わたしはまとも

情報社会で生きるわたしたちは常に取捨選択を行なっている。テレビ番組、雑誌、ネット記事……。すべてを追うことはできないから、何かを「捨てて」何かを「選ぶ」。意識的に、または無意識的に、わたしたちは自分とは相容れない考えを遠ざけ、自分と似ている考えや心地良いと思える価値観だけに囲まれて生きているのかもしれない。世界に分断をもたらしている“見えない壁”の正体に、作家・山内マリコが迫る。

|
maj 17 2017, 9:10am

アメリカに「トランプ大統領」が誕生して度肝を抜かれた年頭。死ぬほど独善的な政策と耳を疑う数々の暴言、アメコミ映画の悪玉にしか見えない古臭いビジュアル、金の亡者の代名詞だった世界的有名人が、だだだ、大統領に……!? あまりの出来事に全世界の「我こそはまとも」を自負するリベラルな人々がずーんと落ち込んだ。事前にトランプ勝利の予想をしていたメディアが皆無だったこともあって、誰ひとり心の準備ができていなかったのだ。

しかし時々Twitterのマイ・タイムラインに、当時まだ「ヤバい候補者」でしかなかったトランプと比較して、自国の首相もけっこうそういう感じじゃん、みたいな投稿は散見された。そう、だいぶ前からけっこうそういう感じなのである。TwitterのTLは、よほど意識的に人間観察ないしフィールドワークをしようという意志のない限り、その大半が"自分にとって居心地のいい村"のようになるから、耳障りな言葉=ノイズはあまり拾えない(ときたま「こんなことを言ってる人がいますよ、信じられませんね」という断定的なコメント付きで引用リツイートされてくる程度)。われわれは、「そうだそうだ!」と思える言葉を支持し、拡散することで、それぞれが自分の村に「壁」を張り巡らせ、知らず知らずのうちにその壁を高く頑丈にして外側を見えなくしている。これはTwitterに限らず、いま全世界で起きていることでもある。

自国の首相もそういう感じだよね……という、右っちゅうか左っちゅうか、まあなんとなく自分が「まとも」だと思っている漠然とした認識を、ネットでつぶやくことはたやすいが、それを現実世界で中途半端な知り合いに問いかけるとなると、けっこう注意が必要だ。だって相手は、自分と違う政治信条の持ち主なのかもしれないのだから。もっと深くつき合いたいな、そろそろ政治面でもコンセンサスを得たいなと思う人にだけ、そっと暗号を送るようにチラつかせる。そして相手も「同じ意見です!」と意思表示してくれたら、ほっと胸をなでおろす。別に言論統制下にあるわけじゃないけど、リアルで誰かと政治のことを話すときは、よくも悪くもそういうプロセスが必要なのだという話。

先日、渋谷である人たちと食事をする機会があった。出版関係者ばかりだったし、ちょうどトランプ大統領誕生から数日後だったこともあって、話題は政治に集中。もちろんそこにいる全員が、トランプ怖い、あと自国のも……みたいな論調だった。職業柄、リベラルがデフォルトという世界である。

アメリカではエンターテインメント業界のスターが率先して候補者の応援をする風潮があるから、クリント・イーストウッドがトランプを支持してて大ショック、といった話にまじって、テイラー・スウィフトの話題も出た。同じテーブルを囲んでいる知人が、「まともな」セレブが軒並みヒラリー支持を表明するなか、政治的な発言を一貫して拒否しているテイラーを、腰抜け、みたいな感じで笑う。いまのテイラー・スウィフトは垢抜けて都会的な雰囲気、楽曲もキレキレだが、デビュー時はギター1本抱えてスタンディングマイクの前で歌うバリバリのカントリーシンガーだった。いうまでもなくカントリーは、アメリカの田舎の音楽である。

