i-Dブック・クラブ:『イディオット』

エリフ・バチューマンのデビュー小説『イディオット』は青春を描いたオートフィクション。フェイクニュースの時代にふさわしい物語だ。器用に編集したまやかしの自叙伝を、誰もが語るこの時代に。

|
jul 28 2017, 11:52am

エリフ・バチューマンの新作『イディオット(The Idiot)』の主人公はセリン。トルコ人の両親を持ちニュージャージーで育った彼女は、文学を学ぶべくハーバード大に進む。90年代のことだ。セリンの経歴は作者である39歳のエリフ・バチューマンと同じ。バチューマンは世に知られたノンフィクション作家だが、本書で小説家としてデビューした。実のところ、この本にはテーマがない。主人公のセリンによれば、この小説が描く大学1年生のあいだ、言語についてろくに学べなかったし、人に教えられるものもなかったという。だから彼女は外国人向けの英語コースで教えてみたが、生徒のホアキンが3回目の授業のあと失明する。そんなわけでセリンは何ひとつものにできない。この本にはテーマがない。恋愛小説だがセックスがない。人生の物語だが教訓がない。

この小説は主人公と著者がそっくり(どちらも題名の「イディオット(白痴)」だ)なので、オートフィクションということになる。自伝的な内容に色をつけた、基本的に一人称語りの作品。オートフィクションは間違いなく今最も人気のジャンルだ。なぜなら、テジュ・コール『オープン・シティ』(2011)、ベン・ラーナー『アトーチャ駅発(Leaving the Atocha Station)』(2011)、タオ・リン『台北(Taipei)』(2013)、レイチェル・カスク『アウトライン(Outline)』(2014)などが好評だし、オートフィクションは「真実」に対する態度を示すものだからだ。

バチューマンは5年前のインタビューで、出版社からは小説ではなくメモワール執筆を依頼されたと話している。「出版社は本当の話を欲しがるので、メモワールをよくリクエストされるんです。変な発想ですよ。彼らは、読者がもう小説に興味がないって思ってるんです。読者はニュースに溢れた時代を生き、事実(ファクト)に目を配り、真実に注意しているから」。だが知ってのとおり、5年前から変わらず小説は読まれている。これまで人間が小説に興味を持たなかったことはない、とバチューマンは思っている。むしろ、人は物語が語る世界と世界の動くありさまを味わいながら、物語を楽しんでいると信じている。その意味では、オートフィクションは「ポスト・ファクト」時代にふさわしいスタイルだ。オートフィクションが表すのは、器用に編集したまやかしの自叙伝がオンラインで語られる現代と、パーソナル・エッセイがジャーナリズムで幅を利かせている現代だ。

バチューマンの初めての著書『悪霊(The Possessed)』(2010)は、ロシア文学への愛を綴ったエッセイ集。『イディオット』の主人公セリンもロシア文学を愛している。セリンはハーバードで東欧出身の仲間と出会い、スヴェトラーナというセルビア人の少女と親しくなり、数学を学ぶ長身のイヴァンに恋に落ちる。この物語はその設定ゆえに、東海岸の大学を描いた小説の伝統とつながっている。具体的には、ニューハンプシャー州の大学を舞台にしたブレット・イーストン・エリスの『ルールズ・オブ・アトラクション』(87)、バーモント州の大学を舞台にしたドナ・タートの『黙約』(92)、ロードアイランド州のブラウン大学を舞台にしたジェフリー・ユージェニデスの『マリッジ・プロット』(11)などだ。これらの小説同様『イディオット』を読むと東海岸のエリートになって現実逃避できるし、(この小説の場合は90年代の)ノスタルジアに浸ることもできる。『イディオット』は青春を描いたオートフィクション、つまり「オート・ビルドゥングスロマン」なのだ。

『イディオット』はもともと30万字の草稿だった。バチューマンが21世紀への変わり目という大学時代の思い出が鮮明に残っていたころに書き、忘れ、別の小説を書いている間に思い出した草稿だ。彼女はそのとき書いていた小説を放り出し、忘れていた小説を書き進めていった。まるで昔に書いた恥ずかしい日記を見つけたかのようだった。しかし彼女はそれを燃やしたりはせず、国内外で出版した。こうして、若者が抱く存在への戸惑いをめぐる『イディオット』は生まれたのだ。冒頭にあるマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』(1913-27)の第2篇の引用は、不器用な若者の自然な振る舞いを賛美し、「青春期とは人が何でも学ぶことのできる唯一の時期だ」と訴えている。

