Photography Ila Bêka & Louise Lemoine

なぜ今、建築映画なのか?

近年、建築を主題にした映画が増えている。「動かない」建築にカメラが向けられているのはなぜか? そして「建築映画」とは? 建築を通してみえてくる、新たな映画鑑賞の可能性を探る。

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maj 21 2018, 9:14am

Photography Ila Bêka & Louise Lemoine

日本国内外を問わず、映像を用いた建築表現がとても増えてきている。建築を表現するメディアといえばここ百年近くは写真が主流であった。もちろん、建築写真というジャンルが廃れたわけではなく、それとは全く別のものとして、建築の映像表現は成長してきている。数だけを見ても増えてきているし、その表現のバラエティも豊富になってきている。ここ数年で頻繁に開催されている建築系の展覧会においても、建築の映像を用いた展示が多く見られる。また建築界だけでなく、映画界をみても2016年の渋谷アップリンクでの建築映画祭の開催や、昨年の建築家夫婦の生活を描いた『人生フルーツ』のロングランヒットなど建築に関連した映画が注目を浴びる例も目立ってきている。建築を主題とした映画を指すことばとして「建築映画」という言葉があるが、建築映画はある意味で”流行っている”。なぜ、このような現象が起きているのだろう。

20世紀は映像の世紀と呼ばれるほどに映像文化が発展した時代だったが、21世紀に入るとさらに映像文化を取り巻く様々な技術革新がもたらされた。デジタルカメラの動画性能の向上やスマートフォンの一般化といった技術的な後押しが、映像を用いた建築表現の成長を支えていることは間違いないだろう。しかし、そもそもそういった技術革新による映像文化の発展の観点から建築映画の流行を説明するならば、ダンスだとか音楽だとかその他の芸術ジャンルを主題とした映画に関しても同じことが言えるはずである。いや、むしろダンスだとか音楽だとかに関して言えば、それこそ古くから映画のなかで主題として取り上げられてきた芸術ジャンルである。YouTubeなどの動画投稿サイトを見れば建築よりもダンスや音楽をテーマにした動画の方がはるかに多くあるはずだ(簡単な検証方法ではあるが、YouTubeで「architecture」「dance」「music」という言葉で検索したところ、ヒットした件数はそれぞれ、494万件、2億7100万件、10億6000万件だった)。

動くことのない(とされている)建築よりも、ダンスや音楽という動きのあるものを主題に選ぶ方が、「動くものを記録したい」という映画の本能的な欲求が満たされるような気がする。事実、映画の発明者と言われる二つの事例(註1)を見てみると、エジソンの発明したキネストコープではダンスやボクシングが映されていたし、リュミエール兄弟の作ったシネマトグラフでは列車の到着する様子が上映されていた。ダンス映画や音楽映画という映画のジャンルは、恋愛映画やSF映画と並んで市民権をすでにもっている。むしろ、建築映画というジャンルの登場は映画の歴史のなかで見ればあまりにも遅れている。建築は動かないのだから、写真で十分だし、なんでわざわざ動かない建築を映画で撮る必要があるのか、という指摘が容易に思い浮かぶ。しかし、現在のこの状況を裏返してみると、そんな建築でさえ映画という表現形式がその対象として描こうとしている時代がきている、ということではないだろうか。それほどに我々の視覚は写真よりも動画に対して親和性をもつようになってきている。そして、建築映画というジャンルを(仮想的にとしても)想定したときに気づくのである、世の中の大抵の映画には建築が映っていることに。建築が映っていない映画を探す方がむしろ困難なのだ。それほど、映画にとって建築は当たり前の存在なのである。つまり、世の中に存在する映画のほとんどは最初から建築映画になる可能性があるのである。しかし、そのなかでも特に建築の建築らしさを感じる映画を建築映画と呼んでいる。例えば、それは建築や都市を主題にしたビデオエッセイかもしれない。もしくは建築家の建築を紹介する映像かもしれない。もしくは、ペドロ・コスタの圧倒的な存在感を放つスラムの映像かもしれない。つまり、建築映画というジャンルの映像の生産に人類がやっと着手したのではなく、映画のなかにはじめから潜んでいた建築の存在に人類がやっと気づいたのが今なのである。

