Advertisement

恋と性の振る舞い:『恋とボルバキア』 小野さやか監督インタビュー

『アヒルの子』から7年。小野さやかの最新作は、都会の恋愛を描いた群像劇。監督が、ドキュメンタリーのフィクション性や他者との関わりの中で「求められる自分」との軋轢を語る。

by Minori Suzuki
|
27 December 2017, 8:00am

「LGBT」というキャッチーなフレーズが一般的に使われるようになって久しい。L=レズビアン、G=ゲイ、B=バイセクシュアル、T=トランスジェンダーを指す。前者3つは性的指向や恋愛感情(セクシュアリティ)に、後者は性自認や性表象(ジェンダー)に関する呼称で、それぞれ概念上は異なる。いずれも、性的マイノリティ=非典型的な性を生きる人たちについてのことばだが、LGBTはあくまでその一部に過ぎない。

現在、東京・東中野にあるミニシアター・ポレポレ東中野で上映中のドキュメンタリー映画『恋とボルバキア』にも性的に非典型な性的マイノリティである人々が登場する。しかし、「LGBT」とことばでカッコにくくるような安直な理解や「受け入れている」という軽はずみな姿勢を、本作は軽々と超えており、登場人物らを観客の隣に息づかせている。ロバート・アルトマン『ショート・カッツ』やポール・トーマス・アンダーソンの『マグノリア』のように、「王子とあゆ」「みひろと井戸さん」「はずみとじゅりあん」「井上魅夜」「一子さん」という5つのパートで構成された、都会の群像劇としても傑出している。

今回、監督の小野さやか氏にインタビューをし、「リアル」を映していると理解されがちなドキュメンタリーのなかのフィクション性や、性や恋愛のファンタジー性について話を聞いた。

——2013年に『Nonfix』(フジテレビ)というドキュメンタリー番組で放送された「僕たち女の子」が本作の元になっていますよね。「女装」という切り口で製作された、きらきらとまぶしいドキュメンタリーでした。

前にラダックという会社に所属していたんですが、社長から「女装がブームだからドキュメンタリーでやってみないか」という提案があったんです。同番組で作った「原発アイドル」という作品が賞を獲ったりして、この枠で小野さやかでやろうという企画で。なので、自分の作品を作るというより「仕事として受けた」というきっかけで、取材を始めました。それで当時、「女装・ニューハーフ」を冠した「プロパガンダ」というイベント(すでに終了)に行き着いたんです。

——「プロパガンダ」を映す「僕たち女の子」のオープニングで、DJが流すダフトパンク『One More Time』をバックに、軽やかで自由そうに踊る女装の方の姿は衝撃的で、どきどきしたのを覚えています。

そういうともだちがいたわけでもないし、私にも、「女装」と言うとバカにされるような世間的なイメージがあったんです。でも「プロパガンダ」は盛り上がっていたし、若い人たちがやっているというのもおもしろく感じましたね。運営の人たちから今回の映画にも出ている井上魅夜ちゃん、王子(魔女会)、井戸隆明さんといった人たちを紹介してもらいました。

——「女装」よりも、「恋」を押し進めた物語が強く打ち出されたのが、この『恋とボルバキア』でしょうか。人間関係のすれちがいが切ない。同時に、「女装」に限らず多様な性の在り方が存在しながら、ありきたりな「性的マイノリティ」という枠に収まらないのは、小野さんが彼ら・彼女らを隣人として見て、興味を持って撮っているからでは、と考えました。

ドキュメンタリーって「いきなり撮らせてください」は無理なんですよね。関係性をきちんと築いてからということが必要。事前に取材をしていたとき、私からの質問が不快だったから、と撮影を断られた人もいました。

——わたしが劇場で観賞したのは、出演者の井戸隆明さんとのアフタートークがあった日でした。そこで刺激的で興味深かったのは、「撮る/撮られる」というせめぎ合いや、撮られる側の「見せたい自分」像と「他人に自分の一部が切り取られること」とのジレンマ、についてでした。井戸さんは、女装・ニューハーフ系のポルノ雑誌の編集者であり、アダルトビデオも撮る。ふだんは被写体を「どう見せるか?」ということを考える側だけど、今回は小野さんに撮られていたわけですよね。そこで「撮らないでくれ、とは言えない」と井戸さんは言っていました。

本作で、撮ろうかどうか検討していた人たちの中にも、自分の美しいところだけを見せたいっていう願望を抱いている人はいましたね。

——男女二元論やヘテロセクシュアル(異性愛)が当然の社会なので、性的な揺らぎのある場合、「演じる」「振る舞う」ということをどこか意識的にやっている人が少なくないですよね。そういう意味で、本作のなかであゆさんが「アイドル」という表象に向かうところは象徴的でした。作中で、作為的な構図であゆさんが振り付けを踊る、という演出を入れることで逆に、あゆさん自身のなにか私的なものが漏れ出ていたようにもおもいます。