セリンと、セリンが恋しているイヴァンは、顔を合わせて話すチャンスをつかめず、大学のメールで連絡しあってばかりいる。ふたりのメールは手紙のように長く、奇妙で、熱烈だ。返信がないと気持ちがもやもやしてしまう。だが、彼女はこの新しい会話の手段を気にいる。なぜなら時間をかけて言葉で自分を作り上げることができるから。新たな「書き換え」のフォームだ。作家が小説の中で自分を「書き換え」るように、セリンは自分をEメールの中で「書き換え」る。イヴァンの文章をいつまでも読んだり分析したりできるのも良かった。それはつまり、彼女が大学でやろうとしていた「テキスト分析」だ。そしてセリンは、2人のメールから物語が紡がれたと考えた。「一つ一つのメールには、前のメールが含まれていた。だから自分の言葉が自分に戻ってきた......自分が投げたすべての言葉が、舞い戻ってきた。まるで、自分と他人との関係が生んだ物語だ」

それは情報化社会の夜明けだった。Eメールは最初の大衆的コミュニケーションのフォームだ。送信した文書を残しておくこともできる。セリンにとってEメールは素晴らしいものだった。けれどもイヴァンは、Eメールは人をつなげないと考えた。彼は人の気持ちをサゲる男なのだ。「君が何か書いて、僕が別のことを書いて、君がまた別のことを書く。そんなの会話じゃないよ」。オンラインで戯れる楽しい日々(哲学のひけらかしはあってもペニスの画像は出現しない。マーク・ザッカーバーグがハーバードをドロップアウトする前の時代だ)も、断絶で損なわれるのだ。セリンはおもちゃの豚を机に飾っている児童青年精神科医にかかる。彼はセリンとイヴァンとのEメールを良く思わないばかりか、「ユナボマー」を連想すると言う(ユナボマーは、テロリストであり数学の天才でありハーバード大の卒業生。現代テクノロジーに関わる全米じゅうの人物に爆発物を送りつけた)。セリンは理由を尋ねるが、精神科医は「なぜかね、ユナボマーを思い浮かべてしまうんですよ」と答える。

そして精神科医は、その事件はコンピューターの影響と関係があるし、人は言葉の奥に思想を隠していると語った。「そのEメールのおかげで理想的な人間関係が維持できます。リスクを少しも犯さずに。でもよく考えてください、あなたはその学生のことを実は知らないんじゃないですか? 彼は実在してないかもしれませんよ」。だがセリンは、イヴァンは実在していると言い切れた。彼は同じクラスにいるのだ。

『イディオット』では、どんなことも淡々としていてユーモラスだ。セリンが友人たちとパリを訪れた場面でこんなやりとりがある。「エメリーに予定を聞くと、『犬の散歩に行こうかな』と彼女は心ここにあらずという声で答えた。スヴェトラーナがエミリーにどんな犬か尋ねた。『さあ、ただの犬』とエメリーは応えた」

そして、セリンが夏にハンガリーで英語を教えていると、ある生徒がピカソの話をした。セリンはパリでピカソ美術館を訪れていた。「クラスでは仮定法を教えた。『もし私がピカソだったら、たくさんの女性を愛するだろう』とカタリンが言った。彼女より綺麗な女の子ならそんなこと言ったりしないと私は思った。美男美女はここと違う世界の住人であり、人との付き合い方も違う。生まれたときから愛に恵まれている」

セリンは絵画のどのモチーフに一番親近感を抱くかと訊かれたとき、ピカソが描いた「ヴォーヴナルグの食卓」(1959)を想像し、キャンバスに収まりきらない大きな黒い食器棚に自分を重ね合わせる。こんなジョーク(ほとんどジョークに聞こえないが)によって、読者はこの物語(ほとんど物語らしくないが)の最後まで運ばれていくのだ。ジョークは睡蓮の葉のように浮かんでは消えていく。登場人物は、シチュエーションコメディのゲスト出演者のように、現れてはいなくなるが、あらゆる不条理を描き出すために次々に顔を出す。バチューマンが語る世界は不条理だが幸福感がある。出てくる誰もがイディオット(白痴)。物語の最後になってもまとまり感はない。

こうして物語は終わる。だが最後から2番目のページで新たな登場人物が現れる。アルという名の子供で、トルコのアンタルヤ県にある、蛇だらけの寂しげな沼地のゴルフコースにあるからっぽのホテルに住んでいる。それまでのプロットとまったく関係ない子どもで、セリンと彼女の母をゴルフカートに乗せてゴルフ場を案内する。そして、私のお気に入りのジョークが物語の最後を締めくくる。ジョークというより、可笑しくて気分がアガる書き方で書かれた3つの完璧なオチだ。

Credits


Text Dean Kissick
Images Pablo Picasso, Buffet de Vauvenargues
Translation Hiromitsu Koiso