◉建築映画という言葉の意味について
さて、少し言葉の説明をないがしろにして話を進めてきたが、この「建築映画」という言葉にはその意味合いと意味の変化に関して、少しばかり説明が必要である。私の知るかぎり、「建築映画」という言葉は鈴木了二の著作『建築映画 マテリアル・サスペンス』(註2)のなかで作られた言葉で、その本のなかでのその言葉の意味をものすごく簡単に説明するならば、建築の建築らしさが映っている映画、といったような意味だった。そして、その実例として語られている内容の多くはいわゆる劇映画のなかで建築や都市がどのように描かれているかについてであった。初めてこの言葉が出てきたときにこの言葉は「有名建築が出てくる映画」という意味ではなかったし、むしろその真逆の意味だった。しかし、いつしか有名な建築物が出てくる映画とか、建築家に対するインタビューとかドキュメンタリー映画など、建築に関連する映画という意味でも「建築映画」という言葉が充てがわれるようになった。建築映画という言葉はもともとそれが示す意味を超えてキャッチーで、多くの誤用を生む便利さがあったことが、言葉の作者である鈴木了二の優れたネーミングセンスが招いたアイロニカルな結末である。

鈴木了二の示すところの「建築映画」は実際のところ映画のジャンルを示す言葉ではなく、どちらかと言えば、それは”価値観”のようなものなのではないか、と私は考えている。ある映画についてその映画がどういった目的や背景を持って作られたのか、という情報から一度目を逸らして、その映画のなかで建築や都市がどのように描かれているのか、ということに注目して映画を見るという行為を提示したのだと言える。一方、一般に言われる「建築映画」とはまさにジャンルの問題で、建築に関して描いた映画という意味で用いられることが多い。

ここでこの価値基準としての建築映画について少し補足をしておくと、この価値基準の面白さはもともとの映画の持っているジャンルを崩壊させる力にある。つまり、この価値基準を通して映画を観れば、その映画が恋愛映画なのか/ホラー映画なのか、といったストーリーにとらわれず映画をあくまで建築を表象するものとして観ることができるようになる。さらに言えば、その映画がフィクションなのか/ドキュメンタリーなのか、といった区別さえも乗り越えることができる。ドキュメンタリー/フィクションという区別はそもそも人間がその映画がどういった体(てい)でつくられたものなのか、共通認識を与えることで鑑賞の手助けをするためのガイドのようなもので、そもそも基本的にはカメラの前に建築や人間が並べられて何かをしているショットをつなぎ合わせたものを鑑賞しているという映画の原理の点では、その二つに本来差は存在しない。カメラの前に建築が存在しているという(もしくはそう錯覚させた)事実は、いずれにおいても揺るぎない。

◉建築映画の方法
言われてみれば当たり前だが、動かないものは映画のなかで目立たない。例えば、1分ほどのダンス映像のあとにダンサーがフレームアウトする。そして、そのままフィックスショットが30秒ほど続く。それを見た人はこう思うだろう「何も写っていない最後の30秒は何なのか」。映画のなかで動くダンサーと比べると、建築はあまりにも主張が弱く「何も写っていない」と扱われる。建築はよほど派手なデザインをしているとか、変な場所に建っているとかでないかぎり、映画のなかに登場しているにも関わらず、映っていないも同然として扱われる。しかし、目立つ建築が映っているから建築映画として優れているわけではない。一方で、どこにでもあるような建築物が映画のなかで、その建築がなければ表現不可能であった映画表現を可能にする瞬間がある。そういった映画表現を実現するために、時には撮影方法で、時には編集で、そして脚本で、様々な方法で映画作家は建築にアプローチすることが可能である。その方法に制約はないのだが、私のなかでなんとなく重要なのではないか、と考えている三つのポイントが存在する。

1.建築とストーリー
建築映画という価値基準はストーリーにとらわれないという話をしているが故に、真逆のことを言っているように聞こえるかもしれないが、ストーリーや解釈という側面が建築映画にとって全く無関係かといえばそうではないような気がしている。映画のなかのストーリーとはショットとショットの連続のなかに鑑賞者が見出す仮想的な世界の像であるが、ここでいうストーリーとは物語の粗筋といった意味ではなく、「設定」とか「構造」とかよばれる映画の枠組みをささえるフレームワークのようなものである。そういった深度で建築映画とストーリーは関係しているケースがある。例えば、黒沢清の商業映画デビュー作『神田川淫乱戦争』(1983)は神田川を挟んである親子と女性たちが戦いを繰り広げる物語で、神田川を挟んで向かい合うマンションという都市構造が始めから映画にインストールされている。そして、それを具現化するような向かいのマンションを覗き込む望遠のショット、神田川をセンターに挟んでフレームの両脇にマンションが並ぶショットによって、映画の構造や設定が、建築や都市を使って表現されている。映画の全体に関わらなくとも、三宅唱『Playback』(2012)のなかで主人公が過去の世界に入る際の表現としてのトンネルの通過シーン、ゴダールの『ヌーヴェルヴァーグ』(1990)の夜の洋館の外周を周るトラッキングなど(註3)、部分的に建築が映画表現に携わっている例もある。こうした建築的な映画表現はストーリーがあってこそ、その価値が見出されるものであるとも言える。