それはとても大事な指摘だとおもいます。あゆちゃんは、知り合ったはじめのころは特に、「アイドルになりたい」と明確におもってたわけじゃないんですね。一方、撮影を始めてみると仕事場は撮れないし、お母さんがやってる飲み屋で妹ふたりといて、みたいな限られた絵しかなくて。

——映画のうえで動的なシーンが撮りづらかったわけですね。

そうです。で、人前で歌いたいとかビジュアルブックを出したいとかそういう話は聞いたので、「アイドルをやってみたら」っていう枠を設定しました。すると、カメラの前であゆちゃんもやることができたというか。歌を作ってもらったり、路上ライブをやったり。アイドルに対して「歌がヘタでもかわいいから良いか」ってあるじゃないですか。あゆちゃんが表現したいことが近年のアイドルブームっていうところにうまく収まった感じがしました。

——トランスジェンダーは、性別規範・役割を押しつけられたり、男性あるいは女性としての身体的特徴に違和感を持ち、服装や生活に切り替えたり、身体レベルで性別を移行する人もいる。しかし、そういう在り方が受け入れられる土壌は、例えば(男性から女性に性別を移行する)トランス女性なら「ニューハーフ」として水商売・風俗の世界が主だったりしますよね。だからこそ、「プロパガンダ」のような空間では、見られる自分を消費される代わりに華やかな自分こそを見てほしい、という意識に傾きがちなのかなとも考えました。そのあたりの強い自意識はアイドルの在り方に通じるとおもいます。

まさにその通りだとおもいます。ですが、私が撮りたいと依頼した出演者のみんなは、他者への関心がちゃんとあった人たちなんですね。撮られることはもちろん、他人との関わりで化学反応が起きることを引き受ける気概が感じられた。本人たちとちゃんと話したわけじゃないんですけど、「こう見せたい自分」という自意識から一旦離れて、やりとりができる人たちでしたね。映画っていう枠の中で、こちらがこんなふうに撮りたいって言うと、もっとおもしろい代案が出てきたり。

——わたしも、2012年に日本テレビのドキュメンタリー番組で1時間まるまる取り上げていただいたとき、企画段階から関わっていたこともあって、撮影中に「今何が撮られているか?」ということを強く意識していました。なので、カメラの前でわざと、ディレクターに撮影意図を問うたり、制作側が鈍感に見えるときは感情をわざと出したりしましたね。

ドキュメンタリーの出演者はプロの役者じゃないけど、「演じる自分」を強烈に自覚するとおもうんですね。どこかでカメラを意識しながらも冷静じゃなくなる部分もあって、境目は曖昧ですが。

——そうですね、「カメラがそこにある」という意識からなかなか離れられませんよね。公開されることを想定しながらしゃべったり。

でも「なりたい自分」「見せたい自分」に他者の手が加わることを恐れると、何も表現できないに等しいとおもいます。たくさんの人に観てもらって、新しい発見とか、なにかこう、考え方が変わるとか人生がこじ開けられていく、みたいな力が必ず作品には入っててほしいんです。なので出演者には、撮られるときに「自分が見せたい自分」にこだわり過ぎないようにお願いしましたね。

——たとえば一子さんなんて、さらりと衝撃的なシーンを撮らせてくれていましたよね。自意識にとらわれていないというか撮る側に委ねてくれているのがわかるから、他の出演者と比べても登場時間は少なくほとんど情報がないのに、そのひとつひとつが一子さんの映画の外の物語、背景への想像力が刺激されました。富士山との2ショットも最高でしたね(笑)。

あれは思いつきで撮ったんですよ(笑)。一子さんも他者に関心を持って、話ができる人だったから良かった。でも実は一子さんのエピソードは、関係者などからNGをたくさんくらっちゃって使えなくなったシーンも多くて、本当は撮る側としてはしんどいパートだったんです。

——とても綺麗な、あるトランス女性を追ったテレビ番組を以前見ましたが、「トランスジェンダーが辛くても生きていく」みたいなお決まりのパターンにハマっていて、見る側としては興ざめで、そのトランス女性個人への関心が持てませんでした。でも一子さんは活き活きとして愛らしいです。

決まったパターンにハマるのは傷つきたくないからかもしれません。でも、自己満足の撮影しか許してくれない人が相手だと、パワーバランスでこちらが上になっちゃうし、そのうえ冷めた目でしか撮れないので……。ドキュメンタリーははじめに方法論があって、物語を計算して撮っていくんですね。でも『恋とボルバキア』は逆で、出演者のみんなには、「自分の物語の主人公である」っていうことを自覚してもらったうえで、あなたのやりたくないことはやらせませんからできるだけおもしろいことをいっしょにやりませんか? と、ストーリーラインをどうするか主体性に委ね、そこに乗っからせてもらったんですね。

——みひろさんは井戸さんとの恋愛模様を撮ったけど、他の人だとそのテーマだと弱いかもしれない……みたいな感じで練っていったんでしょうか?

