「理想に近づいた」Dos Monosが『Dos Siki』に持ち込んだ“ズレ”の感覚

「第二の都市=Dos City」から「第二の四季=Dos Siki」へ。Dos Monos(ドスモノス)の並行世界へようこそ。

by Masashi Yoshida; photos by mayumi hosokura
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31 August 2020, 12:00am

2019年、僕たちが受け取った1枚のアルバム。それは得体の知れないアトラクションへの招待券であり、僕たちはそのサウンドトラックに導かれるままに、架空の都市を幻視した。荘子itによる、いわゆるスムースなジャジー・ヒップホップとは対極のアバンギャルドでひねくれたジャズネタ中心のブーンバップビート上で、TAITANと没との3MCによるニュースクールヒップホップの快活でイカれたマイクリレーの醍醐味満載のラップが暴れる全13曲の街並み。

ジャズネタと3MCというキーワードから、『Dos City』の想像力の源流を、90年代の黄金期のヒップホップに求めたくなるかもしれない。だが、事はそれほど単純ではなかった。

彼らが描く街並みをつぶさに眺めていくと、例えばビートたちはセロニアスモンクの楽曲がサンプリングソースとしてクレジットされているだけでなく日本の60~70年代のフリージャズのディグが反映された結果であることに行き着いたり、その上に縦横無尽に撒き散らされるリリックの中に「ジャクソンポロック」「Sun Ra」「スキゾキッズ」「アガルタ」「パンゲア」「フーリエ」といった固有名を発見したり、インタールード的に配置された「ドスゲーム」ではYMOオマージュかのように初期アーケードゲームである「サーカス」のゲームオーバー音(ショパンの『葬式行進曲』)が聞こえてくるのに気づくのだ。20代のフレッシュさとペダンチックな所作が同居する彼らの想像力は、一体どこから来ているのだろう?

「第二の都市」から「第二の四季」へ

そんな彼らから、2枚目となるアルバム『Dos Siki』が届いた。「街」から「四季」へ。空間から時間への跳躍。だがそこは彼ららしく、一筋縄ではいかない。

「例えば春だったら、頭が少しおかしくなっちゃう奴が多い季節だって没が言ったんです。で、それがテーマになりました」と荘子itは説明する。一般的な季節感から「ズレ」を伴っている。夏は没のリリックにある通り「波」「プール」「木魚」といった語を繋ぎつつ「singing in the dead of summer」というラインに象徴的であるように、遠い水平線と幽霊のイメージが交差するし、秋に至ってはタイトル通り「発情期」、冬は「氷河期」と関連付けられている。

「現代の四季って「冬に食べるアイスがうまい」みたいに混ざり合ってるじゃないですか。だから本作では和歌や日本の伝統的な季節感を踏まえつつ、そのズレ込みの現代の四季のリアリティを書いたんです。それが第二の四季=『Dos Siki』ということですね」。荘子itがそう答える通り、意図的に呼び込まれた季節感のズレこそが、四季の移ろいに潜んでいる別の導線を示してくれる。

一度再生ボタンを押せば全4曲の約15分間、耳を捉えて決して離さない四季のサウンドトラックは、そんな「ズレ」の分まで目まぐるしく移ろいゆく。『Dos City』はフリーキーなリフに乗せられて、イルでサイケデリックな狂気が充満する街路を彷徨いながら聞く音楽だった。

「Dos Cityという街の雰囲気を伝えるために、あえてどこを切り取っても均質なサウンドにしたところがあったんです」。荘子itが振り返る前作と比較すると、今作のサウンドの変化は明らかだ。「元々やりたかった理想に近づきましたね。前作は抑圧していましたが、学生時代、一時期はプログレやジャズロックに傾倒したので、そこを少し開放して展開がコロコロ変わって音数が多く、上モノが変わっているというのが今作の特徴かな」

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荘子it

ギル・エバンスやフランク・ザッパといった大所帯のバンドサウンドに傾倒していた荘子itは、愛用の音楽制作ソフトであるAbleton Liveというキャンバスに描く色数=トラック数を大幅に増加し、ズレた四季の移ろいをロック~レゲエ(元ネタは裏拍アクセントではなく「ズラして」いるという!)~ダーティサウス~サルサというように四曲でジャンル横断的に表現し、かつ一曲の中でもプログレ的に複数展開させる。

