『マンチェスター・バイ・ザ・シー』:ケネス・ロナーガン監督インタビュー

第89回アカデミー賞で脚本賞と主演男優賞をW受賞した『マンチェスター・バイ・ザ・シー』。本作で脚本・監督を務めたケネス・ロナーガンが、脚本の仕上げ方、ありきたりなハッピー・エンディングへの思い、物語に沿わない音楽を選んだ理由について語る。

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12 May 2017, 7:51am

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ケネス・ロナーガンが最も関心を持っているのは、抱えきれないほど大きな状況にもがき苦しんでいる人々に対してである。第89回アカデミー賞主演男優賞と脚本賞に輝いた『マンチェスター・バイ・ザ・シー』は、喪失の深い悲しみと消え去ることのない罪悪感に打ちひしがれた脆弱な白人男性のエレジーだ。監督と脚本を務めたロナーガンは、慎ましくも真摯に人生を描く。市井の人々の心を誠実に見つめ、人生に対して忠実にあろうとする彼は、映画で安い気休めを与えることをよしとしないのだ。

本作の舞台となるのは、マサチューセッツ州の海沿いにある白人ブルーカラー労働者が多く暮らす港町。ボストン郊外にひとりで暮らすリー・チャンドラー(ケイシー・アフレック)は、アパートの便利屋として働いているが、冬のある日、兄ジョー(カイル・チャンドラー)の突然の訃報を機に故郷マンチェスター・バイ・ザ・シーに戻ることになる。リーは兄の遺言で16歳の甥パトリック(ルーカス・ヘッジズ)の後見人を任されるが、故郷に留まることは彼にとって忘れられない過去の悲劇といま一度向き合うことでもあった。

このような物語の中、ロナーガンはフラッシュバックを用いてリーの過去の出来事を徐々に開示していく。この語り口によって、映画にある種のサスペンスが生み出されると同時に、心の奥に潜めていた古傷が、それが起こった場所を訪れたことで再び蘇ってくる感覚があらわされてもいるであろう。プロデューサーであるマット・デイモンによれば、もともとは本作の物語の核である家族に関する悲劇のために故郷を去った男がその町に戻らなければならなくなるというアイデアは、俳優で本作の製作総指揮を務めるジョン・クラシンスキーからもたらされたものだという。当初はデイモンの監督デビュー作としてクラシンスキーが主演を務める構想を持った企画だったようで、ふたりはロナーガンにこのアイデアの脚本化を依頼した。

「まずふたりが持ってきたアイデアというのは、主人公リーの基本的な設定でした。それは、自ら引き起こしてしまったある事件を機にマンチェスターという自分の生まれ育った場所を後にしていたリーが、兄が亡くなったために自分の甥の保護者的な立場として戻ってくることになるというものでした。そのふたりのやりとり、関係性というのがもとにあり、私は強いアイデアがそこにあると感じました。その方向で企画を進めていたのですが、実は最初はリーのキャラクターがもっと変人っぽい性格で考えられていました。そうではなく、私はもっと普通の男である方がいいと思い、まずそこを変更しました。さらに、彼がかつて家族と幸せな生活をしていた描写や船を持っている設定なども加えました。また、当初は9~10歳のイメージだった甥の年齢もティーンに引き上げました。自分が綴ることができる物語を書き進めるために、自分がいいものを書き進められるようにしていく中で、自然とそのような変更が生まれてきたのです。とにかく自分が面白く興味深いと思えるような内容を突き詰めていった結果、こういう映画になりました」

しかし、本作はクラシンスキーとデイモン──『プロミスト・ランド』(2012)の脚本も手がけたふたり──による原案であるにも関わらず、興味深いことに、ロナーガンの過去の監督作とモチーフや設定に通じるものが見受けられる。故郷に帰ってくる男、そして彼と甥との交流という意味では第1作目『ユー・キャン・カウント・オン・ミー』(2000)に、また、自らの過失で起こした贖えない罪と罪悪感という面では一個人を通して911以降のアメリカについて比喩的に物語った力作『マーガレット』(2011)を彷彿とさせるのだ。