そうですね。ただ、出演者はみんな家族、恋愛、仕事といった要素をそれぞれ持っているけど、そのすべてを見せられるわけじゃなかったんですね。あゆちゃんは恋愛面が曖昧だったし。その制限の中で印象深い、いちばんおもしろい状態で映画に落とし込めるかっていうことをいっしょに作業しました。主人公のみんなは、自己実現やなりたい自分を模索するなかで、どこか孤独なんですよ。だからこそ、他者との関わりの中で「求められる自分」との軋轢、ぶつかりをできるだけ両方入れよう、っていうのは編集でも意識していましたね。

——はずみさんと樹梨杏(じゅりあん)さんのエピソードはまさにそのすれ違いが捉えられていますが、肝心の「本心」はなかなか言葉にならない。

撮られたくないことってやっぱりあるんですよね。今回出ている人のエピソードで使えないものができただけじゃなく、別の出演予定者がいて、海外まで行って撮影したエピソードに対してまるまるNGが出て削らなきゃいけなくなったこともありました。かなり計算して良いものが撮れてたのに……、とダメージも大きかった。でもそこで腹をくくったというか、撮れたものだけで作るんだっていう覚悟を決めたんです。

——なんとか形にしたいっていう意地を感じますね。作品では、抜け落ちているエピソードや情報の不在が感じられましたが、それが余計に映画の外の世界を豊かに想像させました。

本作は特に、同じ世界に登場しない、ストーリーが絡まないのに主人公が多い。そういう映画の成功例ってぜんぜんないんですね。だから、ひとりかふたりエピソードを抜けばっていう、スタッフからのアドバイスもあったんですが、私は誰ひとり落としたくなかったんです。だってみんな長いあいだ傷つきながら撮らせてくれたから。それがわかるのは、直接関係性を築いてきた私だけで、みんなの撮らせたくない部分を撮らせてもらった恩義を感じていたし、なんとしてでも形にするって考えていましたね。そういうすごく不自由な世界を物語にしたんですね。言い訳してるみたいでやなんですけど(笑)。

——本作では「家族」というテーマもうかがえました。しかし、どれも典型的な「夫婦と子ども」のような枠には収まっていません。みひろさんは女装姿を両親に見せ、あゆさんは母親が働きづめだから妹たちの母親がわりで、一子さんは妻子を養っている。はずみさんと樹梨杏さんのすれ違いは、家族観をめぐるものですよね。みんなジェンダーやセクシュアリティを越境しているのに、どこか不自由そうにも見えます。

今おもえば、私がドキュメンタリーの洗礼を受けた原一男監督の『極私的エロス 恋歌1974』、平野勝之監督の『由美香』などは、既存の「家族」っていう形態を映画のなかで破壊している作品で、個人的に大事なテーマなのかもしれません。あと、生まれたときや子どものころって、誰も将来どういう風になるかなんて全くわからないじゃないですか。こういう人生を歩むなんて想像もしない。なんで生まれてきたんだろうっていう悲しさというかおかしさというか……出演者のみんなにもそういう葛藤があって、でも生まれてきてこういう人生を辿ってきた、っていうことを映画で描きたかったんです。

——ヘテロセクシュアルやシスジェンダー(性別に違和感、疑問を持たない)男性/女性という典型だけではなく、実は誰もがグラデーションのなかにあることが本作では示されているとおもいます。そこでカテゴライズする「わかってるよ」という傲慢さが本作には感じられません。現実逃避のように女装を始めたみひろさんが、井戸さんを指して「お姫様になれる。この人の前だと」と言うまでになりますよね。つまり性に関するあれこれ、恋愛も実はファンタジーで成り立ってると言える。

みんなとは4年も付き合ったけど、私から見たみんなそれぞれのことは語れても、口が裂けても「わかってる」なんて言えないですよね。宣伝でも「LGBT」「クィア」みたいな言葉は一切使いませんでした。自分のことを当たり前に「男である」「女である」とおもっている、性の揺らぎを感じたことのない人にも観てもらいたいからです。だって「胸が小さかったな」とか「背が高すぎる」とか「ヒゲが濃いのがやだな」とか、多かれ少なかれ、「当たり前」の規定にハマらない何かを感じた経験のある人はいて、きっと共感できるものはあるとおもうから。

恋とボルバキア
監督・撮影・編集:小野さやか
(C)2017「恋とボルバキア」製作委員会
配給:東風 2017年/94分
ポレポレ東中野にて公開中、ほか全国順次公開

※ポレポレ東中野は12/29〜1/1は年末年始休館、1月にも監督、ゲストによるイベントも
1/7(日) 20:00回上映後 港岳彦(本作構成) × 井戸隆明
1/12(金) 20:00回上映後 阿部芙蓉美(本作語り) × 小野さやか(監督)
1/17(水) 20:00回上映後 九龍ジョー(ライター、編集者) × 小野さやか(監督)
1/19(金) 20:00回上映後 マーガレットさん(ドラァグクイーン)) × 小野さやか(監督)

Tagged:
film interviews
film interview
Koi to wolbachia
Sayaka ono