中でも「Mommoth vs. Dos Monos」の5分間が見せてくれるのは、反復を基盤とするヒップホップのビートとラップの時間軸を脱臼させるような、非凡な非線形の時間芸術だ。かつてのDos City=二番目の街は、縦にも横にも複雑さを増したビートによるいわばポストモダン建築の街区にアップデートされている。だが驚くべきは、例えばどの装飾的サウンドを取っても、しかるべき位置で、確実に機能していることだ。

「ループの快楽」のその先へ

彼らを所属レーベルDeath Bomb Arcの一員たらしめているのは、その楽曲群が複雑さにも関わらずとても「ポップな」出で立ちをしているからに違いない。それはJPEGMAFIAやclipping.の音楽が構成面や音響面で複雑な試行錯誤とマニュピレイトの果てに産み落とされているにも関わらず、いや、だからこそ、ポップな意匠をまとっていることに似ている。

なにしろ荘子itのどのビートも、かつてのクインシー・ジョーンズの言葉のように「指一本で弾けるメロディ」を伴っているのだ。「元々ギタリストだから、いかにカッコいいリフが作れるかに意識が向いているんだと思います」そう語る彼のサンプリングループは、抽象的な音で空気感を構築するよりも、その価値のあるポップなメロディを反復し刷り込むことに重心を置いている。

「そこはNirvanaの影響も大きくて、全曲リフが強力な『Nevermind』みたいに、自分も中学生の頃から音楽理論を勉強せずに強迫的に反復してしまうようなギターリフを追い求めていたんですよね」。荘子itが追求するのは、所謂カット&ペースト的なループではない。例えばサンプルとシンセ音を並列に扱うことでそれらの境界を無化しながら、両者を重ね合わせることでサンプルに潜在するメロディを抽出し、その輪郭線の太さをもコントロールする。

「気持ち良さより面白さを優先したいので、快楽を追ってどこまでも反復するという意識はなくて、差異を持ち込みたいんです。省エネの発想で反復フレーズを最大限に活かしつつも、ミニマルミュージックのように要所要所でズレを持ち込んで展開をつける感覚ですね」。確かにこのバンドマスターのタクトは、ビートミュージックの類型的な快楽主義の向こうへと、指し向けられている。

サウンドがどこまでもポップとアバンギャルドのアマルガムへと舵を切ろうとも、Dos Monosのトータルサウンドを伝統的ヒップホップの系譜の現在形に位置付けたくなるのは、彼らのマイク捌きにある。テノールの没にバリトンの荘子it、そしてフリーキーなハイピッチのTAITANによるトリオのマイクリレーは、Jurassic 5やClear Soul Forcesのようなオールドスクールからの流れを継ぐ正統派のそれをも思い起こさせる。

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中学校で出会った3人はそれぞれに音楽にハマり、ディグに勤しむ。中高男子校のガラパゴス的環境の中で、音楽への向き合い方は些か特殊だった。そんな当時の様子を、没が説明する。「例えば「レアグルーヴ」といったようなジャンル分けされたディグではなくて、YouTubeでもっと無作為にネットの海を掘る感覚でしたね。学校では周りの受験モードに絶対巻き込まれたくないと思っていて。休み時間にこの3人で、前日に発見したノイズロックなんかのギラギラした音楽の情報交換をすることだけが唯一の楽しみでした」

荘子itとTAITANはNirvanaにインスパイアされオルタナティヴロックを志向し同じバンドでそれぞれギターとドラムをプレイし、没は別のパンクバンドでドラムスティックを握った。紆余曲折の末、ギタリストだった荘子itはAphex TwinやFlying Lotusらの影響もあり打ち込みのビートメイクという手法を選択し、かつての音楽仲間だったTAITANと没に声をかけ、ふたりはラップを始める。

「まず最初に自分でラップを録音してふたりに渡して、こんな感じでやるんだよって少し背中を押した感じですね」荘子itに誘われてラップを始めたふたりは、今でも大文字の「ラッパー」という自己認識はあまりないという。確かにTAITANは前作収録の「アガルタ」の「パーカー着込んでカルマ負ったふりなら/いまだにできやしない/だからラッパー文化には決して与しない」というラインが印象的だが、このラインにはどういう意味が込められていたのだろう。

