写真はセラピー。fumiko imanoのユートピアを覗く。

彼女の写真は日常を記録しているよう。自身のセルフポートレートを見ても、被写体を写している写真を見ても作り込んだセットや個性を殺すようなキメポーズはない。写真には様々な彼女の想いが込められている。

|
jun 2 2017, 10:21am

アーティストfumiko imanoからは異国の雰囲気を感じた。ドット柄のロングワンピースを着て現れた彼女は人懐っこいわけではなく、でも決して人見知りでもない。これまでの経験や、作品について様々なことを快く話してくれた。おそらく大多数の"日本人"が初対面の人には話さないような困難や苦悩をさらりと言葉にする。でも時々心ここに在らずといった表情を見せ、どこかマイペース。そんな独特な空気を作っている。

写真を中心にアーティストとして活躍するfumiko imanoといえばセルフポートレートをつなぎ合わせて双子に見立てた作品だろう。最近発売した写真集『We oui!』を見てもわかるように、自己表現力が強く、ファッションフォトグラファーというより、アーティストとしてのイメージが強い。それは、おそらく若いころから抱いていた「アーティストになりたい」という彼女の想いが作品に表れているからだろう。「私は地元の大学を出ているのですが、なんとなくアーティストになりたかったんですよね。明確なヴィジョンはまだ見えていなかったんですけど(笑)」。アーティストという夢を明確にするため、彼女はロンドンに留学した。渡英後はセントラル・セント・マーチン(以下、セントマ)のファンデーションコースを受けたという。ファンデーションコースには細かな学科はなく、興味のあることを学ぶことができる。大学に入るための準備コースだ。「セントマのクラスメートはみんなネイティブスピーカーや英語が堪能な生徒ばかりだったので、英語には苦労しました。作品を発表するときも、ほとんどの生徒がコンセプトや説明ばかりに重点を置いていました。そんな中、流暢な英語が話せなかった私はパフォーマンス形式の発表をしていました。卵投げたりしていたな」と当時の苦悩も今では楽しい思い出話のように話してくれた。

意外にも、彼女が初め興味を抱いたのは写真ではなくスカルプチャーだった。「ファンデーションコースが終わったらチェルシー・カレッジ・オブ・アーツのスカルプチャーコースへの進学を志望していました。でも、セントマの推薦入学の話を先生から聞き、試しに受けてみたんです。そうしたら受かってしまって(笑)。結局セントマのBAファインアートに入りました。セントマのBAはスカルプチャーやフォトグラフィーなど細かく学科が分かれていましたが、私がBAに入学した年から学科が統合され、ファインアートになったんですよ」。

渡英前から趣味で写真を撮っていたというが、本格的に写真に興味を抱き始めたのはセントマにいたころ。「BAファインアートではスカルプチャーを作ったり、髪でドレスを作り男性に着せたりしていたのですが、作品を撮影する必要があったんです。趣味以外で写真を撮り始めたのはそのとき。当時はまだフィルムが主流だったので、フィルムカメラで撮影していました。暗室にもそのころから出入りするようになり、写真への興味が強まりました」。自分の表現したいことを様々な作品を通して形にしていたように感じるが、彼女にとってセントマという環境の中で勉強することは苦悩でもあったという。「全くアートを学んだこともなく、経験ゼロの私は何をしたらいいのか、何から始めればいいのかわかりませんでした。当時のクラスメートもみんな悩んでいたのを覚えています。これを続けて何になるんだろう?って」。そんな時、彼女がみつけたのがファッションフォトグラフィーだった。「正直、稼げそうって思いました。ファッションフォトなら "職業"として成り立つので。だからLCF(ロンドン・カレッジ・オブ・ファッション)のフォトグラフィーコースに変えたのですが、結局ファッションフォトを撮ることができなかったんです」。

