「美術史」を守るために

EU離脱を決めたイギリスに誕生した保守派政権が、大学入試テストから「美術史」を削除。カルチャーだけでなく経済にとってもアートが重要な意味を持ってきたイギリスが、これでまた一歩後退した。

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dec 5 2016, 1:35pm

18年を費やして義務教育から高等教育までを修了したイギリス国民なら、国の試験委員会がいかに無能な人間の集まりであるかを痛いほど熟知しているはずだ。その試験委員会、先日、大きな間違いをおかしてしまった。

10代の頃、一般中等教育修了証をもらうまでのあいだ、誰もが「委員会のオフィスもろとも吹き飛ばすかして、なくなってしまえばいいのに」と心の中で呪ったAQA(Assessment and Qualification Alliance:評価資格連合)だが、このAQAが先日、「美術史Aレベル(大学入試に際する全国統一テスト)の教育を廃止する」と決議・発表した。その決断の背景には、どうやら美術史教育の重要性を鑑みてのものでも、美術史教育にかかる予算の問題を熟考してのものでもなかったようだ(昨年、Aレベルの資格を受験した生徒は839人、ASレベルを受験した生徒は721人しかいなかったのだから、これに大規模な予算が必要なわけもない。ちなみに、AレベルおよびASレベルの受験者がここまで低迷した背景には、国立および私立学校の怠惰が原因としてあったようだ)。この決断を下した後、AQAはこう声明を発表した。「我々にとって最重要の使命とは、生徒たちひとりひとりが努力に見合った結果を出し、それを証明できるものを得るということです。美術史の試験が持つ複雑にして専門的な性質は、その意味において多くのリスクを呈するものであるとAQAは判断するに至りました」

硬化を続ける官僚型教育制度という背景があるにしても、今回の決断とその発表は、大目に見ても嘘八百だ。アートへの助成金は社会全体のあらゆるレベルで削減されていて、政府は市民をSTEM(Science, Technology, Engineering, and Mathematics:科学・技術・工学・数学)の勉学に励むよう恥すら捨てたかのような執拗さで煽っているのだから。今回の決断の裏にあったのは、財政的な理由と「アートを矮小化していこう」という思惑だ。しかしながら、AQAによる声明で興味深いのは、彼らが意図せずに真の思惑を言葉にしてしまったところだ。「結果」という言葉に、彼らの腐ったイデオロギーと、恥知らずの固定概念が見てとれるではないか。

美術史Aレベル排除反対に署名しよう。

私たちの世代にとって「結果」という言葉が意味するところは、旧世代のそれとは異なるのかもしれない。「結果」という言葉を耳にして胃が痛くなることも、吐き気をもよおすほどに胸が苦しくなることも、旧世代にはないのかもしれない。旧世代に与えられた教育システムは、私たちのそれとは大きく違う。かつてこの国では、大学までの教育が無償で約束されていた。そして教育システムは現代のそれのように生徒たちをがんじがらめにするような体制ではなかった。しかし結果にこだわる狂信的体制は、多くの問題を生んできた。現在25歳以下のイギリス国民に蔓延するストレスの最大要因も元を辿ればその体制が原因だし、また「不安」という状態が彼らのデフォルトの精神状態である原因も同じくそこにある。しかし、結果ですべてを測ろうとする教育体制がおかした最大の罪は、何よりも、簡単に計算や試験などで割り出せない「豊かな知識」というものを損なってしまったという点にある。スーザン・ソンタグは1966年にこう書き、50年後のイギリスを的確に予見している。「私たちは今後、歴史が続くかぎり、アートを守っていくという使命を背負わなければならない社会を作ってしまった」と。

「アートは仕事ではない」「アートは職業に結びつくスキルを育むことに繋がらない」という概念は、古い時代のものだ。「クリエイティブ業界」と聞けば、トイレットペーパーに描いた三角形を見せてコンセプチュアル・アートを語るエセ芸術家を思い浮かべるのが関の山だった、古い時代の概念だ。先日、Creative Industries Federation(創造業界連盟)が発表した調査によれば、現在のクリエイティブ業界がイギリス経済にもたらす経済効果は850億ポンドを超え、国民の11人に1人がクリエイティブ業界に関係した仕事に就いている。この結果だけ見ても、古い世代の考える「クリエイティブ業界」の認識が時代錯誤甚だしいことが分かるだろう。リーマンショックが起きた2008年以来、イギリス経済でもっとも早い回復と成長を見せているのもクリエイティブ産業だ。イギリスの繁栄において、アート、デザイン、グラフィックス、そしてもちろん美術史に関連するクリエイティブな知力・能力は絶対的重要性を持っているのだと改めて強調したい。