「やっぱり元々がカントリー歌手だから共和党支持じゃないとマズいのかな」「ヒラリー支持を表明したら地元のファンを敵に回すことになるもんね」。いくら現代アメリカを代表する世界的ポップスターでも、共和党支持を口にすれば「お里が知れる」、民主党を支持すれば「故郷を裏切ることになる」、というわけだ。板挟みになったあげく沈黙するテイラーを、笑う人たち。

わたしは渋谷の、なんかものすごく気取りくさった大しておいしくもないその店で、一瞬顔が死んだ。彼らは自分の「まともさ」しか眼中にないから気づいていないだろうけど、世界ってそういうものなのだ。わたしはいま小洒落た服を着て、渋谷の気取った店でワインとか飲んで調子こいてるが、生まれ育ったのは北陸の富山県というところ。富山はゴリゴリの保守県で、どんな選挙でも驚きの得票数で自民党が圧勝する。なぜならそこでは自民党を支持することが「すごくまとも」とされているから。地元でラジオパーソナリティの仕事をしているため(地方に縁のある作家でローカルラジオのDJをやってる人はけっこう多い)、いまも月に1度は帰っているけど、おそらくわたしの身近にいるあの人もあの人も、自民党に入れてる。あの人とあの人は議員と面識があるから、絶対入れてる。彼らがFacebookに、ドン引きするような内容の政治的投稿をしているのを見たこともある。でもだからといって、白い目で見たりしない。それはその人の考え方なのだ。その人の信じる「まともさ」であり、彼らはそのまともさに覆われた場所で平和に暮らしていて、この暮らしが続けばいいと願っているだけなのだ。イソップ物語にも『田舎のねずみと町のねずみ』という話があるけど、幸せと思う環境は本当に人それぞれなのだから。

保守的な人は、田舎にとどまる。そして田舎で善良に暮らしていると、どんどん保守的になっていく。だってもし進歩的な考え方をするなら、田舎なんてさっさと飛び出して、東京なりニューヨークなり宇宙なり、どんどん遠くへ行こうとするものだから。都会へ出て夢を追うことが"美談"的に奨励されている反面、誰も彼もが遠くへ行きたいわけじゃない。むしろ危険を冒して遠くへ行こうとするのは少数派だろう。そう、リベラルは少数派なのだ。

東京にいて、東京のテレビを見ていると、たまに関西で人気のある芸人さんが出てきて「東京のテレビ局は緊張する」と謙虚な感じで言っているのを目にする。東京の人はたぶん、その違いがわかってるようでわかってないと思う。同じテレビでも、東京のキー局と地方のローカル局は全然違う。放送域と規模だけでなく、内容やノリも違う。地元でテレビをつけると、関西ローカルの番組を流していることがあるけれど、もし首都圏でこの内容のまま放映されていたら、かなり問題になるんじゃないかというものも多い。関西ローカルは関西ローカルの「まともさ」を放送しているのだ。その「まともさ」は、東京基準の人にすれば、けっこうギョッとするものである。でもまあ、世の中はそういうものだ。

東京の出版関係者というものすごく偏った人種は、そのことを肌身に感じたことがおそらくないのだろう。これをニューヨークのマスコミ関係者に置き換えたら、トランプ大統領誕生の予想がまったくできなかったことと完璧に符合する。だから「まとも」フィルターをかけてトランプのヤバさを笑うことはできても、その後ろにとてつもない数の田舎者、そう、田舎者が、自分たちの暮らしを守りたいと真顔で祈っていることがわからなかったのだ。「まとも~まとも~我らはまとも~イェーイ♪」と歌うポップスターに応援されるヒラリーにどうしても共感できず、共感どころか疎外感しかなく、これ以上進歩的なことをされるのは怖いと怯える人たちの声を拾えなかったのだ。