「一般的な意味のラッパーというよりも、あくまでもDos Monosという世界観の中でのラッパーという感覚です。フューチャリングで外の世界で作品を作るのも、ちょっと今は想像できないところがあるくらいで」一方の没も、ラップを選んだ理由について説明する。「元々ドラマーだし、ビートも作っていた時期もあって。LAに留学していた頃は大好きなJames Matthewというプロデューサーに会いにいったり。だからラップにはまずリズム面で惹かれるし、音楽的手法のひとつとしてとても面白いからやっているところがあります」

だがそんな3MCのヴァースの掛け合いがもたらす途方も無いヒップホップ感覚は、グローバルに通用するひとつの「言語」だ。彼らはもちろん、LAのレーベルであるDeath Bomb Arcからリリースされた彼らの音楽が、言葉というよりもフロウで聞かれる機会が多いことにも意識的だ。

例えば「Aquarius」のヴァースで顕著な粘り気のある声の「肌理」が感じられるほどの稀有な声質を持ったTAITANは、自らの発語の聞かせ方と格闘を続けている。そのこだわり具合には荘子itも突っ込みを入れるほどだ。「TAITANの場合、紙に書いたリリックをどう崩してラップするか、実際に録音で発声しながら試す感じなんです。彼は憑依型なんで、没入して100テイク以上録音を重ねることもあって、その都度PCの録音ソフトのエンターキーを押すのも大変だから自分でやってくれと(笑)」

「『Dos City』の頃はナンセンス演劇や松尾スズキを掘っていて、とにかく意味からどれだけ離れられるかを考えていたんです。別の取材でも言っていますが、「過剰なトコロテン」を目指していて。いくら量的に過剰に言葉を積み上げてもカロリーゼロ、つまり結局無意味というのが狙いだったわけです。でも今作はもう少し味付きの、自分の体液としての言葉も出しているつもりです」

確かに今作のTAITANは『Dos Siki』では同じことを繰り返さず、独特のユーモアと言語感覚に裏打ちされた言葉で四季の意味をズラしてゆく。

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TAITAN

「例えば宇多田ヒカルさんは、「『Fisrt Love』の『誰のことを思っているんだろう』という歌詞の最後の部分の発声は私にとっては『だはぁ』でしかないんだ」と言っています。同じように自分も独特の発音になることはあって。そうやって録音するときに結局発音を崩して意味が取れなくなるので、創業百年の老舗のトコロテンという感じですかね(笑)何を言ってるか分からないけど心はこもっているという」

TAITANがそう説明するように、自ら発語しながら解体していく言葉の幽霊たちは、リスナーを意味と無意味のあわいへ導いてくれる。

日本語で何を言っているのか調べたくなるくらい、ラップに音としての力を持たせたい

一方の没はどうだろう。「ドラムをやっていたからリズムに意識が行くし、言葉の面白さよりもOrganized KonfusionやCompnay Flowといったリズムが面白いものに惹かれてラップを始めました。後はJ・ディラやマドリブのようなビートメイカーのラップも好きですね」

そう語る彼のリズム感覚は、例えば前作の「バッカス」の酔って狂ったようなフロウや、今作の「Aquarius」の「cityはaquemini/四季はstankonia/月の感覚はスタッカート/真っ赤に染まるブラックバード」という白眉のラインに顕著に表れている。確かにここで言及されている『Aquemini』と『Stankonia』という傑作を持つOutkastとDos Monosを接続するのは、巧みに「組織されたノイズ=Organized Noize」であり、それはつまり「言葉の意味=リズムにとってのノイズ」こそがリズムに即して構築されるラップのあり方なのだろう。

「僕たちは英語のラップをリズムや音で聞いた後に、歌詞を調べたりすることに慣れてるじゃないですか。ありがたいことにDos Monosは海外にもたくさんリスナーがいるので、日本語で何を言っているのか調べたくなるくらい、ラップに音としての力を持たせたいですね。実際に調べてブログに書いてくれている人もいるんですけどね」と語る没は少し意外かもしれないが、好きなラッパーとしてRykeyやFEBBを挙げる。「Dos Monosへの直接的な影響はないと思うんですが、個人的には大きく影響を受けていて。自分にはないところにベタに惹かれるんですよね」