「ストーリーやテーマの部分でたしかにそういったものに惹かれてる部分はあるのかもしれません。自分自身でもそれらの要素が何度も登場することは自覚してもいます。周りから色々な企画を持ち込まれますが、自分の触手が動くものであったり、これは自分だったらいいものができると思う作品はそんなにあるわけではなく、たまたま今回はそう思える企画でした。しかし、なぜそれに興味を持つのかということ自体は正直に言って自分でもよくわかりません。また、何度も繰り返されるテーマの面で付け加えるならば、私は人の面倒を見る人々、人の生きる環境の違い、あるいは少し対抗した立場にある人々が同意はできないけれどお互いの主張は理解できるというような人間関係に興味があります。異なる生活や生き方をしている中で他者との出会いから生まれる変化に惹かれるものを感じるのです」

思い返してみれば、『ユー・キャン・カウント・オン・ミー』でロナーガン自身が演じる神父は、生活の中で人との関わりを持つ意義を説いていた。レナ・ダナムやジャド・アパトーの作品の撮影監督も務めてきたジョディ・リー・ライプスによるカメラは、寒々しく重い曇天のマンチェスターを深い悲しみの色で見事に捉えている。しかし一見、デリケートでシリアスな題材を扱っている本作においても、まさにリーとパトリックという対照的なふたりのやりとりの中から生まれるユーモアが大きな役割を果たしている。

「私はいつも自分の作品の中でユーモアを上手く使っていきたいと思っています。もともとユーモアやジョークはすごく好きで、私にとってはユーモアがない作品は成功とは呼べません。ユーモアとドラマを対比して語る人もいるけれど、私はほぼ同じものでそれは不可分だと思っています。そこにはほとんど違いはない。私の好きな映画の中にユーモアがないものなんて1本もありません。逆に私の好きなコメディの中には、直接的なドラマや感動ではなかったとしても、エモーショナルな側面がない映画はないと思っています」

そう、『マンチェスター・バイ・ザ・シー』の美点は、メランコリーの深みの中にユーモアやウィットがあることだ。その意味において、わがままで不埒ないかにもティーンエイジャーらしい少年パトリックの存在は貴重だ。ホッケー部で活躍し、同級生とガレージ・バンドを組んで楽しみ、そしてふたりのガールフレンドと交際する──とりあえずいまだけが大切で学園生活を大いに謳歌する活発な彼と、十代の少年を扱う方法がわからない無愛想でスタティックなリーとのギャップにはおかしみが豊かに滲み出ている。ふたりは親と子というよりもバディとして友情に似た関係を築くのだ。

ここで注目したいのは、パトリックの部屋の壁には、ボストンに拠点を置くブリッジ・ナイン・レコーズやそのB9に所属するポーラー・ベアー・クラブのアルバム『Clash Battle Guilt Pride』のポスターが貼られていることだ。これはマンチェスターに住むハードコア・パンク好きの若者の描写として行き届いたディテールだろう。どのようにしてパトリックというキャラクターを生み出したのだろうか。

「つまらない答えをしたくはないのですが、通常は自分の頭の中でクリアにその画が見えていればそれで十分に書くことができます。ただパトリックの場合は、私にとって彼が楽しい生活を送っている幸せな少年だという風に見せることはすごく重要なことでした。たしかに彼は父親を亡くし、母親もアルコールで精神面が不安定な問題などを抱えた環境にはありますが、たとえば彼も鬱屈した人間で誰かの助けを必要としているようなキャラクターだと、そこにはストーリーはないと思いました。今回の物語でメインとなる葛藤は、自分の住んでいる場所に戻りたいリーとそこに残りたいパトリックのあいだにあるわけで、そのためにはパトリックはなぜ残りたいのかを考えていく必要がありました。彼がマンチェスターに留まっていたいのであれば、そこには残りたいと思わせる幸せなものがある。そう考えて描いていきました。全体的にもうすでに鬱な要素はたくさんあったので、全員がそういう状態だとちょっともたないと思いましたし、それでは映画にならないだろうと考えました」

リーは、自らに課した贖罪を生きるかのように憂鬱に日々を過ごしている。通常、多くのアメリカ映画では苦難は乗り越えられるべきものとしてあり、物語の終盤には魔法のような劇的な出来事によって主人公のトラウマや過去の傷は治癒されるはずだが、しかし、この作品では映画的な安易な解決やいつわりの救いがもたらされることはない。ロナーガンの志向するリアリズムはある種アンチ・クライマティックとも言えるほどで、それはハリウッドの中ではとりわけ異質で独特な作劇と言えるだろう。