「ファッションフォトを撮ることができなかった」というのは、若いがゆえに作品への強い想いや理想の形が邪魔をし、うまくファッション界が持つ特有の環境に順応できなかったということだ。多くの若者は世の中にはびこる暗黙のルールに黙って従うが、彼女は違った。「セントマで学んできたことがアートだったというのも影響していると思いますが、こうじゃなきゃいけないという作品に対する想いが強すぎましたね。私はずっと、自分の作品は自分だけじゃないと作れないという考えでした。ファッションフォトはコラボしないと完成しないので、フォトグラファーは、ヘアメイクやスタイリストと一緒に作品を作り上げる。でも私は、誰かとやると自分の作品だと思えなかったんです。それに、誰かとコラボするのが得意ではありませんでした。ヘアスタイリストやメイク、モデルを探すのも一苦労。写真を現像したり、スタジオをブッキングするのにもお金もかかる。これは大変だと思っていたときにセルフポートレートを撮り始めました。そうすればクレジットは私だけになるでしょう?ファインアート色が抜けず、どうしてもクレジットに載る名前は私だけじゃなきゃ嫌だったんです。でも先生には、これじゃファッションじゃないからファインアートに戻りなさいって言われました。泣きましたね。なんで?何がいけないの?って」。ファッションフォトを撮りたい気持ちと、作品作りに対する思いの強さが彼女の中で喧嘩していた。ファッションフォトグラファーになりたいという気持ちは決して稼げるという理由だけではない。「ファッションフォトグラファーからとてもインスパイアされていました。ユルゲン・テラーやイネス・ヴァン・ラムスウィールド&ヴィノード・マタディンが好きだし、マート&マーカスのアシスタントもしたかった。マーク・ルボンのアシスタントをしたのですが、彼からはスタイリストの方が向いていると言われてしまいました。重い荷物も持てなかったので、彼の息子(タイロン・ルボンの弟のフランク)の世話をしていましたね。ファッションフォトグラファーになりたいけど、上手くいかず、ジレンマを抱えていました。『i-D(本国)』にポートフォリオを見せ色々なアドバイスをもらったこともありました。でも仕事はもらえず、何で私じゃダメなの!?って感じていましたね」。

ジレンマを抱えつつ、ファッションフォトグラファーになりたいと夢を見続け、セルフポートレートを撮りながら、彼女は自然とファッション界のリアルな裏側に足を踏み入れていくこととなる。「ロンドンでブランドを立ち上げた夫婦デザイナー、アズミ&デービッドと知り合い、彼らが紹介してくれたのがロンドンブランドのジョー・ケイスリー・ヘイフォードでの仕事でした。そこでは商品チェックや糸切りなどをしていました。ロンドンのグリックストリートにあるセレクトショップ、ココンドウザイのオーナーがブランドのマリアン・ペジョスキー(Marjan Pejoski)を紹介してくれたこともありましたね。それからはマリアンのバックステージを撮ったり、歌手ビヨークの衣装の製作を手伝ったり、コレクションを2シーズンほど手伝いもしました。デザインの経験ゼロでしたが、こういうのって海外ならではですよね。"フミコ、絵描けるよね?やって!"と言われデッサンをしたり、"ビーズ付けて!""あれやって!これやって!!"とアトリエをフラフラ歩いていると声がかかり色々手伝っていました。あの色んなことが起こっている感じが好きだったな」となんともないように話すが、彼女が知り合ってきた人たちはロンドンのファッション界を牽引するデザイナーばかり。自然とデザインチームに加わり、器用に作業をこなしてみせる彼女の話は驚くことばかり。日本人がさりげなくその環境に溶け込んでいたことが、とても貴重なことに感じた。

デザインチームの中で色々なことをしながらもセルフポートレートを撮り続けていた。初めて自身の作品を発表したのは2002年だった。「イエールフェスティバルのフォト部門で入選しました。これまで個人的に撮り溜めていたセルフポートレートを出してみようって。5つのシリーズ作品だったのですが、その時の作品はロンドンの散らかった部屋の中で撮りました。私は裸に虎の毛布をかぶっていました。なぜそれを撮ったのかというと、当時のファッションショーでは着られない服を打ち出しているデザイナーが多かったんです。プレタポルテなのにジョン・ガリアーノがダンボールで服を作っていたり。プレタポルテなのに着られない服を発表するんだと思い、タイトルは"pret a porter?"にしました」。この入選がきっかけとなり、セルフポートレートでやっていくことを決意したのだという。