しかしながら、「知識の先にあるべき職業的スキル」という概念が——エンドレスとも思えるほどに試験漬けにされて好奇心が抹消されてしまう前の16歳から17歳の若者たちにとっては特に——ひとをどうにも不安にさせるのもまた確かだ。アートはアートを超える——そこにこそ価値があるのがアートであり、だからこそそれを守るのが私たちの使命であるわけだが、その手段は不完全であり、またアートの本質とそれは関係がない。「人生の何たるかを探りたい」という理由で会計学の会議に参加するものなどいないだろう。同じく、大金持ちになりたいと思ってテートモダンに足繁く通うものもいないのだ。

"アートがもたらす感動は、ひとびとをがんじがらめにする「目標」や「ゴール」などという概念と無関係だからこそ、そして経済格差や貧困が蔓延する現実世界とは無縁だからこそ、現代社会でより意味を成し、より高い価値を有しているのだ"

アートの魅力は、価値とはかけ離れたところにある。アートとは、ある意味でそこで完結するものだ。アートは意識の感性的・想像的な部分と、理論的で認知的知識のはざまに起こる洗練された魂の反応なのだ。カニエ・ウェストの言葉を借りるならば「真実を見つめ、それを表現すること」なのだ。美的体験、美、畏敬——私たちの中にある原始的な何かを満たしてくれるもの——ものによってはひとの人生を揺がすほどのインパクトを持つもの、それがアートなのだ。

レンブラントの油絵にしても、ジョージア・オキーフが描いた蘭の花にしても、マリーナ・アブラモヴィッチのパフォーマンス・アートにしても、果てはTumblrに溢れる様々な作品にしても、アートというものは人に何かしらの影響を与えるものだ。アート作品を見ても心動かされないというひともいる。そこにはいくつかの「心動かされない理由」が考えられる。ひとつは、それはアートが持ちがちな難解な表現によって、観るものが気後れ、もしくは疎外感を感じる場合だ。もうひとつ考えられる理由として、アート作品そのものが観るものに要求するある程度の文脈的知識(ハイコンテキスト)に原因がある。作品に込められた作者の意図や、作品が作られた時代と作者が見た社会などの背景を知らなければ、読み解くことが難しい作品というものがある。そういった時代的・社会的・歴史的背景を知らなければ作品を読み解くことはできないし、そこに込められたものを理解できなければ、当然ながら心動かされることなどない。いずれの場合・理由にしても、近年はアートに心を動かされない人々が増えてきている。その背景にはイギリス政府が積極的にアートの矮小化を進めている事実が影響しているだろう。そして、この流れをまたしても「美術史教育の排除」が加速させるのだ。カロリー燃焼量から1日に歩いた距離に至るまですべてが「結果」として数字で示される現代の社会にあって、アートから受ける感動は生活の中で必須の解毒剤だ。アートがもたらす感動は、人々をがんじがらめにする「目標」や「ゴール」という概念と無関係だからこそ、そして経済格差や貧困が蔓延する現実世界とは無縁だからこそ、現代社会でより意味を成し、より高い価値を有しているのだ。

そこには政治的な側面もある。ジョン・バージャーは著書『イメージ Ways of Seeing ― 視覚とメディア』の中でこう書いている。「過去から切り離された人や階級は、自分を歴史のなかに位置づけることができた人や階級よりもはるかに、人や階級として選び行動することの自由を制限されている」と。そして、「だからこそ過去の芸術のすべてが、今や政治的な問題となっているのだ」と締めくくっている。

それは体制全体の汚点だ。アートとの関わり(アクセス)を民主化することは、私たちが生きるうえで基礎としている部分がいかに危うい状態にあるかを明らかにする手がかりとなる。ひとつの例として、ハンス・ホルバインが描いた『大使たち』を見てみると良い。『大使たち』は、白人男性ふたりを描いただけの単純な絵画作品ではない。この絵が物語っているのは、ヨーロッパの階級社会が世界を変えた時代を物語り、新たに生まれた富裕層が下層階級を体制的に搾取する時代の到来を物語ると共に、そんな社会がこのような芸術作品を生んだという歴史を物語っているのだ。人間が自然の世界を捻じ曲げて美しい作品に仕立て上げて描き、しかし今日の私たちが生きる壊滅的世界へと人類を導いた執拗なまでの自然へ不遜な態度を、そこに物語っているのだ。

