彼女が口にする答えはきまって簡素で短く、ときに不明瞭ですらある。1988年から1991年まで年2回刊行していた雑誌『Six』においても、文字はほとんど用いられなかった。かれこれ10年以上のあいだ、彼女はカメラの前に立つことを拒み続け、数年前からはショーの後のランウェイにも姿を見せなくなった。「作品が物語るべきだと考えているのです」と、川久保の夫エイドリアン・ジョフィは、2008年に中国の『南華早報』紙とのインタビューで語っている。

川久保の作品が初めて欧米で注目されたのは1982年のことだった。パリで、「破壊」のコレクションを発表したときだ。重苦しくすべてが黒ずくめのコレクションで、引き裂かれたような大きなセーターや、くたびれた風合いのマキシスカートがモデルたちを覆っていた。評論家たちはこれを「広島シック」「原子爆弾投下後の世界」といって書き立てた。「評論家たちの見解は間違っています」と川久保は、めずらしく応じた『The Guardian』紙のインタビューで語った。「わたしが日本に生まれたのは偶然です。そこに作品との関連性はありません。戦後の日本に育ったことがいまのわたしを形成しているのはたしかです。でも、それはわたしが今この仕事をしている理由ではありません。理由はとてもパーソナルなものです。すべては内から来るものです」

川久保のコレクションは反体制、より正確にいえば、"反ファッション"と表現されるべきものだった。意図的に破壊された服は、たとえばYves Saint Laurentが作ったバラのプリントのオーガンジー・ドレスやゴールドのラメ・ドレス、彫刻のように構築されたThierry Muglerのビニール・ドレスなどとは対極にある世界観だった。川久保に作品を説明をする必要はなかった--そのコレクションが、彼女の意図を物語っていたからだ。

1997年春の「Body Meets Dress, Dress Meets Body(体が服で、服が体)」コレクションは、さらなる誤解を受けた。ランウェイを歩くモデルたちは、ギンガムチェックの布で無骨な形のパッドもろとも体を包んだようなドレスをまとっていた。体の形を意図的に歪めたこのドレスを、プレスは"こぶドレス"と呼んだ。それでも川久保はその反応に満足しているようだった。「人々が怖いと感じるなら、それは良いコレクションなんだと思います」と彼女はかつて語っている。「10年後には誰もがそれを美しいと考えるようになります」

それから約10年後となる2005年秋、川久保は「壊れた花嫁」コレクションを発表した。『Vogue』誌は、「高尚なコンセプトと美しい服--レースやフリルをふんだんに使ったロマンチックなヴィクトリア朝の世界観」とこれを絶賛した。これに対して、川久保は苛立ちをみせた。「そんなに解りやすいものを作ってしまったかと不安になります」と、彼女は『The New York Times』紙のインタビューで語っている。また、川久保はこの時期を境に、さらに寡黙さを増していった。カメラの前に立つことも、ランウェイに姿を表すこともしなくなった。

この頃、エイドリアン・ジョフィがComme des Garconsに加わった。ジョフィは現在、同社の最高責任者兼社長となっている。ランウェイに姿を表さなくなった代わりに、ジョフィが各コレクションのタイトル付けをし、ショーの後には短く完結なコメントを発表している。しかし、川久保はこれすらもやりすぎだと感じているようだ。「コレクションにはタイトルなんていらないと思っています」と、川久保は『Elle』誌とのインタビューで2016年に語っている。「ジャーナリストが求めるからつけているだけです」

現在74歳の川久保玲だが、数十年ものあいだ、自身が着る服のスタイルは変わらない。切りそろえられた前髪にボブ、黒のライダースジャケットに、黒いスカートかパンツというスタイルだ。最近は、黒のNikeスニーカーを好んで履いているようだ。着る服のほとんどは自分で作っているといい、また買い物は「ほとんど空港でしかしない」と発言している。彼女のスタイルは、彼女の性格同様に厳粛だが、しかしそこには彼女の姿勢と精神が如実に表れている。1970年代後半から80年代前半にかけて巻き起こったロンドン・パンクのシーン、自身の服の説明やインタビューを拒む姿勢、そしてすべてに疑問を投げかける"アンチ"の精神だ。そのスタイルこそが、彼女の存在を真に反映している。それは、70歳を超えても依然として説明を嫌い、型にはめられるのを嫌うからこそのスタイルなのだろう。

彼女はかつて、Comme des Garconsが、「夫の考えに振り回されないような女性のために」服を作っているのだと語っている。しかし、「フェミニストですか」と質問されるたび、彼女は「違う」と答えている。「わたしの仕事と作品は、わたしが女性であるということとまったく関係がない」と『The New York Times』紙とのインタビューで、川久保は2009年に語っている。「フェミニストではありません。そういったムーブメントに興味を持ったこともない。ただ、ものづくりを基盤とした会社を作ろうと決め、ものづくりを武器にして、挑むべき戦いに挑みたかった」

しかし、わたしたちは川久保玲の言葉を額面どおりに受け取ってはならない。彼女は、不明瞭な言葉でプレスを惑わし、謎を残し続けてきたひとなのだ。ファッションを専門的に学んだ経験がないながらも、彼女は年商2億2000万ドルの会社を築き上げ、立ち上げ当初から現在にいたるまで一貫して彼女自身がComme des Garconsの単独所有者であり続けている(夫のジョフィでさえも、1%たりともComme des Garconsの株を所有していない)。このことからも、川久保玲は--それを彼女がそう言葉で表現するかしないかは別として--事実上のフェミニストだと言えるのではないだろうか。

アーティストが自らの作品を解釈する必要がないように、川久保もまたコレクションや自身について説明する必要などない。「アートとジャーナリズムはまったく別次元のものなのです」と、『Independent』紙のコラムニスト、デヴィッド・リスターは書いている。「ときに偉大なアート作品の核が曖昧さそのものであるのに対し、ジャーナリズムにおいて曖昧さはご法度だからです」。言葉で説明してしまうことで作品も、それを見る人の体験も、限定されてしまう、とリスターは言う。「作品を作った張本人が説明してしまえば、それに反論なんてできませんから」と彼は続ける。「それ以上の想像や解釈は、そこで途絶えてしまうわけです」

しかし、アーティストの作品を説明し、文脈立ててその世界観を表現するのがキュレーターの役割だ。5月4日にニューヨークのメトロポリタン美術館で開幕した「川久保玲/コム デ ギャルソン/間の技」展のキュレーターを務めるアンドリュー・ボルトンは、まさにそれをやってのけた。「川久保玲は、自分の作品が説明されたり、定義づけされたりすることを嫌います。ただ、見て触れて体験して、それぞれに解釈してもらいたいと考えているのです」と、ボルトンは3月に行なわれた記者会見で語った。「今回のキュレーションは大きな学びとなりました。キュレーターは説明をするのが仕事ですが、Comme des Garconsの展覧会では説明したいという衝動を抑え、ただスペースのなかで服が存在するさまを見せ、主観的に解釈してもらえるよう、全体を構築していきました」

川久保も記者会見には同席していたものの、口を開くことはなかった。背筋をまっすぐに伸ばし、いつもどおりに唇をかたく結んだまま、そこに立っていた。1969年の立ち上げ以来、彼女はComme des Garconsの作品に関してほとんど説明をしてこなかった。だから、今回も説明なしで当然なのだ。彼女の作品が、すべてを物語っているのだから。

Credits


Text Zio Baritaux
Translation Shinsuke Kuriyama at WORDSBERG Inc.