(註4)

2.建築とアクター
建築映画を語る上でもうひとつ外せない要素だと考えるものがアクターである。アクターとは大抵は役者のことなのだが、場合によっては犬や風船、ドローンなどもその役を担うことが可能である。このアクターとは動かないとされている建築に対して動くことのできる存在だ。建築物とアクターが対比されることによって、空間の広さや人間の気配の放つ雰囲気、運動のもたらすサスペンス感や、建築物の機能や意味の表現など、様々な効果を得ることができる。ビデオエッセイ『Ozu // Passageways』では人間の運動が空間に与える効果を小津安二郎の映画の通路シーン並べることで比較可能にしている。

また、キャメラは彼らを追うことで、横移動やパンを自然にすることができる。キャメラに「対象物を追いかけている」という言い訳が与えられることによって、建築物の内部空間やファサードの全面を見せることが用意になる。また、こうしたアクターの存在によって、異なる二つの空間を連続させることが可能になる。例えば内部空間をセットで撮影し、外部空間をロケーション撮影した場合など、その建築物の一体性を保持するためにアクターが重要な役割をしめることは多々ある。マヤ・デレン『カメラのための振付けの研究』(1945)のなかでは、あるダンサーが屋外の森のなかでダンスをしており、最後の動きのなかで足が大きく弧を描きながらゆっくりと振り下ろす。彼が地面に足をつけるその直前にカットが切り替わる。室内にキャメラは移り、そこにダンサーの足がフレームの左外よりのっそりと写りこんできて、床に触れる。そのショット以降、映像は室内へと場所を移す。もちろんその二つの空間が物理的に一体でないことは観客にとって自明なのだが、映画の時空間のなかでそれらはアクターの身体によって縫い合わせられる。

3.建築の運動
ここまでずっと建築が動かないという前提で話を進めてきたが、建築が動くことによって成立している建築映画も存在している。これはそんな突拍子もない話ではなくて、部分的には例えばエレベーターであるとか、エスカレーターであるとか、窓であるとか建築は動くように作られているし、されに言えばトレーラーハウスのようなものも建築としてみることが可能なので、「建築が動く映像」という方法は存在している。

例えば、建築家レム・コールハースの初期の傑作として知られる「ボルドーの住宅」を、その空間の美しさのみならず、雨漏りや使い勝手の悪さといった普段知られることのない裏側まで描いたベカ&レモアンによるドキュメンタリー『Koolhaas Houselife』(2008)では、この住宅のなかで特にシンボリックな要素であるエレベーターがフィーチャーされている。この映画は建築物と人間の関係性を描く彼らの手法が確立された最初の作品であるが、その建築物の主な案内人として家政婦に焦点が当てられていることも特記すべき点だと言える。

また建築が建てられていく様であったり、壊されていく様も「建築の運動」映画に含まれるだろう。事実こういった手法に乗っ取って高層ビルの建設のタイムラプスなどはSNSでよく目にする機会があるのではないだろうか。無自覚にもその面白さに人々は惹きつけられているように思える。1964年の東京オリンピックを記録した市川崑のドキュメンタリー『東京オリンピック』(1965)では都市のスクラップ&ビルドの様子が記録されている。2020年の東京オリンピックの準備として、東京は今都市の更新が行われている最中であり、こうした日々重ねられゆく建築の運動の記録は映像にとって疑われることのないひとつの価値であろう。


(1)エジソンは覗き穴から動画を見るキネストコープを作った。一方、リュミエール兄弟は映画館の中で上映する形式シネマトグラフを作った。参照:アン・フリードバーグ『ヴァーチャル・ウィンドウ アルベルティからマイクロソフトまで』井原慶一郎+宗洋訳、産業図書株式会社、2012年
(2)建築映画に関して(特にこの章で述べられていることの詳細)は鈴木了二『建築映画 マテリアル・サスペンス』(LIXIL出版、2013年)を読んでいただきたい。
(3)このトラッキングについては鈴木了二『建築映画 マテリアル・サスペンス』100-103ページに「ヌーヴェルバーグ・シークエンス」として詳細に記載されている。
(4) この映画『Playback』からの抜粋映像は、10+1website「「Playback」と「建築映画」 対談:鈴木了二(建築家)+三宅唱(映画監督)」で用いられたもの。
参照