「たしかに商業的ないまのアメリカ映画にはそういう部分がすごくあると思います。とはいえ、それがきちんと上手に作られていれば、幸せなエンディングを迎える映画であることに何の問題もありません。ですが、それがすごく下手なやり方で自動的にハッピー・エンディングに至るような作品、あるいはすべてを解決しないと観客が喜んでくれないのではないかという恐れから作られているような映画は全く好ましく思えません。なぜならそれは映画作りの正しいあり方ではないし、観客に対しても、人間というものに対しても失礼な行為だと思うからです。もちろんハッピー・エンディング自体が間違っていると言っているわけではありません。人と違うことをあえてやろうとしているわけでもないですし、ただ自分のやり方を全うしていくとこういう映画になっているだけです。だって、自分の人生の中で触れる様々な状況が商業映画で見るようなハッピー・エンディングになっていないのに、何でそれを自分の映画で描かなければいけないのでしょうか。ただしかし、私の3本の監督作品を見ても、『ユー・キャン・カウント・オン・ミー』の姉弟は映画の冒頭よりもおそらくよい関係になっていると思いますし、『マーガレット』でも精神的に隔たりのあった少女と母親の関係が再び修復され、お互いをまた近しく感じられるようになっていると思います。本作でもリーは悲劇を乗り越えているわけでも、何か状況がものすごい改善したわけでもないけれども、少なくとも最初の彼と比べれば最後はより人間的になってきていると言えるでしょう。人間性を再び取り戻すことができて、そこから様々な関係がこれから育まれていくのではないかと思えるところは、"ハピアー・エンディング(happier ending)"なんじゃないかというふうに思っています」

そう、彼は、決して現実のあり方を捻じ曲げたり飾り立てたりすることはしない。ケイシー・アフレックが2013年に主演を務めた映画『セインツ 約束の果て』の監督であるデヴィッド・ロウリーは、本作を「慎ましく謙虚な傑作」と評したが、それはこの意味においてであろう。つまりそれは、現実世界に忠実であり、真摯に人生を物語るということだ。観客を信頼し、束の間の陳腐な慰めを用意することはしない。それこそが、ロナーガンの倫理的な態度である。

さらに、そのようなロナーガン独自の作劇の中で大きな意味を担っているのが、人物の感情を捉えた音楽だろう。前作『マーガレット』ではオペラが重要な役割を担っていたが、本作でも「アルビノーニのアダージョ」がリーの過去の過ちの悲痛さを一層引き立て、そして第1作以来の再タッグとなるレスリー・バーバーによる叙情的で哀愁を帯びたスコアが、無表情で寡黙なリーと対位法をなして機能している。

「どういう音楽がこの映画に合うのかわからないまま編集に取りかかりました。色々と試してみていく中で、本作には、美しくも儚さを纏ったどこか天上のような曲が必要ではないかと感じはじめました。私はいつも音楽をつけるときは、個人的に好きな曲から合わせてみてそれがマッチするかどうか試しますが、今回の場合は物語の喜劇と悲劇の上を浮遊しているような楽曲を合わせたいと考えました。どこかそれによって、物語世界に広がりのようなものを生みたかったのです。また作品が完成した後に、今回の音楽は物語に必ずしも寄り添っているわけではない、関係がないときがあることにもふと気がつきました。言わば、海のような──人間がどういう葛藤や混乱と相対していようが関係なく常にそこにある──存在だと感じたのです。と同時に非常に暴力的な部分もある物語なので、観客が少し距離を置いて観ることができるようなリラックスさせる役割も果たしてくれているのではないかと思います。もしかしたらこの作品にはそれが必要だったのかもしれません」

なるほど、あたかも本作のスコアがときに賛美歌のように胸に響くのは、それが人々の苦悩に対する神の慈悲にも似た性質を備えているからなのかもしれない。私たちは、そんなに簡単に傷は癒えるものではないことを知っている。『マンチェスター・バイ・ザ・シー』は、弱く臆病である者を糾弾しない。辛すぎて乗り越えられない過去もあることをただ認め、罪や過ちを犯した者を深い慈悲で受け入れるのである。

マンチェスター・バイ・ザ・シー
監督・脚本 ケネス・ロナーガン 出演 ケイシー・アフレック ミシェル・ウィリアムズ カイル・チャンドラー ルーカス・ヘッジズ カーラ・ヘイワード 2016年 アメリカ 137分
5月13日(土)シネスイッチ銀座、新宿武蔵野館、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国ロードショー

Credits


Text Takuya Tsunekawa