より現代的な解釈で説明すると、カラ・ウォーカーが2014年に発表した『シュガー・スフィンクス』が好例だろうか。表現にまつわる政治や、アート界に根付く白人至上主義、そして奴隷制度と国の剥奪という人類の歴史などを、2トンの砂糖で猫を模っただけで表現し、物語ったこの作品は、大きな議論を巻き起こした。

"アートの世界にできあがってしまったエリート主義を斜に構えて非難する声も多いが、そんなアート界を救うのは教育の排除ではない。教育へのアクセスを多角的に拡大していくことこそが、唯一の救済手段なのだ"

ホルバインの作品もウォーカーの作品も政治的な社会観を表現しており、その政治的な社会観が生む疑問が、普段は疑うことなく私たちが世界に向ける視点に、揺さぶりをかける。そんな体験は、人々が求める2%の昇給に直接的な繋がりを持たないかもしれないし、GSCE(英国の中学生が卒業時に受ける全国統一テスト)でより良い成績を取るために役立つことはないかもしれない。しかし、大切なのはそんなことではない。私たち現代人は、資本主義の名の下に、仕事と同じだけレジャーに価値を置く社会を築くことにことごとく失敗し、趣味や感性を忘れてまで、「働くために働く」という生き方を推し進めてきてしまった。人間の感性に価値が置かれる社会を国家レベルで目指す、それこそ大切なのだ。昇給も評価も、アートにはつきものだという考えもある。しかし、アートの歴史にそれは当てはまらない。Aレベルなどという資格がもらえたからといって、壮大なアート理論を真に説明できるとはかぎらないのだ。

つまるところ、歴史なくして完全な意味をなすものなど、この世には存在しないのだ。ルネッサンス時代初期の社会経済の変革と資本主義の誕生を知らなければ、ひとは『大使たち』を美しいと思わないだろうか?もちろんそんなことはない。しかし、カラ・ウォーカーの作品を前にして、黒人が搾取されてきた歴史の理解が思考と想像力のせめぎ合いをより豊かなものにするかどうかを考えてみてほしい。答えは明らかだ。

作品の真意を理解することは、アートを楽しむための必須条件ではない。そう説くのは、難解な言葉で説明したり、より多くの人々がアートを楽しむという状況を阻害する芸術家気取りのアート至上主義者を生むだけだ。しかし、そんな知識を学べるというシステムを私たちは是が非でも守りたい。アートに興味を持たない人々にも、現代を見つめ未来のヴィジョンを打ち出すために歴史にヒントを求めるアーティストにも、そのような知識へのアクセスは絶対に死守しなければならないと私たちは信じている。アートの世界にできあがってしまったエリート主義を斜に構えて非難する声も多いが、そんなアート界を救うのは教育の排除ではない。教育へのアクセスを多角的に拡大していくことこそが、唯一の救済手段なのだ。それがあって初めて批評というものが生まれ、意味をなし、アート界の立て直しが可能になるのだ。

こんな理想的な論調で美術史教育を守ろうと叫んでも、それはきっと暖簾に腕押しというものだろう。おそらく、「2016年のイギリス経済繁栄の主勢力となるのがアートだという調査結果が出ている」などと言ったほうが多くの人々の賛成を得ることができるにちがいない。しかし、私たちには自らが信じる主義を貫かねばならないときがある。人間という存在を試験や利益の名の下に執拗に数字と計算で計ろうとする勢力に立ち向かうには、つまらないイデオロギーの本質を隠すこともできない体制自体を打ち崩すべく、私たちは闘わなければならない。アートが持つ力を数字や価格、階級で測ってはならない。私たちがアートとのあいだに持つ言葉で、それを解釈し、死守していかなければならないのだ。

知識や体験として、アートとその歴史はすでに重要な存在だ。そして現代では世界を新たに形成するために重要な要素として、アートを考える動きも見られる。アートが金持ちのためのものだと思うなら、フランスのカレーにある難民キャンプを訪れてみるといい。もしくはパレスチナで地域を追われた人々の生活、あるいは身近に苦難を強いられている人たちが暮らしているなら、彼らのもとを訪れてみるといい。そこには必ず、絵を描き、ものを創り出し、その作品をまだ見ぬ歴史に残していくアーティストの卵たちがいるはずだ。イギリス政府と試験機関にはそれが解らない——この事実は、結局のところアートとその歴史の重要性よりも、彼ら官僚たちの無能さを露呈してしまっているのだ。

Credits


Text Edward Siddons
Translation Shinsuke Kuriyama at WORDSBERG Inc.