そう語る彼の今作のヴァースは、まだ開けていないいくつもの引き出しを探りながら、その瞬間の真新しさを、短いフレーズに託すようだ。これまでネットの海原で様々な音や言葉をディグってきた没から投じられる神出鬼没なフレーズ群は、El-PからFEBB、銀杏BOYZからSun-Raまでブレンダーにかけ抽出したリズムと言葉なのだ。

そして荘子itがフィバリットとするのはAesop RockやEarl Sweatshirtだ。彼らのリリシズムはもちろんのこと、その声質と音としてのラップに強く惹かれるという。「リリックの中身があるラッパーの方が音としても気持ちいいですよね。リリック自体が簡単に伝わるような内容でなくとも、本人が自分の言葉にすごく説得力を感じているから、気持ちのよいフロウが引き出されているんだと思います」

それでは、「荘子it」という名の通りコンシャスとナンセンスの間を志向する言葉は、何を伝えようとしているのだろうか。「メッセージ自体が伝わるかどうかよりも、それを伝えようとする姿勢と声色が録音されることが重要なのかなと。それは単にコンシャスなだけのラップが音楽面では面白いものでなくなってしまうことにもつながると思います」

不真面目を突きつめる真面目さ

彼が指摘するところの「コンシャス」とは、一体どういうことなのだろう。Aesop Rockと言えばSlugらと共に寓話的なリリックで知られているが、Dos Monosがアルバムに先駆けて6月にリリースされた「Fable Now」は、一見まさに「寓話」自体をテーマとしたコンシャスなラップに見える。さらにスペイン語の赤から共産党の色を示す「Rojo」や台湾の担当大臣オードリー・タンとコラボした「Civil Rap Song」のステートメントを一読すれば、これらはガチガチのコンシャス/ポリティカルラップに映るだろう。

だが荘子itはそんな憶測を喝破する。「ステートメントに従属させられてる曲なんて虚しくないですか」。確かにリリックを紐解けば、この3人はまたもや、単純な理解を拒んでいる。「一見コンシャスに見えるものをよく聞いてみたらメチャクチャ遊び心に溢れている、という可能性を提示したいんですよね。真面目さと不真面目さの境界を探っていきたいということです」

荘子itの言葉通り、彼らの音と言葉は通り一辺倒の理解には決して回収されない。本当の不真面目さは真面目さだったりする。本当に意味があるものは無意味的で、本当に音楽的なリフは非音楽的なノイズの中に浮かんでいる。アバンギャルドなのに果てし無くポップなビートと、無意味がバランスしながら組み上がったコンシャスなラップ。

元々趣味も好みも少なからず異なる3人それぞれがビートとコンセプトをゆるく共有し、誤解の回路は残しておくこと。それはリスナーへも、音楽を通したゆるい誤解に基づく理解を促すかもしれない。だから彼らは自分たちのラジオ番組を持つなど、そのチャネルの複数性も担保している。

「三人の語りも、自分たちの世界観を雄弁に示してくれるんじゃないかと。作品の言葉が、温度を伴って伝わる回路も用意したいし、作品を読み解くためのサブテクストとしても重要だと考えたんです」TAITANがそう説明すると、荘子itがすかさず補足する。「もちろん三人で駄弁っているのが本当の自分であるとも思っていなくて、作品との間に実像はあるわけなので」

「3人が外の世界ではそれぞれの趣味で活動するからこそ、Dos Monosに帰ってきたときに面白いことが起きるというグループにしたいんです」没が、力強くそう語る。

今後も面白いこと「しか」起こしてくれる気のしない3人。そんな彼らの次なる一手に、胸を踊らせないわけにはいかない。Dos=第二の=オルタナティヴな、の後につながる単語は無限にある。第二の街を闊歩しながら第二の四季のズレた豊かさに膝を叩く僕たちはまだ、その無限の入り口に立ったばかりなのかもしれない。

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