そういった一方的なマスコミ報道と同じように、渋谷のその席上で政治の話をするとき、「ここに自分たちと違う意見の人がいるかもしれない」というエクスキューズは皆無だった。あまりにも無防備なほど、配慮はなかった。つまり、東京生まれ東京育ち、東京23区内で人生が完結している彼らが交流を持っている人はたぶん全員、自分と同じ政治信条の持ち主ってことなんだろう。政治信条どころか、少なくともある程度高いレベルで文化的な話ができる人としか口をきかないのかも。それ以外の人と話すのに時間を割くなんて、価値がないと思っているから。彼らがこもっているリベラルの「村」の壁は、トランプが築こうとしているメキシコとの国境の壁よりも、分厚くて高い。

その食事会にいたもうひとりの地方出身者が、「テイラー・スウィフトの気持ちがわかる」と言い、故郷の政治的カラーと自分個人の考えとの差異に「うお~」と頭を抱えて笑っていた。けれどわたしとその人が、政治的な発言を拒否するテイラーに同情することすら、東京に生まれ育った彼らは無意識に、「テイラーの気持ちがわかるんだね(笑)」と、小バカにしてしまっていた。「都会の人は冷たい」なんていかにも紋切型なイメージだが、ある意味正しい。彼らは複雑な思いを抱かせる故郷がない分、鈍感なところがあるから。おそらくテイラー・スウィフトも、頻繁にこういう目に遭ってるんだろうな。「あ、いまさり気なくバカにされた」「あ、いまこの人たちとの間に壁を感じる」「ああ、都会にしかいない人って、なんも見えてなくて、気楽だな」って。

そう、わたしたちは分断されているのだ、なーんて言い切ることの、快感。Twitterには、あの手この手で持論を展開し、なんか気持ちよくなっちゃってる言葉が転がる。

宗教しかり、国家しかり、個人しかり。世界中の人がそれぞれの「まともさ」を信じて疑わない。まともさに正解はないのに、自分のまともさを主張するあまり、戦争をおっ始め、陣地を奪い合ったりする。まあ、ケンカするのが好きなんだろう。ニュースを見ていると、3歳児の世界みたい、と思うことがある。甥っ子と姪っ子が正月にめっちゃケンカしているのを見たけど、あれとそっくり。「そのおもちゃ譲って!」「嫌だ譲りたくない!」「ギャー!(爆泣)」「ギャー!(爆泣)」。それを辟易しながら見守る大人たち。感情を吐き出させないと歪んだ人格に育つかも、とか、寛容さを学ばせるにはこういうプロセスも大事だしなぁ、などと考えてか、いずれの親も「うるせーバカ! ケンカすんじゃねーよクソガキ! 静かにしてろ!」みたいなことは言わず、胃に穴が空きそうな顔でなだめすかし、その争いに耐えていた。もし神様がいるとすれば、人類誕生以来ずっとそういう心境なのかもしれない。

ちょっとずつちょっとずつ、ものすごい時間をかけて人間界はよくなってきている。3歩進んで2歩下がるスピードで。ひとつの時代が終わって、また新しくひとつの時代が始まる。世界に悪がはびこり、犠牲者が大勢出て、さすがにどうかと思うという極限の事態に達してはじめて、やっと「善」が優勢に立つ。でもまたそのうち「悪」っぽいのが出てきて、何十年かかけて世界を征服するが、やがて淘汰され再び「善」の時代に……という繰り返し。そもそもいま便宜上「善」としたことを、何ととらえるかは人それぞれだ。「善」だと思ってたものが気がつけば「悪」っぽくなってたりする。逆もある。なにがなんだかもうわからない。

いまこうして偉そうに書いているわたし自身、てんで的外れかもしれない。もしくは、すごくいいことを言っているのかもしれない。「君の立場になれば君が正しい。僕の立場になれば僕が正しい」と言ったのはボブ・ディランだけど、真理だ。

その寛容さを常に持っていられるなら、世界は平和で満たされるんだろうけど、そうなったらものすごく退屈なんだろうな。ショッピングモールしか行くところのない、なんにもない田舎みたいに。

Credits


Text Mariko Yamauchi