しかし、彼女を待ち受ける次なる困難が現れる。そんな中で生まれたのが双子のセルフポートレートだった。「ビザの関係で2002年に帰国しましたが、カルチャーショックや日本とイギリスのギャップに馴染めず悩んでいました」。当時の日本のファッション界は彼女が想像している世界ではなかった。「ロンドンでの経験を生かして日本でもやっていける気がしていたんですが、全く相手にされませんでした。日本ではやっていけないと精神的にも追い込まれ、そんな時に双子シリーズを撮り始めました。私はずっと子どもでいたかった。1人よりも2人で子どもでいる方が心強いでしょう? 2人なら力を合わせて思いっきり子どもでいられると思ったんです。世の中プレッシャーばかり。大人になると責任も増える。そんな思いや日本に帰ってきて撃沈していたこともあり居場所もなかったんですよね。とても辛い毎日でした。だけどとても元気な2人(私)がいて、こんなに面白いことばかり考えていたらすごく楽しく生きていける気がしました」。辛い時、彼女を支えた双子シリーズ。写真は彼女が困難に直面しているときこそ撮り続けて、彼女を支えていた大きな存在だったのかもしれない。

セルフポートレートを撮り始めてから17年ほど経つ。「自分は他人からどんな風に見えているのか気になっていました。撮り続けていくうちに私のキャラクターが確立されていきました。次第に、これが私よって胸を張れる主人公になっていましたね」と自分の姿を自分で写し、客観的に見ている。セルフポートレートは彼女にとってセラピー的な存在だ。「幼い頃、ブラジルで生活していた経験があり、日本の学校には馴染めなかった。様々なコンプレックスを抱えながら育ってきたんです。自分の姿を確かめるため、そして自分のルックスに慣れるために撮っていたんです」。彼女がかつて抱えていたコンプレックスは今や彼女の個性や自信につながっている。セルフポートレートを撮る理由の1つには撮られたいという気持ちの表れでもある。「ロンドンでの経験は私にとってかけがえのないもの。あのときロンドンでフォトジェニックと言われるようになり、"アジア人っぽい"とか"funny faceだね"という言葉があったからコンプレックスが自信へと変わっていった。その頃、『i-D』や『DAZED and CONFUSED』になどにも載りたいと思うようになり、『i-D』には3回載りました。セルフポートレートを撮る理由の中には有名になりたいという気持ちも含まれているかも」。

被写体でもあり、撮る側でもある彼女の写真に込められている様々な感情は写真を見ているだけではあまり伝わってこないかもしれない。何せ、彼女の写真に写る彼女は子供のように無邪気で明るいのだ。「女性アーティストは苦しみを表現する作品が多いような気がします。私は中絶した悲しみなどを作品にするアーティストの作品を見ても、どう捉えてればいいのかわからないし、暴力的にすら見えるときもあります。そういうのは好きじゃないし、写真とはエンターテインメントだと思っています。見る人にネガティブな感情を与えたくないですね」。日常を切り取った写真を撮ることに関しては、「セットアップすると面白いものができないので、普段の生活で面白い瞬間を撮っています。この表情がいいって感じることもありますが、その表情だけでは全部同じ顔になってしまい自然さがなくなることも。なるべく自分でシャッターを切ります。どうしてもカメラを設置できない場合は誰かにカメラを持ってもらいますが、誰かに見られていると自然さがなくなります。他人に撮られるときもどういう風に撮られているのかとても気になるんです。好みはその人によって異なりますしね」。彼女が自身を撮り続ける理由が少しわかったような気がした。自分の顔は自分が一番よくわかっているし、自分が自信を持てる一枚を撮れるのはやっぱり自分ということなのだろう。

最近は双子シリーズを撮っていないという彼女は「面白くないんです。アーティストの中には常に製作していないとダメな人と、これだと思ったものを1年に何個か作るタイプがある。私は後者ですね」とやっぱりマイペース。「今は、コラボもできるし、ファッションフォトも撮れるようになりました。これから、どうなっていくのか自分でもわかりません。セルフポートレートに関して言えば、iPhoneが普及され、インスタグラムが登場し、セルフポートレートのあり方がくつがえされてきている。何か変えるのか、ずっと同じように続けていくのか。何か新しいこともしたいけど、まだ考え中です」。次は何をしてみんなを驚かせるのか予想不可能。誰もが共感できる何気ない日常をあっと驚くような形で表現し、見る人を魅了するのだろう。

Credits


Photo Shiori Ikeno
Text Aya Tsuchii
Edit Akira Takamiya